本の感想

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教育医療にAI導入は確実だが

2023-09-27 11:00:16 | 日記

教育医療にAI導入は確実だが

 最近教師の不祥事が盛んに報道される。知らぬ人は、最近始まったかと誤解するが、あれは昔からあった。ただ昔は、隠したのである。それが新聞テレビに流れそうになるとどうか流さないでくれと七重の膝を八重に折って頼みに回る担当者が昔はいたのである。新聞テレビは今度だけだよと言って報道しないまたは豆記事ゴマ記事で済ますことをしたのである。事件を起こした者は、目立たないように辞めることを強いられて他のヒトは何もなかった顔をしてそれで終わりであった。なにしろこの業界は世間の信用が大事である。

 最近不祥事を報道するには訳がある。教育にAI導入しようとの算段である。AIでは人格形成できないなどの反対を押し切るのである、人間が教育するとこんないけないことがありますよとのキャンペーンを張っているだけである。文科省は反対論を抑えるためにこんなあざとい手を使う。または反対論は文科省内部にもあるかもしれぬ。

 知識伝達については、AIにまさる手段はキットないであろう、効率がいい費用も掛からぬ。しかしそれは考え抜かれた栄養食(昔の宇宙食)を毎日食べるようなものである。カレーも餃子もお茶漬けも屋台のラーメンもおカーさんの手料理も宮廷料理もみーんな味わってこその人生である。

 AIと人生の味わいをどう両立させるかの議論なく、ただただ安い方効率のいい方だけに心を傾けると大事なものを見失いますぞ。産業革命の頃、健康な農夫が工場勤務になると2年でその農夫は元気を失ったと記録にある。同じようにAIだけに教育を任せると児童生徒学生は2年で元気を失うであろう。どううまく組み合わせるかの議論は一切せず、ただただ早く導入したいがために反対派に打撃を与えんがためのこのキャンペーンは何であるか。

 医師の不祥事キャンペーンも似たような構造であろう。診断はAIがしても、話は医師がしないといけない。プラシーボ効果というのは本当にあるであろう。神の如き風采の医師が手渡してくれた薬は効くものである。非情な機械の出してくれた薬を信用はしてもなにか落ち着きが悪いものである。AIの読み上げる記事はなにか伝わるべきものが伝わっていない気がする。AIの作ったドラマはなにか心の琴線に触れない。

 ヒトに相対して共鳴するものはヒトだけである。今回のキャンペーンを企画した官僚の皆さん、銀座にAIだけのホステスさんのお店を作って毎晩お通いなさい。きっと楽しい会話が果てしなく続くしお値段も恐るべき安さであろう。しかしだんだん心が枯れてきて行く気がしなくなるであろう。

 学校も病院もそれに同じである。卑しい性根の丸見えのつまんないキャンペーンをやめてまともに議論をなさるがいい。

 


動乱の日本戦国史(呉座雄一著 朝日新書)を読みながら考えた

2023-09-25 23:30:47 | 日記

動乱の日本戦国史(呉座雄一著 朝日新書)を読みながら考えた

 歴史学者は大変な仕事だとつくづく思う。このさして厚くない新書にも出典論拠を示しあらゆる資料を読み込んで、それでも多分学会のボスに配慮してだと思うが控えめに結論を書いておられる。涙ぐましい配慮がなされている一冊である。読者である私は、もっと一刀両断な新説を読みたいと思っているのにちょっと肩が凝るばっかりでスッカトしないなーと読み進めるしかない。真面目な人とは付き合いきれないなーと思いながらも話にものすごい重みがあるから読んでしまう。

 桶狭間の戦は、決して奇襲戦法の勝利というのではなかったことを様々な納得できる数字をあげながら結論されている。これを奇襲戦法の勝利と言い出したのは、江戸時代の軍学者や明治になってからの徳富蘇峰のような作家であるらしい。なるほど軍学者も作家も売らないといけないから多少の誇張をやっているうちにいつの間にか誇張が本当とされるようになったのだろう。CMが繰り返し大声でなされると遂に本当になってしまうようなもんである。江戸時代も現代も似たようなもんだな。

 しかし、昭和になって日本の軍隊の奇襲戦法は日本のお家芸であるという認識を高級軍人が持つようになってしまい国をミスリードする失敗のモトを作ってしまった。軍人さんは一切の講談本を禁止すべきであろう。この呉座さんのような真面目な研究本だけに特化すべきではないか。

 講談本の弊害にはこんな例もある。できるだけヒトのやらない珍しいことをするのが桶狭間の戦いであってそれが勝ちにつながる。現にクリスマスケーキにイチゴを載せて大儲けした例があるからと、ミンミンゼミの鳴いている木の下でサツマイモの天ぷらを売ろうとしたが失敗したという話がある。これはとにかく珍しければそれで宜しいという考えで、見通しも何もたてていない。講談本の読み過ぎの弊害であろう。講談本の毒消しに呉座さんの本はちょうどいい。

 秀吉の「惣無事令」(喧嘩禁止令)を歴史を変えたものとしてもっと評価すべきであるとおっしゃっている。そんなもんがあったんだという思いで読んだ。地方の領主の喧嘩を禁ずるのであるから秀吉は強い軍隊を持ちそれを派遣する財力を持っていたはずである。軍隊は武田軍団のように忠誠心が元手になっているのもあるでしょうが、大抵はおカネであろう。(ホンの数年前トランプ大統領は、軍隊を派遣するのには大変なおカネがいるんだとテレビの前で言っていた。正直な人である。)秀吉の財力はどこから来ていたのかに興味があるのだがそれはこの本には書いてくれていない。歴史学者とおカネは相性が悪いらしくて今まで満足のいく説明を受けたことがない。

 想像するに、絹の貿易利権(課税権)ではないかと思われる。絹はそれを着る人の社会的地位の確認につながる。周囲へのマウントをとることにつながる。社会的序列が絹を着ることで上がる。ちょうど今のヒトが高級車に乗ることで社会的序列が上がったように本人が思うのと同様である。社会的序列これにはいくらでもおカネをかける性質が人にはある。ここ(すなわちマウントをとるためならいくらでもおカネを払う人間の性質)を握ると軍隊を派遣するほどの財力を握れるというのがわたしの説だけど呉座さんはどういうだろうか。きっとちゃんと調べてから言えというであろう。


羊羹のヘタの話

2023-09-24 23:28:55 | 日記

羊羹のヘタの話

 昭和30年代末の秋の頃の話である。小学校の何年生であったか忘れたが、母親に連れられて祖母のお見舞いに出かけた。祖母は縁側の端のぎりぎり日の当たらぬところに敷かれた布団の上に寝ていたが重篤とは見えなかった。足元にお手伝いさん(当時は女中さんと呼んでいた)が正座していたのを、母親が目配せしてどこか他のところへ行ってもらった。母親と祖母は長くしゃべったがもちろん話の中身はわたしには分からない。しゃべり尽くしたころ、母親は何かの用事でどこかへ行ってわたしと祖母の二人きりになって今度はわたしと祖母が何かを喋ったがその中身は一つも記憶にない。

 母親が戻る前に、一番年長の東京の大学へ行って英語が得意という噂の従兄弟がいきなり入ってきてわたしには目もくれず立ったまま○○という航空会社に就職が決まったと嬉しそうな自慢げな顔で祖母に話しかけた。わたしは、会社というと自分の家の近くにある二、三人の町工場しか連想できないので、なんでそれがそんなにうれしいものなのか不審であった。

 それまで横になっていた祖母はガバと起きて布団の上に正座し、寝間着の胸を合わせながらここへ座れと従兄弟を座らせて、その従兄弟の眼を見ながら病気のヒトとは思えない朗々とした声でこう言った。

「あんたな、会社なんかにつとめてどないしますねん。会社においしいとこ皆持って行かれるだけやないか。」

(おいしいとこみな持って行かれるとは、労働の成果を持って行かれるの意味であろう)

 当時我が家ではおいしいとこというのは、羊羹のヘタを除いた真ん中という意味であった。(当時の羊羹はヘタのところに砂糖が析出して不味くなるものであった。今はどういう工夫があるのか、端から端まで全部がおいしいとこになっている。)この話を聞いて、わたしは会社というのは社員に羊羹のヘタを喰わすところかと思った。そういえば我が家の父親も隣の家のおじさんも時々会社の愚痴をいうのは、羊羹のヘタが皿に盛られて出てくるからに相違ない。一つくらいなら何とかなるが、山盛りとなると余程上等のお茶と一緒でないとかなり辛くなる。

 他人に使われたりしないで自分の力で仕事をせよ その成果は全部自分のものにせよとこの明治三十何年生まれの女性は言いたかったのだろう。その後病癒えて再び店先に立った。英語が得意の従兄弟は、○○に勤めた。果たして祖母の予言どおりおいしいとこを皆持って行かれてヘタだけの人生であったのか おいしいとこもたっぷり食べたかどうかは残念ながらわたしは知らない。

 最近の会社は、ひどくシブチンになって羊羹のヘタさえ本人に渡さなくなったように見受けられる。祖母の言うようにもう会社に見切りをつけてもいいのではないか。シブチンをすると世間から相手にされなくなりますよと言いたい。


遺言 (養老孟司著 新潮新書)

2023-09-18 22:28:15 | 日記

遺言 (養老孟司著 新潮新書)

 若いころの養老さんの本は、難解で今でも理解できていない部分がたくさんある。でもこの人の本をわかりやすく書き直す人が現れたら売れるだろうと思っていたらしばらくしてバカの壁で大ヒットした。新潮社はこれに味をしめて何度でも同じような企画で出版する。そのうちの一冊である。

養老さんの本は関係ない科学の話をしながら今の社会の生きづらさを批判している様に読者が感じられるから、同じように生きづらい者としてはこの本を読まずにいられない。(ただし、若いころの本は該博な知識に裏打ちされているから知識が不足しているものにとっては文章が難解なのと相俟って読むのが大変であった。)

例えば、こんな具合である。ヒトは意識を持っていて意識はこれとあれとは同じものであるという働きをするという、なるほどそうやなとこちらは読んでいく。その人独自の感覚を大事にするのが大事なことであるというのが一貫した養老さんの主張である。(読むたびにそうかと思うのだが、都会に住んで本人が知的と思っている人ほど実行が難しい。)しかしそのついでに飾りの説明がある。今回の本では、「王侯貴族は、世界を同じにしていこうとする。」と踏み込んだ説明があると、なるほど自分たちは同じにされていく(他と統一されていく)からこんなに日常生活がシンドイのであると自分のことが理解できる。または理解した気になる。

養老さんの本は、「自分が楽になる方法をわたしは知っている」と思わせるものがある。そう思うだけで楽になる。一種の解毒剤心の鎮痛剤になっている。

そんな難しいところでなしにこんな飾りの説明もある。CDは、可聴域だけを録音する。録音していない音は当然再生されないが、人間は体で音を聞いているからCDで再生した音楽を聴くのと生演奏とでは伝わるものが違ってくる。なんとCDで再生した音を聴くのと生演奏を聴くのとでは、生演奏の方が血圧に良い影響があるという研究があるらしい。理解できる研究結果である。けちん坊をしてはいけない、血圧のためにも生演奏を聴こうじゃないかという生活の指針ができるとともに、案外古代の人々は生演奏を聴いていて心身ともに今の我々より健康であったのではないか。気を付けねば機械によって我々はどこへ連れていかれることになるのか知れたものではない。

 

今回も多分編集者によって大きくリライトされているからスラスラ読める。スラスラ読めるとなんだか有難味が下がったように感じる。ちょうど参道が長くて厳かな神社だと願いを聞いてくれそうに思い、自分の家に祭ってあるお稲荷さんにお祈りするときはいい加減な気持ちになってしまうようなもんである。文章はところどころ難解なのが転がっているのがいい。難解なのを読むのも悪くないと思ってしまう。読者は贅沢を言うもんだ。

 

 


絵画展 美しい日本の原風景と教育長謝罪

2023-09-12 23:23:16 | 日記

絵画展 美しい日本の原風景と教育長謝罪

 これは明治の日本の油絵の技法がかなりのものであることを紹介するためのものでついでに古い日本の風景が美しかったことも伝えたいがための展覧会である。趣旨からずれてわたしはここに昔の日本人の表情が今のようにつんつんしていないことに驚いた。優しいのである。唯一京都の舞妓さんだけがすこしつんつんした感じである。

さてはネットにつながると人間はこんな感じになるのかと考えながら帰ると関東のほうの教育長が部下の校長の不始末を詫びて頭を下げるニュースを見た。どういう訳か教育長は警察署長と並んで頭の下げ方が下手くそである。しかしさすが関東である、指導する人がいたと見えて今回はお上手であった。一説にはテレビのディレクターの中にはテレビ業界の先行きに不安を感じて頭下げ指導の会社を興して、今度は飛ぶ鳥を落とす勢いであるらしい。テレビ業界に身を置くだけのことはある、良いところに眼をお付けになった。

しかし、頭下げ指導の会社はそのあとの指導ができていない。頭をあげた教育長は、「こんどこそ規則を厳しくして校長以下の連中の不祥事を根絶してやるぞ、それが俺の仕事である」のつんつんした表情を出した。警察署長ならそれでいいかもしれない。不祥事があれば締め上げる。

しかし、教育や心療内科の医者のようにヒトの心を取り扱う仕事に従事する人は締め上げるばかりではいけない。どうすれば自らが管理する人々(生徒も教師も校長も含めてである)がやさしい表情になるかを工夫しないといけない。その工夫なく単に規則をきびしくすると人々の心が壊れてしまう。壊れた器ばかりでは食卓を構成できぬように壊れた心ばかりでは社会が成り立たない。ヒトを機能だけで見てはいけない。機能だけで見るとヒトはその心の置き場所がなくなって壊れていく。

この教育長に言いたい。

どうも教育に従事する人の中では孔子の論語が立派な書であると信じて疑わない人が多い。あんまり料理にうるさい上に女性差別の発言もあり嫁さんに愛想つかしされて、しょうがないから弟子と一緒にあっちこっちかけ回ったがさっぱり出世できなかったヒトを尊敬するとその人と同じようなメに合いますぞ。弟子の中には商売に巧みなのがいて何とか口に糊することができたが、弟子の居そうにないヒトはこれから苦しくなるに決まってる。

ましてやいい大学にこれだけ入れたとか、何とかの大会で第何位になったとかを自慢するのは、教育のうちに入らないことです。そんな教師を見ていると今後金輪際売れないであろうお笑いタレントの下手な芸を見たようないやな気分になる。

明治の油絵に残るやさしい表情の日本人を育てることがあなたの仕事ですぞ。ヒトは機能を果たすだけではいけない、それぞれのヒトが幸せを感じないといけない。行政官はそこまでは無理と言って逃げてはいけない。上手にその味が出せないようでは良き官僚になれませんぞ。