教育医療にAI導入は確実だが
最近教師の不祥事が盛んに報道される。知らぬ人は、最近始まったかと誤解するが、あれは昔からあった。ただ昔は、隠したのである。それが新聞テレビに流れそうになるとどうか流さないでくれと七重の膝を八重に折って頼みに回る担当者が昔はいたのである。新聞テレビは今度だけだよと言って報道しないまたは豆記事ゴマ記事で済ますことをしたのである。事件を起こした者は、目立たないように辞めることを強いられて他のヒトは何もなかった顔をしてそれで終わりであった。なにしろこの業界は世間の信用が大事である。
最近不祥事を報道するには訳がある。教育にAI導入しようとの算段である。AIでは人格形成できないなどの反対を押し切るのである、人間が教育するとこんないけないことがありますよとのキャンペーンを張っているだけである。文科省は反対論を抑えるためにこんなあざとい手を使う。または反対論は文科省内部にもあるかもしれぬ。
知識伝達については、AIにまさる手段はキットないであろう、効率がいい費用も掛からぬ。しかしそれは考え抜かれた栄養食(昔の宇宙食)を毎日食べるようなものである。カレーも餃子もお茶漬けも屋台のラーメンもおカーさんの手料理も宮廷料理もみーんな味わってこその人生である。
AIと人生の味わいをどう両立させるかの議論なく、ただただ安い方効率のいい方だけに心を傾けると大事なものを見失いますぞ。産業革命の頃、健康な農夫が工場勤務になると2年でその農夫は元気を失ったと記録にある。同じようにAIだけに教育を任せると児童生徒学生は2年で元気を失うであろう。どううまく組み合わせるかの議論は一切せず、ただただ早く導入したいがために反対派に打撃を与えんがためのこのキャンペーンは何であるか。
医師の不祥事キャンペーンも似たような構造であろう。診断はAIがしても、話は医師がしないといけない。プラシーボ効果というのは本当にあるであろう。神の如き風采の医師が手渡してくれた薬は効くものである。非情な機械の出してくれた薬を信用はしてもなにか落ち着きが悪いものである。AIの読み上げる記事はなにか伝わるべきものが伝わっていない気がする。AIの作ったドラマはなにか心の琴線に触れない。
ヒトに相対して共鳴するものはヒトだけである。今回のキャンペーンを企画した官僚の皆さん、銀座にAIだけのホステスさんのお店を作って毎晩お通いなさい。きっと楽しい会話が果てしなく続くしお値段も恐るべき安さであろう。しかしだんだん心が枯れてきて行く気がしなくなるであろう。
学校も病院もそれに同じである。卑しい性根の丸見えのつまんないキャンペーンをやめてまともに議論をなさるがいい。