杜子春(芥川龍之介)
私はたぶん中学の時だったと思うが、杜子春の感想文を書けと言われて「門のそばに立って仙人から宝物のありかを教えてもらったというが、そうではないだろう。実際は門を行く人の顔を眺めているうちにお金儲けの方法を思いついて、商売を始めて二度ばかり大成功を収めたの意味だろう。それを神秘的に言わねばならないから仙人のせいにしたんだ。」という意味のことを書いて国語の教師の評判が大変悪かった。
しかし今でも私は自説の通りだと思っている。たぶん今でもだと思うが、今年の流行の服や色を予言するのに渋谷の街角にじっと立って道行く人を観察するのだそうである。流行の服がわかってそれを仕入れればかなりの儲けを出すことができる。人間観察は、お商売のまず真っ先にやるべきことである。買収とかなんとか言い出すのはそのお商売がもう成熟してあとは衰退するのみという時代に差し掛かっている証拠である、もうこれ以上大きくならないときに同業他社を買わねばならなくなる。杜子春の時代はそんな時代ではなかった。
さて、芥川の晩年の「歯車」などを読むと、杜子春のみずみずしさは片鱗もなく芥川はずいぶん苦しんでいることが見て取れる。この人書けなくなったのである。なぜ杜子春のように道行く人の顔を三日でも四日でもぼんやり眺めて、人々が何を求めているのかを観察しなかったのだろう。または谷崎潤一郎のように関東から関西へ移ってきて関西弁で小説を書くとまたしばらくは持たせることができたのにと残念でならない。
茶碗のような焼き物を焼いたり絵をかいたりする作家さんが人間観察を要するかどうか私は知らない。しかしこと小説家は人間観察業である。行き詰ったときになぜだれも忠告しなかったのだろう。菊池寛のようなまたは蔦屋重三郎のような名発行人がそばについていればよかったのにと残念でならない。ただ菊池寛と芥川とはコミュニケーションとれていたと仄聞する。