本の感想

本の感想など

養老孟司の人生論(PHP文庫)

2023-05-27 23:03:13 | 日記

養老孟司の人生論(PHP文庫)

23年2月第一刷 同5月第三刷の第三刷のほうを購入した。よく売れているようだからこれは読まねばいけないと思った。なにか昔読んだような気がすると思いながら読んで最後にこれは「運のつき」の復刊であると書いてあるのを見てまた900円ほど損した気になった。「運のつき」は私の蔵書の中にある。以前にも同じようなことがあった。どうもPHP文庫は性質が悪い。

 

思うに養老さんは日本の組織が持っている機能集団の面と帰属感のある共同体の両方ともお嫌いないのだろう。それだけではなくその嫌いと思っている人間に対する組織またはその構成員からのねちねちした嫌がらせがもっと嫌いなんだと思う。だからと言って、決して機能集団だけにせよと主張されているわけではない。(機能集団だけにせよとの主張は堺屋太一さんが盛んに主張されて近頃その方向に少しずつ向かっているように観察される。)養老さんは社会すべてに関して何か虫が好かないと思っていてそれを表現しなくても周りがそれを察して、自分(養老さん)に対してそれとなく毒を発してくることがさらに気に入らないという風情であって特にこうせよという主張がある風でもない。

このような心情にある人は日本中にいっぱいいるのではないか。自分の属している会社なり役所に不満というほどではないが座りの悪い思いをし、それを辛抱して外に発信しないようにしているのだけど外部のヒトはそれを敏感に感じ取りあいつはけしからんと思われているような状況の人である。そのような人が養老さんの著書の読者になる。養老さんの著書のどの項目を読んでも、(それが解剖に関することであれ虫に関することであれ)自分のことをけしからんと思っているやつを軽くぎゃふんと言わせてやりたいという無言の闘争心を感じる。それをウ~ン良く言ってくれたと感じる人が養老さんの読者になる。わたしもその一員である。

しかし、養老さんの読者層は大幅に減っているような気がする。日本の会社役所は機能を果たすだけの集団になり、そこに居心地の悪さを感じているヒトにけしからんと毒を吐きかけるようなことをする余裕をもう失ってきたのではないか。居心地の悪さを感じているヒトは、周囲のヒトに今まではカマってもらえたがこれからはカマってもらえない時代になってきたような気がする。もうヒトのことを考えている余裕もなくなった時代になったように見受けられる。

養老さんの読者は、自分の所属する集団に居心地の悪さを感じて感じるがゆえにその集団から意地悪をされた。それについてこっちはぐずぐず反抗的なことを言う。(そのぐずぐずいうところが江戸落語のように洒落が効いていて面白いのが養老さんの本である。)それはまだその集団と遊んでもらっているようなものである。それがなくなりつつある。

会社役所は純然たる機能だけを果たす集団になった。心からの忠誠を誓い代わりに生涯の心の満足の面倒を見てくれる集団ではなくなった。所属する集団のなくなったヒトを欧米では受け止める宗教が機能しているが、わが国にはない。わが国の檀家寺の和尚さんに、受け止める力はとても無いだろう。果たしてこれから何が起こるかを私は心配している。


江戸時代の先覚者たち(日本資本主義の精神所収) 山本七平 文藝春秋 今頃やっと分かった

2023-05-26 14:33:09 | 日記

江戸時代の先覚者たち(日本資本主義の精神所収) 山本七平 文藝春秋 今頃やっと分かった

 今はどうなっているのか知らないが、昭和四十年代の中学高校ではマルクス史観の先生が歴史を教えていた。教科書とそんなに離れていないからまあいいかと思っていた。しかし微妙なところで影響はあるもので例えば三岡八郎(由比公正)は何をした人は細かな説明はなかったように思う。この本を読んで今頃になってやっと何をした人かが分かった。単に財政改革と言うだけでは意味の分からないことである。この人福井藩で藩札を発行しそれを生糸などの産物に替え、さらに当時始まった外国との貿易によってその生糸などを金銀の貨幣に替えた。藩札を金銀の貨幣に替えることで藩の財政改革を成し遂げた人で、藩に総合商社の役割をさせた。

 三岡八郎がこういう働きをするのは、このようなことができる思想家または実務家たちが江戸時代中期に出現したということの説明を試みたのがこの本でもちろん三岡八郎だけを論じているのではない。江戸時代は真っ暗闇でえらい不自由な時代であったと教えられた気がするが、この著作を読むと案外自由にものを考えられた時代ではなかろうかと思えてくる。もっとも朱子学の本山である湯島の聖堂の近くではそうはいかなかったでしょうがそこから遠く離れたところでは、日本型の資本主義の発生が準備されていた。

 どうも当時の中学高校の歴史の先生はこの日本型の資本主義の発生が気に入らなかったか、またはご本人が理解できなかったのでこの部分を教えなかったとみられる。しかし、大抵の生徒は日本史の理解がこのレベルで止まってしまうので生徒にとっては生涯の損失になっている。知識というのは受験突破とうあほみたいな目的に使うものではもちろんないはずである。

 マルクス史観のついでに是非言っておきたい。われわれの世代は政治経済の授業はあって無いも同然であった。教科書は開いたこともない。徹底して搾取と疎外を教え込んだ。おかげでわれわれは銀行貨幣の役割とか金利とか何も知らないで卒業しているのである。(当時の教師には反省してもらいたいものである。)

 

 三岡八郎は司馬遼太郎の作品にも登場するがこの人何をしたのかの説明がどうもあやふやでわかりにくいものになっている。これは司馬さんも経済事象に関する理解が行き届かなかった人だったからではないかと思える。(司馬さんの権力闘争に関する理解はさすがである。ご自身が身近で様々な闘争を観察されたからだと拝察する。)三岡八郎は我々の世代では理解するチャンスが二回あったのに二回ともなんやら名前は残ってるが何した人か分からんということになっているのはこの人にとって気の毒である。

 ヒトは自分が本当によくわかっていることしか表現して他のヒトに伝えることができない。ここに文に巧みな人は案外経済とか理科に関する知識があやふやであるから、文にしたときの仕上がりが良くない。経済とか理科に関する知識が確かな人はどうも文が巧みでないから読んですらすら分からないという恨みが残る。文に巧みでかつ経済理科の理解が十分というのはこの山本七平さんと立花隆さんである気がする。他にもおられるとは思うけど。


マリーアントワネットの髪

2023-05-21 14:11:24 | 日記

マリーアントワネットの髪

 わたしは本当にこの目で見た。もうずいぶん昔のことになるので忘れないうちに書き残したい。

 

高校生の頃世界史の授業で、アントワネットは処刑される前日一夜で髪の毛が真っ白になったという話を聞いた。そんなこと絶対あるもんか、一晩で生えてくる分 多分一ミリもないであろうがそこが白くなるならわかるが、先っぽの部分まで白くなれとの連絡が頭皮から行って一斉に白くなるなんてありえない。大方劇とか小説で劇的に書かれたものを受け売りしているだけだろう。いい加減な与太話を喋る教師であるなと考えていた。

 しかしその後、学園紛争というものが起こった。多分数十人は居たであろう生徒のグループが学校にバリケード作って授業は無しということになった。私は何が何やらわからないまま数週間を過ごすことになる。その間他の人々は起こっている事態を把握しているようだったので、私は自分が突然事態の把握のできない馬鹿になってしまったのかとひどく劣等感にさいなまれることになるのだが、それはアントワネットの髪とは関係がない。

 そのバリケードのはられた初日ある真面目で立派な先生が、封鎖している生徒と話し込んでいたのを見かけた。次の日、私はまあきっと今日も授業はないであろうがもしあったら困るからと出かけてみると、まさか一晩中話したわけでもあるまいが同じ場所で同じ先生が話し込んでいる。その先生の髪の毛はたった一晩で真っ白になっていた。アントワネットの髪の話は本当であることが心底理解できた。あの話は実際に起こりうることである。

 この立派な先生が、世界史の教師であれば身をもって授業でしゃべったことが事実であったことを示したということでますます立派ということになるが、遺憾ながら同一人物ではない。


謦咳に接するまたは人間を鑑賞することのない時代始まる

2023-05-19 13:56:29 | 日記

謦咳に接するまたは人間を鑑賞することのない時代始まる

 書く人いなくなることを恐れて今のうちに書き残したい。戦後二十年から四十年くらいまでは、小中学校は知らず高校大学には名物と呼ばれる教師教授が本当にいたのである。自分の望む名物のためにわざわざ志望校を変えたという話も聞かないではない。噂では予備校にも名物はいたという話である。学問で人格を陶冶するとこうなるのかと感心するような人物である。我々は専門教育を受ける前に教養として名物の授業講義をうけ、師の謦咳に接するまたは学問によって陶冶された人間を観察する機会を得たのである。

 仕事を始めると面白いオトナに接することは絶対できなくなる。敵か味方か関係ないヒトかの区別しかなくなる。若冲描くところの鶏、ミケランジェロ彫るところのマリア像、柿右衛門描くところの絵皿を鑑賞するように面白い人間を鑑賞する機会は社会の中では得られない。

私の知る漢文教師は、新聞購読勧誘のあまりの喧しさに耐えかねて「私漢字が読めませんもんで。」と断った。この勧誘したのが、教え子の保護者であったからこの話は広く校内に喧伝されたが当の教師は飄々としていた。私はオオこのやり方でこれから生きていこうと深く感じるところがあった。(それがうまく行ったかどうかはまた別の話である。)

 

さて、最近の新聞を読むに教師の不始末を告げる記事が連日目白押しである。これは授業をネットで流し宿題を学校でやらせるシステムに変更するための下準備ではないかと予想する。質問への答えも宿題もAIが指示するであろう。味気ないシステムであるが校内の不祥事は起こらなくなる、予算も大幅に減らすことができる。第一生徒学生が教育を受けるための時間的肉体的負担が大幅に減る。いいことずくめである。なにより時代の移り変わりであるから反対しても無駄である。

「師の謦咳に接する」という言葉が死語になり、若いころに人間を鑑賞する機会を失うところが唯一の欠点である。この欠点を補うことは文科省には無理である。広く社会一般でこの欠点の目立たないようにしていくより他ないであろう。

液晶画面を通して師の謦咳は伝わらないものである。嘘だと思うなら、当代随一の女優さんの色香が液晶画面を通してどれだけ伝わるかを試してみればいい。私は効率を導入することに反対しない。ただ効率を求めて失うものあることを知るべきであると思うのである。


映画 アラビアンナイト三千年の願い② あるいは世界残酷物語のバージョン2かも

2023-05-17 12:14:29 | 日記

映画 アラビアンナイト三千年の願い② あるいは世界残酷物語のバージョン2かも

 こう思い当たった。ビンから飛び出した召使の魔物は、本当の願いに出会えたら自分は人間になれるというようなことを言う。軽く聞いていたが、これが物語の決定的ポイントかもしれない。ならば、シバの女王もハーレムの王様も本当の願いを言わなかったまたは本当の願いが無かったが、このイギリスの初老の女性学者には本当の願いがありましたそうして本当の願いを言ってくれましたということを言いたいのかもしれない。三千年探し回ったけど本当の願いはここにあったという物語の造りになっていそうである。あちらこちら探し回ったけど幸せは自分の足元にあるという「青い鳥物語」と同じである。

 よく似た話に我が国の竹とり物語や、もう半世紀以上前に一世を風靡した映画世界残酷物語と同じ構造が見られる。世界残酷物語では、少女に世界一残酷な話を集めてきたら結婚しましょうと言われて残酷な場面に遭遇するように世界を経巡って(そんなことありえへんやろと思いながら見ていたが)、もうよかろうと帰ってきたところ少女は老いの陰激しく結婚の意志が萎えてしまった。この時間の経過が一番残酷なことですよという物語であったように記憶している。

 なぜ人はこんな物語を必要としているのか。あちこち幸せを捜し歩いているけど実は何が幸せかわからんようになってきたということではないのか。( むかしは、幸せの基準がほぼ万人共通であった。御飯が食べることであった。)この映画は何が幸せかが分かっているうちはまだやり様があったが、社会の構造が複雑になってしまって幸せの意味が分からんようになってしまったことを揶揄しているのか。

 

  この映画の特色は(世界残酷物語もそうであるが)登場人物の誰とも観客が一体化しないのである。普通はヒーローと観客が一体化するところが映画の良いところである。観客は我を忘れている時間に無意識に普段の自分を反省しより良く生きていく計算ができるとわたしは思う。しかしこの映画は、登場人物と観客は徹底して他人であるから、その意味では観客は非日常の世界に遊んで普段の自分を反省するということができない。であるのに、私は三千年の願いを見ながらいろいろ普段の自分を反省するまたは先々の方針を立てるところが少しはあった気がする。これをあほらしいことと他人は言うかもしれないが、実感としてそうすることで自分の人生うまく行きそうな気がする。

   おお思いついた。四谷怪談は、(この三千年の願いと同様)登場人物の誰とも一体化しないししたくもない。しかし、あれを見ている間、私どもは自分の日常の何かを反省しているはずである。そうして少しでもうまく生きることができるようになるのではないかと思う。本能に従って生きることが許されなくなった以上または本能が弱くなったのであるから、私どもは時々は非日常の世界に遊んで自分の本心がどこにあるのかを探さねばならない。お猿さんは映画も見ないし小説も読まないで済むのである。親ザルは子ザルにかちかち山や猿蟹合戦の物語を聞かす必要はないのである。本能を見失うと生きていくのに物語に接するという余計な手数がかかるが我々はそれを省略してはならないのである。三千年の願いは、反省ができるという意味では四谷怪談と同等の価値ありと思う。この映画はそれができるという意味でもっと高く評価されるべきではないか。

  昔のヒトは神話やおとぎ話で本能の足らないところを補った。今のヒトは社会構造が変化しているから接するべきお話が昔とは変化する必要がある。新しいストーリーテラーがどんどん生まれることが期待される。