小説 恋の思い出
今では知る人も少ないだろうが、今から半世紀ほど前の日本の書店では店主が風呂屋の番台くらいの高いところに座って店番をしていた。お客は自分の頭くらいの位置のずいぶん高いところにお金を渡して自分の頭の位置から本の入った紙袋を受け取ったものである。自然本屋の主人には頭の高い人が多かった。
わたしは小さいころからそんな本屋に頻繁に出入りしてあまり本を買わないにも関わらず結構かわいがってもらっていた。特に近所の豊田書店の主人にはかわいがってもらった。山岡荘八の家康は売れないだろうが、信長は売れるだろうと予想を当てたからである。また主人は私の高校の教科書の納入業者でもあった。豊田氏は毎年3月末には4,5日お店を閉めて奥さんと一緒に学校で教科書を売っていた。
さて、わたしの高校の時の担任は3年間をとおして植田先生という旧帝国大学の文学部を卒業したという触れ込みの国語の教師であった。現代文は書いてあることを素直に読めば講釈なんか無くてもいいように思うのだが、植田先生は大声で講釈する。週に何時間かこの大声の無駄な講釈に付き合うのは面倒であった。そのうえ時々授業中に脱線して恋愛のやり方を伝授するのである。こういうものは極めて個人的なもので、ここから導かれる教訓は他人には一切役立たない。この金輪際役立たない伝授に付き合うのはかなり苦痛であった。
噂では市の公園管理の小屋にタダで住み込み、家賃代わりに朝夕の公園内巡回の仕事をしているという話である。もう不惑を超えているのに独身である。ただしなかなかの男前である。クラスメートの一人に新聞屋の息子がいて、その同級生の話によると彼のお父さんが公園管理の小屋に新聞の売り込みに行ったところ「自分は漢字が読めませんので。」と断ったという話である。頭はよく回るが吝嗇家でもある。さらに別の噂によると、依頼があるわけでもないのに自分の恋の思い出をご苦労にも私小説に執筆中だという。
さて、無事高校を卒業し植田先生の束縛から脱して大学一年生の夏に帰省した時の話である。アブラゼミがジージーとうるさく鳴く中を久しぶりに豊田書店に入ると大きさは変化ないのに、なんだかお店が小さく感じたのはわたしが大きな都会の本屋に出入りするようになったからであろう。主人はわたしの顔を見るなり高い番台の上から大きな紙袋を下げ渡して、こう言うのである。
「これもろといてくれ。あんたの担任の書いた本や。こんなもん置いといたら埃かぶるし場所ふさぎになってかなわんのや。」
紙袋の中には、植田先生の書いた私小説が20冊くらい入っていた、おそらく自費出版したのであろう。知り合いの豊田書店へ頼み込んでおかせてもらってるに相違ない。わたしは読む気はしなかったが、せっかくだからそれを受け取った。美麗な箱入りで一冊750円である。ずしりとした紙袋を受け取った瞬間よいアイデアが湧いた、古本屋に持っていくのである。わたしは、学食でいつも素うどんを食べざるを得なかった。一度だけ学食のおばちゃんが、「今日は余ってるから。」と言いながらてんぷらを乗せてくれたことがあってそれが素うどん以外の唯一である。もし一冊10円で売れれば、夏休み明けには一番高いAランチを食することができる。ハンバーグに目玉焼きがついているのである。もちろん山盛りの御飯に味噌汁もついている。
豊田書店の斜め前には大学堂という大きな古本屋があったがさすがにここへ持ち込むのは気が引けた。駅を越えてずーと歩かねばならないが、酒呑童子古書店というのがあった。そこへ持ち込んだ。義経弁慶くらいなら負け戦の大将でも店の名前にするにいいけれど、酒呑童子とはこれからちょっとお店がたちいかなくなるのではないかと心配になってくるがまあ他人事だからどうでもいいことである。入っていくと店の主人は鼻の頭の赤い人で、ここから店の名前の由来は理解できたしこのお店の将来も想像できる。
お酒の好きな人のようだから、きっと値段の査定はおおらかであると期待したが残念であった。主人は本の作者名を一瞥しただけで中は見ないで「タダでも引き取れない。」と言い放った。わたしはAランチを食い損ねた。植田先生の力作は長くわたしの実家の勉強部屋に埃をかぶったまま積まれていたが、その後どこかへ行方不明になってしまった。真偽はわからないが植田先生は学校を辞めて外国へ行ったという話である。その後の消息も知る人もいない。豊田書店はお孫さんらしい人が引き継いでいる。さすがに風呂屋の番台みたいなのは廃止になったようである。酒呑童子古書店は近くまで行くこともないからどうなったか知らない。
植田先生の恋の思い出はもうどこにもない。わたしは、あの箱入りの本を取り出すことさえしなかったことを今になって少し後悔している。せめてパラパラと見るだけでもしてあげればよかった。気の毒なことをしてしまった。わたしは今ではAランチ以上の御馳走を毎日毎食食べることができるようになった。こうなってみると、恋の思い出に生きられた人のことが少しく羨ましく思えてくるものである。御馳走を食べることに必死であったわたしには思い出が何もないのである。