本の感想

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東日本のヒトのための奈良市観光案内⑳ 法華寺

2024-08-31 16:34:05 | 日記

東日本のヒトのための奈良市観光案内⑳ 法華寺

東大寺から真西に20分か30分歩くと法華寺に至る。総国分寺から総国分尼寺までの移動に要する時間である。今の大学の男子寮と女子寮間の移動に要する時間もこのくらいが適当なのではないかとおもわれる。法華寺からさらに真西に少し行くと大極殿などに至るから、ここから大極殿の甍が見えたはずである。また東大寺の甍も見えたと思われる。

東大寺が広いのに対して法華寺は小さい。お堂は尼寺らしく繊細である。庭と風呂(蒸気風呂)が有名であるが、わたくしは風呂は見ていない。本尊の観音さまは、東大寺法華堂の中の羂索観音と同じく光明皇后のお姿を模したものとされている。それでは両者が似ているはずだが、あんまり似ていないように見える。法華寺の方が力強い表情である。皇后は旦那の聖武さんがちょっと気弱な感じだから、夫唱婦随の逆さまバージョンではなかったと想像してしまう。この時代の女性は、現代とは全く違う心意気でおられたことがこの表情から察せられる。決して男と張り合っているのではない。完全に独立してものを考え独立して行動するという感じのお顔である。

光明皇后は相当パワフルな人で、二体の仏像のモデルになるほか夭折した我が子のために阿修羅像を作成したりこの法華寺を建てたり、悲田院という社会福祉活動を始めた。

 

半世紀前我が家は東大寺のそばにあった。近所で我が子に不幸のある家があって、付近の人が皆集まって口々に慰めをいうのだが、ご本人の悲しみは深まる一方であった。集まっていた人の一人(肝っ玉母さんの雰囲気のヒトであった)が自分の娘に、法華寺まで行ってお願いして一人連れてくるようにと命じた。その娘さんがまだ年若い数珠をもった一人の尼僧を連れて帰ってきたのは、夜もずいぶん更けたころであった。その人が悲しんでいる女性の耳元で二言三言ささやいただけで、それまで土気色であった件の女性の表情が少しは明るくなるのを見たことがある。

わたしは寺が決して偉そうにヒトに接するものではないことをはじめて知った、このように出張してくれる。さらに肝っ玉母さんが、娘に東大寺ではなく法華寺に行かせたキャスティングの確かさに驚いた。東大寺のお坊さんではこうはいかないであろう。

 


東日本のヒトのための奈良市観光案内⑲ 子供のために

2024-08-30 23:47:39 | 日記

東日本のヒトのための奈良市観光案内⑲ 子供のために

美的なものに触れることの価値は、美しいものに相対峙すると自分の仕事のことや煩わしい人間関係について心の棚卸ができてもっとうまく生きていけるだろうことにある。現に昔話「わらしべ長者」では、お堂の中でほとけさまにお祈りして出世の糸口になるものの啓示を頂いたことになっている。ほとけさまが「啓示」を与えてくれたのではなく、美的なものに触れることで本人の頭の中にあった何ものかが「啓示」になって表れるのであるとわたしは思っている。時々「啓示」を頂かないと人生がうまく行かなくなる。しかも自分のご先祖が残してくれた「美」であるから、ローマやパリまで出向いて得られる「啓示」よりもっとよい「啓示」が得られるに相違ない。

しかし、子供は別で子供はそもそも心の棚卸を必要としないような気がする。それでは、子供にとっては大仏やシカや猿沢池のカメだけが値打ちになってしまうことになりかねない。大仏とシカカメでは遠路はるばるやってくるだけの値打ちがない。京都は仏像と庭園であって、子供向けにはせいぜい金閣寺くらいしか思い浮かばない。そこで、ちょっと遠いけど帰りに伊賀に寄って伊賀の忍者の観光をお勧めする。わたしが小さいころは伊賀の忍者屋敷はこれで入場料とるのかといいたくなるようなものであったが、今は外国のヒトがたくさん見に来るらしいからさぞや充実していると推察される。

むかし聖徳太子が国を建てた時、情報戦を戦う人材を伊賀甲賀柳生名張の地に置いたのが始まりらしい。柳生と名張は廃れたが、柳生出身の人材に窯ゆでになって今はパスタ屋さんの看板になってしまった石川五右衛門がいる。(諸説あるようだが奈良ではこの説が流布していた)この人のお兄さんが柳生但馬守宗矩という名前で将軍家の剣術指南役であったという。

伊賀は台風の目であって、天正時代信長によって焦土にされた。この人日本では珍しく長島や比叡山でも焦土にしている。ヨーロッパの宗教戦争を思わせるところをみると教科書では差しさわりがあって書かないだけで、日本でも宗教戦争が(天草の乱とは別に)ここであったのではないかと疑ってしまう。誰の説であったか忘れたが、本能寺の変をプロデュースしたのは伊賀の忍者であるという説があってなるほどと思う。さらにその直後に堺に居た家康さんを護衛して本国まで連れ戻した服部半蔵も伊賀のヒトである。この人の名前は今も半蔵門の名前で残ってる。絶対名前を残さないのが忍者であるはずなのに、そんな大々的に名前を残しても許されるものなのか。ついでに、東京新宿の百人町は、伊賀百人町といって伊賀から移り住んだ鉄砲隊の拝領屋敷のあったところである。

奈良市との関連では、タクシーの名前をご覧になれば服部タクシーというのが走っている。伊賀から奈良に移り住んだ服部半蔵の一族が設立した会社であるという話を聞いたことがある。大人には多分面白くないが、お子様にはお子様の楽しみが必要だろうと思う。古い日本のCIAやMI6に相当する。


東日本のヒトのための奈良市観光案内⑱ 法隆寺その②

2024-08-28 22:53:40 | 日記

東日本のヒトのための奈良市観光案内⑱ 法隆寺その②

 法隆寺には有名な玉虫厨子の他に、聖徳太子が飢えた虎にわが身を差し出して喰われてしまうという話の絵がある。勿論元ネタは、お釈迦さんが同じようなことをなさったという話を主人公を聖徳太子に書き換えたものだと思われる。わたしがこの絵を見たのは遠足で行った小学3年の時であったが、見て解説を受けた時は本当に怖かった。わたしの母親は常日頃から「聖徳太子または弘法大師せめて菅原道真のような偉い人になれ」と教えていた。その第一番聖徳太子がわが身を虎に差し出したという。自分も将来こんなことさせられるのかと思って本当に気分が悪くなった。(わたしの母親はなかなか強烈な人であったから、当時わが身に本当に起こるかと心配した。)

 これを含めた法隆寺に伝わる数々の調度品は、仏像と同様わたしには美術品としては価値あるものとは見えない。(多分多くの美術評論家の人々に叱られると思うけど)ちょうど田舎の素封家がカネとヒマにあかせて集めた収集品に見える。しかし日本のルーツに当たる人が収集したものとなると、ルーツに当たる人がどんな人柄であったかを知るよすがとしてしっかり見ておかねばと思うであろう。ちょうど(我が家が発展しているとして)我が家の爺さんが大事にしたものは、自分には古臭いし実用に適しないと思っても大事にしてたまには取り出して爺さんどんな人だったんだろうと眺めたりする。それと同じである。ご先祖がどんな人で何が得意かを知っておくと自分がどんな人であるかが分かる。ご先祖が得意であったことを引き続きやり、不得意であったことは避けることは、人生をロスなく生きるに大事なポイントではないのか。

 宮崎市定さんの説に従えば太子は瀬戸内海沿いの国に船を輸出することで大をなした。他国どうしが交易で発展するお手伝いをすることで自国も発展する。どうやら武力でまたは宗教の力で相手を支配して儲けようとしたのではなさそうである。

太子の仏教に対する姿勢は、「篤く三宝を敬え」と言ってるくらいだからこれから広めたいと思っていたはずである。社長が朝礼の時に「仕事に気合を入れよ」と言ってるのと同じである。仕事に気合が入っていなかったからそういうのである。同じように皆三宝を敬わなかったからそう言ったのである。当時骨がらみの思想としての仏教ではなかった。骨がらみなら、わざわざ「篤く三宝を敬え」とは言う必要はないのである。法隆寺の仏像群や調度品を見ても、心の底からの信仰ではなくファッションとしての仏教との印象を免れない。少し前、アメリカの大学へ留学してMBAの資格を取ると会社内で出世が早かった。または取引先に押しが効いた。仏教はそれと同じような働きをした印象がある。

 日本のルーツは、平和な実業家で宗教は借りてきた衣装のようなものとの認識を持つ人々の集まりではないのか。(思想に惑溺しないことは良いことなのかどうかはさておきである。)これを知っておけば、われわれは自分の不得意を避け得意なものを伸ばして生きていける。平和な実業家で宗教は借り物である。

 

これが今法隆寺を思い出したときにわたしの感じたことです。日本のルーツがここにあるのです。歩いてみてどうお感じになるかは人それぞれですが。なお興福寺の北円堂特別開扉は10/21~11/5

南円堂特別開扉は10/17らしいです。わたくしの写し間違いがあるかもしれませんのでどこかでご確認をお願いします。


東日本のヒトのための奈良市観光案内⑰ 法隆寺

2024-08-26 22:11:07 | 日記

東日本のヒトのための奈良市観光案内⑰ 法隆寺

奈良市からはずいぶん離れるが、有名な寺である。正岡子規がここで柿を喰ったのだから、仲良しの夏目漱石も屹度来たであろう。お叱りを受けるかもしれないが、わたしはここの仏さまには深い精神性を感じない。有名な百済観音さんもデザインは現代に通じるような美しさがあるが、その表情やしぐさから自分の人生の指針に関する示唆をうけとることはできそうにない。(そのうえ百済観音は胸が薄い、だから吉祥天女のように肉感的でない。)ちょうどフランスのハンドバッグのお店の看板に出てくるきれいなモデルさんの写真のようなものである。きれいですぐれたデザインだけど、そこまでである。ちょっと今抱えてる自分の問題を棚卸して、もうちょっとうまく生きるにはどうするべきかなんてことを考えるきっかけになりそうにない。

聖徳太子から東大寺興福寺の時代まで百年から百五十年である。この期間に彫刻の技術も、それを彫るヒトの心も、それを拝むヒトの心も変化したと見える。現代人にかなり近くなったと考えられる。ここまでおいでになれば、聖林寺の十一面観音像をご覧になることをお勧めしたい。七世紀後半というから奈良時代が始まる前の仏像であるが存在感と威厳がある。わたくしが仏像に「聡明」さを感じたのはこの仏さまが初めてである。

宮﨑市定さんの「古代大和朝廷」(筑摩書房)を読むと、古代は外洋を航海する船はほとんどなかった、波静かなところだけであった。そこで古代地中海の交易の船は地中海の突き当りレバノンの杉によってつくられた。同じように古代瀬戸内海の交易は瀬戸内海の突き当り大和の国の杉によってつくられた。(当時大阪平野はまだない)それぞれ杉を切って船を作る国は栄えたという。なるほど今の自動車メーカー兼造船所みたいなものだから儲かったでしょう。そのトップが聖徳太子で「七人の訴えを同時に聞いて処理した」というのは、「七つの言語を操った」という意味だと思われる。その聖徳太子の居た役所が法隆寺になった。そういえば同じく太子が建てた外国の使節接待のための(今の大阪市にある)役所も四天王寺というお寺になっている。従って宗教施設ではなく日本のルーツを見学に行くつもりというのが妥当だと思う。

というわけで、法隆寺は日本発祥の地として見に行く価値があるところであろう。東京国立博物館の敷地内に法隆寺館という名だったと思うが大きな立派な建物がある。法隆寺が日本の発祥の地であることを大きな声で言わないけれど暗示している建物である。ただし、わたしが見て回った時には仏像はほとんどなく、古い文献の書庫みたいな建物である。内外の学者らしき人が研究のために利用される建物のようである。ここには必ずしも行く必要はないように思うが。


東日本のヒトのための奈良市観光案内⑯ 旅行とは関係ないことながら

2024-08-25 10:57:18 | 日記

東日本のヒトのための奈良市観光案内⑯ 旅行とは関係ないことながら

わたしは、もう住むことはないだろうと奈良の家を売りに出した。驚くことにまた有難いことに東京のヒトが何人もエントリーしてくださった。遠路を厭わずわざわざ見に来た人も何人もおられるという話である。文化財やシカだけが目的ではなさそうである。多分退職して自然の中で生活したいとの意向とみられる。しかもある程度の都会で車なく生活ができる。鎌倉と同じようにお考えだと思う。

良いところに目を付けられた。わたしは奈良を去ってずいぶんになる。去ってから碌なことがない、気分がすぐれない。さっぱり元気が出ない。

その理由は、会社の中でいらざることを大声で触れ回り、他人のメンタルを削り取ることを趣味にするようなひとと付き合わねばならぬ悲劇に見舞われたことが原因であると長く思い込んでいた。しかしそればかりではないのではないかと最近思うようになってきた。都会には自然の音、蝉の声鈴虫の声が一切ないのである。公園内では一本の木からではない、全山湧くがごとくゼミの声が聞こえる。一個の虫かごからではない、地の底から湧き出すように虫の声が聞こえるのである。しかも十分やニ十分ではない、止めてくれといっても絶対止めてくれないのである。これが昔の私を元気にしていたと考えられる。(しかも付録に様々文化財がある)

ではそれを録音して都会地で大音量スピーカーで聞けばいいではないかと言うかもしれないがそうもいかない。スピーカーの音は、可聴域外の音を再生しない。どうやら蝉の声虫の声は可聴域外にいい音を出してくれいそうである。蝉虫は自分の仲間への恋の歌を歌う、人間相手に歌っていない。ヒトの可聴域がこのくらいだからこの範囲内でいい音だしてやろうというような配慮は一切していない。蝉虫はヒトの可聴域外の音も含めて歌っている。その域外の音がヒトの心に良い影響を与えていると思う。我々は意味は取れなくとも蝉虫の域外の音を聴いて気分良くなると考えられる。

シカの鳴き声も聞こえる。馬によく似ている。ただ気分に関係するほどよく聞こえるとは言えない。鳥の鳴き声も屹度気分に関係すると考えられる。しかし奈良公園にはあまり鳥のさえずりはなさそうである。

奈良公園内にもホテルはある。(お値段は高そうだけど)連泊して試してみてください。JR奈良駅そばのホテルだとちょっと聞こえないかもしれない。