本の感想

本の感想など

断腸亭日乗でニューヨーク大暴落を読む

2025-04-05 22:22:23 | 日記

断腸亭日乗でニューヨーク大暴落を読む

 最近株の暴落がささやかれているので、この前1929年10月24日の暴落の時永井荷風はどんな経験をしたのかと断腸亭日乗のその日付けの日を探した。24日時差を考えても25日26日の記事は散髪をしたことや歌舞伎をみたことがあの特徴のある名文で書いてあるのみである。新聞で報じても読まなかったか何も感じなかったのであろうか。

 荷風さんは、芸術家であるからお金には淡白であったということは絶対ない。この日記のいたるところに出版社とのお金を巡る話が書かれている。ケチという人がいるがそうではない、好みの女の人にはどんどん使う。(好みから外れるとケチになる)がめつく儲けてきれいな女のヒトに使おうとするごく普通のタイプの人である。ただがめつさが普通の人よりやや大きいかもしれない。(どうもわれわれは芸術家は立派な人でお金のことを考えずに創作に打ち込んだヒトと美化しすぎるきらいがある。私はひそかに孔孟老荘ソクラテスなどみなごく普通の人ではないかと考えている。書いてある内容と書いた人の日常生活には大きな乖離があると思う。)

 その荷風さんがなにも書かないのであるから、10月24日の大暴落は日本にはすぐに大きな影響がなかったのかもしれない。実務に就かなかった荷風さんには関係なかったということか。

 しかし同じ年の10月2日に銀行が休業になったことが記載されている。さらに9月29日田中前首相頓死す、暗殺の風説亦頻りなりと云う、との記載がある。さらに9月19日荷風さんがお好きであったカフェー及舞踏場の弊害を論じることがおきたことを嘆いておられる。どうやら大恐慌の少し前に日本国内でも暗い世相であったことが見て取れる。大恐慌が起きたから暗くなるのではない、世相が暗くなると大恐慌が起きるということのようである。(今の日本の世相が明るいという人はまあいないであろう。)

  ところでこの2年前(1927年)の日本の金融恐慌に関しては記載が何もない。このころひどい目にあった人が一杯いると思うのだが、目に入らなかったようである。あちこち遊びまわっている。暇でいい人生をおくれた最後のヒトであろう。あやかりたいものである。


小説 恋の思い出

2025-03-20 09:26:07 | 日記

小説 恋の思い出

今では知る人も少ないだろうが、今から半世紀ほど前の日本の書店では店主が風呂屋の番台くらいの高いところに座って店番をしていた。お客は自分の頭くらいの位置のずいぶん高いところにお金を渡して自分の頭の位置から本の入った紙袋を受け取ったものである。自然本屋の主人には頭の高い人が多かった。

わたしは小さいころからそんな本屋に頻繁に出入りしてあまり本を買わないにも関わらず結構かわいがってもらっていた。特に近所の豊田書店の主人にはかわいがってもらった。山岡荘八の家康は売れないだろうが、信長は売れるだろうと予想を当てたからである。また主人は私の高校の教科書の納入業者でもあった。豊田氏は毎年3月末には4,5日お店を閉めて奥さんと一緒に学校で教科書を売っていた。

さて、わたしの高校の時の担任は3年間をとおして植田先生という旧帝国大学の文学部を卒業したという触れ込みの国語の教師であった。現代文は書いてあることを素直に読めば講釈なんか無くてもいいように思うのだが、植田先生は大声で講釈する。週に何時間かこの大声の無駄な講釈に付き合うのは面倒であった。そのうえ時々授業中に脱線して恋愛のやり方を伝授するのである。こういうものは極めて個人的なもので、ここから導かれる教訓は他人には一切役立たない。この金輪際役立たない伝授に付き合うのはかなり苦痛であった。

噂では市の公園管理の小屋にタダで住み込み、家賃代わりに朝夕の公園内巡回の仕事をしているという話である。もう不惑を超えているのに独身である。ただしなかなかの男前である。クラスメートの一人に新聞屋の息子がいて、その同級生の話によると彼のお父さんが公園管理の小屋に新聞の売り込みに行ったところ「自分は漢字が読めませんので。」と断ったという話である。頭はよく回るが吝嗇家でもある。さらに別の噂によると、依頼があるわけでもないのに自分の恋の思い出をご苦労にも私小説に執筆中だという。

さて、無事高校を卒業し植田先生の束縛から脱して大学一年生の夏に帰省した時の話である。アブラゼミがジージーとうるさく鳴く中を久しぶりに豊田書店に入ると大きさは変化ないのに、なんだかお店が小さく感じたのはわたしが大きな都会の本屋に出入りするようになったからであろう。主人はわたしの顔を見るなり高い番台の上から大きな紙袋を下げ渡して、こう言うのである。

「これもろといてくれ。あんたの担任の書いた本や。こんなもん置いといたら埃かぶるし場所ふさぎになってかなわんのや。」

紙袋の中には、植田先生の書いた私小説が20冊くらい入っていた、おそらく自費出版したのであろう。知り合いの豊田書店へ頼み込んでおかせてもらってるに相違ない。わたしは読む気はしなかったが、せっかくだからそれを受け取った。美麗な箱入りで一冊750円である。ずしりとした紙袋を受け取った瞬間よいアイデアが湧いた、古本屋に持っていくのである。わたしは、学食でいつも素うどんを食べざるを得なかった。一度だけ学食のおばちゃんが、「今日は余ってるから。」と言いながらてんぷらを乗せてくれたことがあってそれが素うどん以外の唯一である。もし一冊10円で売れれば、夏休み明けには一番高いAランチを食することができる。ハンバーグに目玉焼きがついているのである。もちろん山盛りの御飯に味噌汁もついている。

豊田書店の斜め前には大学堂という大きな古本屋があったがさすがにここへ持ち込むのは気が引けた。駅を越えてずーと歩かねばならないが、酒呑童子古書店というのがあった。そこへ持ち込んだ。義経弁慶くらいなら負け戦の大将でも店の名前にするにいいけれど、酒呑童子とはこれからちょっとお店がたちいかなくなるのではないかと心配になってくるがまあ他人事だからどうでもいいことである。入っていくと店の主人は鼻の頭の赤い人で、ここから店の名前の由来は理解できたしこのお店の将来も想像できる。

お酒の好きな人のようだから、きっと値段の査定はおおらかであると期待したが残念であった。主人は本の作者名を一瞥しただけで中は見ないで「タダでも引き取れない。」と言い放った。わたしはAランチを食い損ねた。植田先生の力作は長くわたしの実家の勉強部屋に埃をかぶったまま積まれていたが、その後どこかへ行方不明になってしまった。真偽はわからないが植田先生は学校を辞めて外国へ行ったという話である。その後の消息も知る人もいない。豊田書店はお孫さんらしい人が引き継いでいる。さすがに風呂屋の番台みたいなのは廃止になったようである。酒呑童子古書店は近くまで行くこともないからどうなったか知らない。

植田先生の恋の思い出はもうどこにもない。わたしは、あの箱入りの本を取り出すことさえしなかったことを今になって少し後悔している。せめてパラパラと見るだけでもしてあげればよかった。気の毒なことをしてしまった。わたしは今ではAランチ以上の御馳走を毎日毎食食べることができるようになった。こうなってみると、恋の思い出に生きられた人のことが少しく羨ましく思えてくるものである。御馳走を食べることに必死であったわたしには思い出が何もないのである。


新日本昔話 欲張りな殿様

2025-03-16 10:08:10 | 日記

新日本昔話 欲張りな殿様

 昔と言ってもつい三百年ほど前のことです。赤字続きの財政に悩んだ殿様が、年貢を増やす方法はないものかと臣下に相談しました。臣下は答えました。

「孔子様の言葉に小人と女子は養い難しとあります。この言葉を今後使ってはならぬと高札を立てるだけでよろしゅうございます。」

「それはまたなぜじゃ。」

「この言葉はもともとご自分の嫁さんの横暴に悩んだ孔子様が、腹立ちまぎれにつぶやいた言葉です。孔子様はそのあと男の弟子たちと放浪の旅をしてあんまり出世しなかったことは殿様もよくご存じだと思います。それを同じく嫁さんたしか呂とか言うお名前でしたがこの方の横暴に悩む漢の武帝が深く同感してついに国の教えにしてしまったのが儒教の始まりです。」

「儂も同じ立場じゃ。ならばこれは大事な教えであるぞ。これを廃止しては儂の嫁さんの横暴はとどまるところを知らぬことになる。」

「殿様はそうでも下々は別でございます。下々と殿様が同じである必要はありません。女性は潜在的に男性の何倍もの力があるのです。だから殿様も今ずいぶんつらい目にあっておられるのです。孔子様のこの言葉を廃止するだけで、下々の女性はバリバリと働くようになるのです。下々の男は苦労することになりますが、そんなことはこちらの知ったことではありません。それで年貢は何倍にもなるでしょう。恐れながら殿様は今まで通りで結構でございます。」

 次の日殿様は、領内のすべての本にある孔子のこの言葉には墨を塗れ、この言葉を喋ったものは打ち首にするとのお触れを出しました。途端に女性は何倍もの力を発揮し年貢は最初は順調に増えていきました。

 しかしです。仕事の面白さを知った女性は子供作らなくなり人口が減るという重大な副作用が出ました。さらには、男の中にはすっかり自信を失い家の中に引きこもる者まででて却って年貢が減るということも起こりました。殿様はあわてて臣下に切腹を言い渡しましたが、もうもとに戻ることはありませんでした。殿様の国は衰微してしまいました。

男の子は凛々しく、女の子はお淑やかになるように厳しく教育しないといけません。「小人と女子は養い難し」は、確かに孔子の腹立ちまぎれの一言です。しかし長い間それを国の方針にしたのにはそれなりの意味があったとみられます。わが国から遠く離れて八丈島のあたりに女護島があったそうです。また遠く希臘の地にはアマゾネスという地もあったそうです。いずれもそんなには繫栄しなかったと伝え聞きます。どんなに良いお薬でも副作用は覚悟しないといけません。


昔話 王様の失敗

2025-03-08 00:24:38 | 日記

昔話 王様の失敗 

むかしむかしあるところに小さいけれど平和で文化の高い王国がありました。王国には王様が費用を出して運営する王立の塾と、在野の学者が運営する私立の塾の二つがありました。ある日のことです、王様がお城に登って王立の塾を覗いてみると、王立塾の黒板には王様の政策が時代遅れでいけないというようなことが大きな字で書いてありました。それから千里先の話声が聞こえるという「千里耳」という機械を取り出して王立塾の会話を聞いてみると教授は学生に次のような講義をしていました。

 王様は妃のほかに数名の側室がいてこれを「嬪(ひん)」という。王様の中には定数外の「嬪」を呼び寄せる人がいてこの定数外の人を「別嬪」という。定数外だから王様は自由に選べるので、この「別嬪」にはきれいな人が多い。今お前たちがきれいな人をべっぴんと呼ぶ語源はここにある。今の王様には数名の「別嬪」がいる。ただしお前たちは王様にならない限り「別嬪」はもちろん、「嬪」も持ってはならない。

王様は頭にカーと血が上って家老を呼びつけてあの字を書いた教授とあの講義をした教授をクビにするように言いつけましたが、家老は王様が教授をクビにできないという法律があってそれはできないと答えました。王様はその夜はお気に入りの「別嬪」の部屋にもいかず一人で考え込んで次の日の朝お触れを発布しました。

お触れは意外なものでした。明日より王立塾も私立の塾も授業料(当時は束脩と呼んでいましたが)をタダとする、ただし定員割れをおこした塾には閉校を命じるというものでした。あの失礼なことを教えている塾は競争に負けて閉校になるだろうと思ったのです。

 しかし、上に政策あれば下に対策あるものです。王立塾はそれまで監獄よりひどいといわれていた食堂の御飯をホテル並みにするなどの努力を重ね、とうとう閉校にはなりませんでした。

それから二十余年後のことです。王様は年貢が急に減少した理由を家老に尋ねました。家老は答えました。

「授業料がタダになって人々が勉強しなくなって人民の教養が下がったのが原因かと。」

「おかしいではないか、タダならみなが勉強するようになるのではないのか。」

「もちろんそのような人もいます。しかし王様一個一円のおむすびと一個百円のおむすびがあったとき、王様ならどちらをお買いになりますか。」

「決まっている。一個一円のほうじゃ。」

「では、最後まで味わってゆっくり噛んで食べようとするのはどちらでございますか。」

「一個百円のほうだろうな」

「モノの値段が、製造コストプラス利益とかいうのは今から数百年後に生まれてくる思想でございます。信じがたいことですが、高い値段をつけてその分ゆっくり味わっていただいた方が消費者にとって利益が出るというものがあるのです。例えば画家の絵とか小説家の書いたものとか、有名料理人の料理とか。」

「…………」

「王様、人間はけちん坊なものでございます。図書館で本を借りてお読みになるとどうも頭に内容が残らないものなのです。しかし、高い金を出して買った本ならそこから出した金以上の利益を出そうとして必死で読むものですので、頭に残るものです。」

「…………」

「そのことを計算に入れて、卑怯にも一冊二万円くらいの装丁のやたらに立派なそれでもあんまり中身はない本まで出版されているのです。」

「…………」

王様が授業料を元に戻してしばらくして年貢も元に戻ったということです。


エッセイ 我慢大会またはよく遊べの話

2025-02-28 22:37:30 | 日記

エッセイ 我慢大会またはよく遊べの話

 昔 テレビのないころでも人々は工夫して楽しみを見つけていた。映画や講談や落語に毎日出かけるわけにいかない。ましてや歌舞伎は年に一回行けるかどうかである。それでも昔の人の写真を見ると今よりはるかに明るい表情である。

 わたしのごく小さいころ、女の人は月に二回何とか講というご近所の寄合をもっていてご詠歌を歌った後お茶とお茶菓子で雑談に興じた。男の人は不定期に集まって宴会をしていた。ただの宴会では面白くないからだろう夏の暑い時には、「我慢大会」というのをしていた。座敷の雨戸をしめ切ってニワトリ(ニワトリのことをかしわと呼んでいた)の水炊きを囲んで熱燗を飲み、火鉢を抱き綿入れを着て「寒い寒い」というゲームである。もし「暑い」と誰かが言うとその人が負けになり、かしわの水炊きの費用そのほかを負担することになるらしい。当時の男の人はひどく威張っていた。それがこんな幼稚園児もあほらしいと思うようなゲームをするのである。

 その準備をさせられるのをわたしの母親はひどく嫌がっていた。なにしろ納屋にしまい込んだ火鉢そのほかを座敷に運び込まねばならない。わたしは小さいころ火をおこすのを得意にしていたので、火鉢の炭団に火をつける仕事をした。梅雨を越した炭団は湿気を含んでいるので冬に火をおこすよりも夏に火をおこす方がずーとむつかしいものである。その火をおこしながら、「そんなことなら冬に雨戸をあけ放って、うちわを扇ぎながら暑い暑いという我慢大会すればいいのになんでそれはしないのか。」と問うたことがある。母親の答えは「そんなことしたらご近所に恰好が悪いやないか。」というものであった。わたしは思わずそれに納得した。集まってくるのはご近所のおじさんであるから、見るのはご近所のおかみさんたちだけである。ご近所のおかみさんに見られると恥ずかしいという意味か、または自分のおかみさんに見られるのがまずいのか冬の我慢大会は一回もなかった。

 

 さて、大学生になったころホイジンガの「ホモルーデンス」が英語の教材であったので英語で読み切れないところは邦訳で読んだことがある。ホイジンガ氏の説では、遊びは労働の真似(例えば魚釣り)をするか、わくわくする(例えばジェットコースター)ものかのいずれかであるらしい。この説に従うとこの我慢大会はそのいずれにも分類できないものになってしまう。わたしは東洋にはホイジンガ氏の分類以外の遊びがあるのである。その時さすが我が東洋は奥深いとの感想をもった。(西洋は薄っぺらいと思った。)

 しかしわたしは大学を出て勤め始めたとき、この我慢大会は「労働の真似」であったことを痛感した。みんながそんなことはないと思いながらも「会社第一、お客さま第一、滅私奉公です。サービス残業いくらでもします。」と言わねばいけない、そのふりをしないといけない。あほらしそんなことあるもんかと言えばその人は罰金を払うことになる。我慢大会は当時の(たぶん現在も)労働を真似する遊びであった。ホイジンガ氏の慧眼は、意外にも昔の我が日本のおじさんの遊びも見抜いていたのである。

 わたしは大学高校の文化祭でこの我慢大会を実施することがイイことだと思う。一度でもこの遊びを経験しておくと生涯の宝になりそうな気がする。わたしはこの遊びを経験せずにいきなり働きに出たものだから皆が思ってることを我慢せずにそのまま言ってしまってずいぶん罰金を払った。遊んでおくことは大切である。「よく遊べよく学べ」とは、東洋の偉い人の言葉だと思うがここ百年くらい埃をかぶったままになってないか?子供の時にもっと遊ばないといけない。