断腸亭日乗 (永井荷風 岩波版)を読む⑨墨東奇談について
断腸亭日乗や荷風さんの研究書は読むんですが、小説は実は墨東奇談しか読んだことが無いのです。
むかし面白い本が無いかと詳しい人に尋ねると墨東奇談がいいと言う。墨国とは多分メキシコのことだろう、多分メキシコの珍しい話を集めた本で「聊斎志異」のメキシコ版に違いないこれはきっと面白いに相違ないと大喜びで買って読み始めるとこれが私にとっては退屈極まりない話だった。しかしうっかり古本でなく新刊を買ったので700円が勿体ないので何とか読み通したけど途中何度も放り出しそうになった。
墨東奇談は劇中劇の構成をとっている。劇中劇は映画でなら作りやすいし観客も見やすい。むかし「フランス軍中尉の女」という映画があってこの構成で作られていた。多分フランスにはこういう小説が多いと想像される。これを小説で書くには、場面転換のところが大変難しいでしょうから並々ならぬ筆力がいるだろう。多分この本が名作との評価はこの場面転換のところが評価されていると思う。ここを楽しめる人には、今でもこれは名作として評価するでしょう。しかし、遺憾ながらその中身は今の人には退屈じゃないのかな。
男女の細やかな心境(の描写)は昭和初期大正末期には、あこがれの的であったと推察される。昭和50年前半くらいまではその気風は残っていた。そんな映画が大量につくられていた。昭和50年後半くらいから世界中でもそんな映画が減ってきだしたように見受けられる。人々の気風がこのころ変わった。このころ女性の社会進出が叫ばれるようになって、優秀な労働力を必要としていた政府がこれ幸いと女性も終身雇用に組み込もうとした。それは社会の制度が変化しただけなのに、社会全体に漂っていた女性崇拝の念を駆逐してしまったように見える。両者は関係ないように見えてどこかでつながっているんだろう。因果関係を解説できないけれど関係ありと見える。崇拝の念のなくなった今荷風の小説を読むと退屈する。
荷風は、女性蔑視の表現をあちこちでとっている。大正七年正月二日冒頭の部分に、「先考の忌日なればさすがに賤妓と戯る心も出でず……」(A)なんて書いてある。もうこれで現代のすべての女性読者を失ってしまう。男性読者の半分も失ってしまう。文筆をお商売にするという意味なら大失敗である。しかしこう考えます。蔑視は当時の時代背景であって荷風もそれに従っていた、そう発言することが当時の社会では「お作法」だったんではないか。
そんなお作法に従いながらも、墨東奇談もそうだが断腸亭日乗の基底に流れるのは、女性崇拝であるように見える。アンビバレンツとかそんな難しいお話ではなく本質的に崇拝しており、当時の世間の約束事に従って蔑視発言があったのではないかと想像します。それは、自分の住む家に「無用庵」と名付けたり、自分の号を「荷風散人」と付けたりする気分とおなじではないか。そんな名前をつけて本当にそう思っている人はイナイのが当然で、「おれはほんとーは凄いんだぜ」と言い募っているようなもんです。それと似ていて(A)は、きょうは尊敬する父親の忌日なので、きれいな芸妓さんとこへ遊びに行くことは遠慮した、と素直に読み直すべきところでしょう。