昭和が戦後であったころ⑥ お葬式
新しくできた仕事に引っ越し業と葬儀屋がある。昔はお葬式があると、自宅で行いました。その葬儀は近所のヒトがすべての式次第を執り行ったようです。私の家は、農村と市街地の境目にあったが当時の事情は市街地の真ん中でも変わらなかっただろう。ごく近くの近所から適切な年齢の男性を選出して葬儀委員長を選ぶ。どうやら選ばれたほうは嫌とは言えなかったようだ。この人の差配ですべてが動く。しかしわたくしの小さいころの一回だけ経験したのでは、あまり差配が上手ではなかった人のようだった。後片づけしながら、近所のおばさんが「うまいこと行かへんかったな。」、「けど機嫌よくしてはったやんか。」としゃべっていた。
その後、一時お葬式を出す家の人が勤めている会社の人が葬儀委員長になる時期があったかもしれないが、葬儀会社ができてこの風習は姿を消した。時代が進むとなにもかも悪くなるという人が居るが、決してそうでもない。これは良くなった方の例である。
葬儀のある家の隣の家は、親戚の人の待合所として提供される。湯飲みを大量に準備しないといけないし、何よりアカの他人に家の中を見られるのである。私の母親はこうなることをとても嫌がったが、これは断れないことだったようだ。我が家も一時間ほどの間だったが多くの人が葬儀の開始を待つのに使われた。
農村にある私の親戚の方でも同じようなことだったようだ。農村の風習が市街地の中に入り込んでたはずだから当然であろう。しかし、農村でわたくしの知る人は、この差配がうまくてかつ大好きな人であった。小さいころ私も葬儀に参加しないといけないことがあった。そのあと全員に酒肴が供せられる。ひどく陽気な会話がそこで話される。いままで神妙な顔をしていたのは、何だったんだ。この人々は、葬式を楽しみにしている風に見える。そこでは、「あのひとうまいな」「ホンマ好きやねんで」という会話がなされていた。あのひととは、この差配のうまい人のことだろう。
この人は道ですれ違ったクワを担いだ人に「お前んとこのババこの頃顔見ないな。」と弾んだ声で尋ねる。クワの人は、「いや家の中で元気にしてるで。」と答える。この差配の好きな人は、これを聞いてひどくがっかりした表情であった。
漢の高祖劉邦を助けて、国の礎を作るに功あった蕭何も葬儀の段取りのうまいひとであったらしい。葬儀の段取りがうまいくらいであの巨大な国の政治ができるものかと今でも思うのは、このがっかりした差配のうまい人はとても蕭何のように見えなかったからです。それとも案外単純なことで、漢のような巨大な国が運営されていたのかとも思う。