養老孟司の人生論(PHP文庫)
23年2月第一刷 同5月第三刷の第三刷のほうを購入した。よく売れているようだからこれは読まねばいけないと思った。なにか昔読んだような気がすると思いながら読んで最後にこれは「運のつき」の復刊であると書いてあるのを見てまた900円ほど損した気になった。「運のつき」は私の蔵書の中にある。以前にも同じようなことがあった。どうもPHP文庫は性質が悪い。
思うに養老さんは日本の組織が持っている機能集団の面と帰属感のある共同体の両方ともお嫌いないのだろう。それだけではなくその嫌いと思っている人間に対する組織またはその構成員からのねちねちした嫌がらせがもっと嫌いなんだと思う。だからと言って、決して機能集団だけにせよと主張されているわけではない。(機能集団だけにせよとの主張は堺屋太一さんが盛んに主張されて近頃その方向に少しずつ向かっているように観察される。)養老さんは社会すべてに関して何か虫が好かないと思っていてそれを表現しなくても周りがそれを察して、自分(養老さん)に対してそれとなく毒を発してくることがさらに気に入らないという風情であって特にこうせよという主張がある風でもない。
このような心情にある人は日本中にいっぱいいるのではないか。自分の属している会社なり役所に不満というほどではないが座りの悪い思いをし、それを辛抱して外に発信しないようにしているのだけど外部のヒトはそれを敏感に感じ取りあいつはけしからんと思われているような状況の人である。そのような人が養老さんの著書の読者になる。養老さんの著書のどの項目を読んでも、(それが解剖に関することであれ虫に関することであれ)自分のことをけしからんと思っているやつを軽くぎゃふんと言わせてやりたいという無言の闘争心を感じる。それをウ~ン良く言ってくれたと感じる人が養老さんの読者になる。わたしもその一員である。
しかし、養老さんの読者層は大幅に減っているような気がする。日本の会社役所は機能を果たすだけの集団になり、そこに居心地の悪さを感じているヒトにけしからんと毒を吐きかけるようなことをする余裕をもう失ってきたのではないか。居心地の悪さを感じているヒトは、周囲のヒトに今まではカマってもらえたがこれからはカマってもらえない時代になってきたような気がする。もうヒトのことを考えている余裕もなくなった時代になったように見受けられる。
養老さんの読者は、自分の所属する集団に居心地の悪さを感じて感じるがゆえにその集団から意地悪をされた。それについてこっちはぐずぐず反抗的なことを言う。(そのぐずぐずいうところが江戸落語のように洒落が効いていて面白いのが養老さんの本である。)それはまだその集団と遊んでもらっているようなものである。それがなくなりつつある。
会社役所は純然たる機能だけを果たす集団になった。心からの忠誠を誓い代わりに生涯の心の満足の面倒を見てくれる集団ではなくなった。所属する集団のなくなったヒトを欧米では受け止める宗教が機能しているが、わが国にはない。わが国の檀家寺の和尚さんに、受け止める力はとても無いだろう。果たしてこれから何が起こるかを私は心配している。