本の感想

本の感想など

川瀬巴水展 (大阪歴史博物館)

2024-10-30 23:42:02 | 日記

川瀬巴水展 (大阪歴史博物館)

 有名な雪の芝増上寺を見に行った。冬の戦前東京の情感を表現して見事な作品である。この作家は日本の戦前の風景を版画にした人で、しっとりした情感が海外で高く評価されたという。確かに当時の日本に住んでいるとこういう版画は普段の日常にある風景であるからまあいいなと思うくらいで、高く評価されないかもしれない。海外なら神秘の国の風景として珍重されたかもしれない。

 今、われらがこれを見に行くのはもう昔の日本が今の日本と異なる国になってしまったからである。わたくしも遠い異国の情感を(現在につながらなくなってしまった情感)味わうことができた。100年前であってその写された建物は残っているものが多くある。であるのにもう異国のように感じてしまう。この100年の情感(人の心)の変化は大きい。

 巴水は版画家であるが、今なら旅行写真家とするべきであろう。カラーで各地の風景を楽しみたいという需要に応えたというところか。版元の希望(従って需要家の希望)に沿って描いていった絵の職人の要素も強い人である。人生に悩んでその悩みを吐露するために描いた人ではなさそうである。同じような風景画家でも東山魁夷には悩みらしきものが感ぜられる。だからと言って両者に上下関係があるわけではないだろう。悩みが大きい人ほど立派だとするのは思い込みがひどすぎる見解だと私は思っている。スイスイと行くに越したことはない。パトロン(版元またはその絵の需要家)の意向に沿って描いたが、人生の前半と後半で特に色使いに変化が大きかったのだから(後半のほうが明らかに明るい)絵について悩んでいたのかもしれない。

 多作の人であるからといってあまりに多くの絵を展示するのは考え物である。精選して少なく見せるのも必要なことではないか。何を選んで何を選ばないかが展示する人の腕だと思う。テーブル一杯の御馳走が出てもすべてを味わえるわけではない。


吉原遊郭 (新潮新書 高木まどか)

2024-10-26 21:52:31 | 日記

吉原遊郭 (新潮新書 高木まどか)

 わたしは、恋愛はこの世に存在しないものだと思っている。あれは蜃気楼である。あると思って近づくと全く違うものであることが判明する。一度そうだと経験してもいやどこかにあるはずだと何度でも蜃気楼に近づく人と、二度と近づかないのとの二種類に分かれる。

 そのどこかにあるはずだと思う人を相手に、実はこの世にない「恋愛」または「恋に似たもの」を売るという奇抜な商売をしているのが吉原だと思っている。この世にないものを売るのである。すごいアイデアではないか。しかも世の人々みな足摺りしてそれを買いたがるのである。ダイエーの中内功さんでもここまで熱心な購買者を育てることができなかった。だれがこの商売を思いつき育てていったのかを知りたくてこの本を読んだ。

 まじめな女性の文学者で、この時代に出版された吉原に関する評判記などを読み込んだ結果の研究誌を普通の読者が読んでわかるように書き直した本だと思う。もちろんほかのこともたくさん書いてあって興味深いが、私の疑問に対する答えは我流の読み方で違っていれば筆者に申し訳ないがそれは「太鼓持ち」が思いつき育てたと読める。

 私は実はタイコモチならたくさん知っている。小さな権力者に取り入ってわが身の立身または保身を目指す輩のことで、もちろん立身を目指さない人々にも愛想は大変よろしい。愛想とおべんちゃらで世の中を渡ろうとする人々である。このタイプの人で大きな仕事をした人はいない。大抵退職後は寂しそうだし第一本人の意図に反してあんまり出世しない。

 この本で取り上げられた昔の本物の「太鼓持ち」は、当たり前のことだが私は一人も見たことがない。客と遊女との間を取り持つ職掌というが具体的に何をどうするのかは詳しくは書いていない。しかし昔の本物の「太鼓持ち」は、盛んに吉原に通い詰めて破綻した人または破綻までしなくとも引退した人がなるものである、との記載で分かった。昔の本物の「太鼓持ち」はプロ野球の監督またはコーチなのである。どうしても現代のタイコモチを連想してしまうので評価が低くなるが、本来は元名選手であった人が引退した後のコーチなのである。コーチは自分の仕事場が「恋愛」または「恋に似たもの」に満たされた場にしたかったのでその段取りをしたのである。それに育てられた客はまた時期が来れば同じ立場になって同じようなことをする。こうやってこの文化が育てられたとみられる。そういえば画家の英一蝶も「太鼓持ち」をしていたという。「太鼓持ち」は簡単になれるものではない。タイコモチと一緒にしてはいけない。

 

 もちろんこの本は、当たり前のことだが昔の吉原がとんでもないブラックなところというスタンスで書かれている。そのことの解説もあちこちにある。その中の一つ「ろくに休みも取れず、病にかかればお払い箱。……甚だしきは暴力を振るわれる。」の文を読んだときはぞーとした。昔はこれが吉原の中だけだったようだが今は日本中の会社役所の中にあるんじゃないのか。

 むかし山本夏彦さんは、「遊郭を廃止したら、今度は日本中が遊郭になってしまう。」とおっしゃった。今世の中を観察するに、確かに今日本中が広く薄く遊郭みたいになっている。同時にとんでもないブラックなところも広く薄く日本中にいきわたっている。今の日本の広く薄くいきわたっているものを濃く厚くしたものが吉原であるからそのルーツを知るに良い本であろう。

 


映画 ジョーカー フォリー・ア・ド (アメリカ版四谷怪談)

2024-10-21 09:37:26 | 日記

映画 ジョーカー フォリー・ア・ド (アメリカ版四谷怪談)

 映画羊たちの沈黙やカッコーの巣の上でを思わせる映画である。狂気を映し出して軽い恐怖を楽しみたい、すなわちお化け屋敷に入りたいという願望を持つ人のための映画である。ただ西洋に多いとされる二重人格かどうかの境目または二重人格を演じるところがあるから、日本人が感じる恐怖とは少し質が異なる。

 西洋は子供嫌いの文化であるという。対して日本はだいぶん変わってきたとはいえ子供好きの文化である。虐待された子供は二重人格になりやすいらしいから、ジョーカーのような人物が生まれやすいとみられる。西洋ではこのような映画で恐怖が表現されるのだと思う。対して日本は今でも女性を抑圧するところがある。女性が恨みを抱くのであるからお岩さんまたはお菊さんである。

 おそらく、西洋ではお岩さんお菊さんは「まあそんなこともあるでしょうが、そんなもん怖いのか。」と言われそうなところがあるだろう。わが日本ではこのジョーカーを見てやはり「まあそんなこともあるでしょうが、そんなもん怖いのか。」と言いたくなるのである。これが西洋で評価が高く日本ではお客の入りが今一つなのはこういう事情だと思う。

 

 おそらく都市化した西洋文明の弱みは、子供嫌いの文化に起因するだろう。(ジョーカー自身も自分が嫌われてきたことを映画の中で語っていた。また、最近の日本の状態を見てもその方向に向かっているような気がする。)都会化すると競争が激しくなり子供に目が向かなくなる。米国は移民によってやっと人口が保たれている。競争あるいは闘争の激しいところでは子供は生まれたり育ったりしないのである。

  アメリカ映画のお家芸である法廷闘争の映画でもある。社会の根幹が法廷だろう。(わが日本では未だに文章に明示されていない職場などの人間関係が根幹であると考えられる。)その法廷がこの映画で爆破されたのである。そうして最後にジョーカーがその死の直前に「繁栄を継がすべき子供がいないこと」を嘆くのである。

 つまらない恐怖映画に見せかけて、この法廷爆破とジョーカーの嘆きはこれからの社会の大変化を予言する場面であると見た。


昭和はこんな時代であった③ 娯楽昔と今

2024-10-18 10:10:29 | 日記

昭和はこんな時代であった③ 娯楽昔と今

 大人たちが何を娯楽にしていたのかはよくわからない。ラジオの音は悪かった。落語漫才浪曲は聞いていたようだが長時間ではない。年に一回または二年に一回くらいは映画に行くこともあったが歌舞伎を映画に撮ったようなもので、子供には面白くもなんともない。ただ映画が終わって幕が閉まるときに観客が拍手するのは、子供心に変に感じた。あれは写真であるから演じる人はいない。拍手しても聞こえないのにである。思うに男の人は酒を飲むか煙草を吸うのいずれかが最大の娯楽であったようである。女の人は道端で立ち話に興じる人が多かった。

 子供は日が暮れるまで外で自由に遊ぶことができた。車はほとんどないから事故にあう心配はなかった。私は新聞を端から端まで読むのが楽しみであった。特に一行広告が面白い。「真由美解決す連絡乞う」といった一行を読んで様々に想像するのである。または死亡欄に載った人物のことを想像するのもなかなか楽しかった。最近新聞が面白くないのはなぜかわからない。

 テレビができてからもそんなに大きな変化はなかった気がする。テレビは夕方から夜の間と朝の時間帯しかなかったし、そんなに面白いものはなかった。あったとしてもそれが視聴者本人の満足のいく面白さとは異なることが多かったからと考えられる。テレビは視聴率競争を始めてからやっと面白くなった。テレビの出現は、仕事や日常生活を根こそぎ変えるというほどではなかった気がする。相変わらず子供は外で遊んだし、酒たばこや立ち話が減ったとも思えなかった。人々はテレビを見てその影響をかなり受けたが「テレビの中に住む」というほどではなかった。

 最近ネット業界が巨大になった。ネットはテレビ業界に倫理を求めてテレビを面白くなくすことに成功して人々の娯楽を独占した。(およそ倫理は人生を楽しくなくすものである。)人々は今度はネットの影響だけではなく、ネットの中に住み着くほどの傾倒を示すようになった。人々はテレビの影響くらいでは子育ての楽しみも並行して楽しみたいと思ったようだが、ネットの中に住むようになってからは子育てが楽しいものかどうかも分からなくなってしまった。ネットの楽しみの中には子育ての楽しみが一切ない。これが現代である。

 ここで提案である。お金をあげるから子育てしてほしいというのは間違いである。ネット業界がテレビ業界にしたように、ネット業界に倫理を求めてネットのことごとくを面白くなくするのである。そうすれば人々は究極の娯楽である子育てに夢中になるはずである。

 昔の人はろくな娯楽がなかったが、子育ての楽しみは享受したのである。


昭和はこんな時代であった② 医療事情など

2024-10-15 11:19:56 | 日記

昭和はこんな時代であった② 医療事情など

昭和30年代前半 医者病院の数は少なかった。市街地でも病院はずいぶん遠い。ただ陸軍の衛生兵だった人が近くに開業していたが評判は良くなかったのであまり行かなかったようだ。大人の中にはやいと(お灸)を頻繁にする人がいた。ために背中はムカデの足のように背骨に沿うて黒い点がついている。昔のやいとは皮膚が焦げて黒い点がつくのである。灸屋さんは街のあちこちにあった。街のあちこちにあの独特のにおいと、熱いからだろうと思うがうめき声が聞こえる民家を改造した灸屋があった。鍼医は灸屋さんより数は少なかったように思うがこれもあちこちにあった。子供はまれに鍼医に行かされることがあった。

 病気になると近所の物知りに症状を言って、物知りが漢方薬を教えてくれる。その処方を覚えて漢方薬屋へ行くことが多かった。面倒な薬の煮出しは各家で行った。物知りはおばあさんであることが多かったが尊敬されていた。

 物知りおばあさんは、いうことを聞かない子供のしつけも頼まれると引き受けたようだ。「𠮟り婆」というらしい。私も数回行かされたことがある。6畳くらいの部屋の真ん中に大きな仏壇があって、金地に緑泥字であったか、緑泥地に金字であったか定かでないが立派なお経がおいてあった。金と緑泥は美しいコントラストであると感心したことを覚えているのみで、お説教は全く覚えていない。

当時の病院は入院すると家族の誰かが一日中付き添いをせねばならないから大変であった。そのうえ老人介護の施設はなかった。(保育園もなかった。ファミレスもマクドナルドもなかった。)主婦の仕事は大変な重労働であった。どの家でも亭主は給料のほとんどをカミさんに手渡すことになるのは当然の成り行きである。主婦の発言権は今とは違う意味で絶大なものがあった。代々のお金持ちの家(もと庄屋さんとかで結構な数があった)を除いて亭主は家の中で偉そうに振舞えたけれども、お財布の中は軽いものである。戦後強くなったのは女性とか言ってるけど、この様子ではたぶん戦前から強かったのではないか。

家で出産する人もいたし、家で最期を迎える人もいた。それにかかわるから女性の仕事は大変であった。いったん結婚すると、離婚しないで我慢したのは大事な家事労働者であったからであろう。

最近女性も会社で働くようになっていいことだといわれているが、会社で苦労に見舞われている人も多いようだから「一難去ってまた一難」の状態であるように見える。男は家の中でさえも偉そうに振舞えないようになってしまったからから「大損」または「丸損」である。