本の感想

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小説 新坊ちゃん④ 就職

2023-06-30 22:29:40 | 日記

小説 新坊ちゃん④ 就職

 言い忘れたが、雇われ者ながら予備校の経営はしっかり観察した。わたしは多分同じような組織運営ならできるであろう。まず講師控室である。広くて快適な部屋で世話をする若い男の人が一人だけいる。部屋に入るときも出るときもこの人の挨拶を受ける。控室に居る時間はそんなに長くない。入ったら今日教えるところの予習をし、終わったら質問に来るのがなければさっさと帰る。居るのは同業者であるから、多少気を遣うが何のトラブルもない。この挨拶をする若いのが居るおかげでだと思うが至極平和な空間であった。この人材を挨拶だけに使うのはちょっと勿体ない。そのほかの職員は皆テキパキ働いていて気持ちが良かった。そこを去るのであるから勇気が要るがわたしには縁談が大事である。

 教職免状はあと数単位とらねばならないので慌てて聴講生を申し込んで、学校の先生になる方針を立てた。これなら終身雇用であるから先方の親も文句がないであろう。採用試験は夏の暑い日であった。まず一般教養の試験があるのだがそれ以外の試験も含めて試験問題が情けないほどレベルが低い。そのうえ品がない。わたしは数年間だけど大学入学試験問題を熱心に解いてきた。品のない問題を出す大学はランクの低い大学である、一流大学はさすがという出題をする。教員採用試験は最低ランクの大学よりさらに品のない出題をするところである。どうも教育委員会といのはあんまりレベルの高くない人材が集まっているようであると見当がついた。さもなくばここに雇われている人々は気を入れて仕事をしていないのであろう。

 面接に出てきたのは、頭の中身はどうだか知らないが恐ろしく威張りクサッた老人が偉そうな口をきくので驚いた。何を聞かれてどう答えたのかさっぱり覚えがない。予備校の職員はテキパキしているうえに偉そうでない。両者全く異なる。しかし何事も縁談のためである、ここはいらざる批判をしないで賢く振る舞わねばなるまい。

 無事採用になって、実際四月に赴任するまでが最後の予備校勤めである。予備校の校長もさらにその上に居る理事長もいい人であった。校長に辞める前にあいさつに行くと長いことご苦労様でしたとねぎらってくれた。さらに理事長のとこへも行けと言うので行くと餞別に見たこともない上等のボールペンをくれた。これは今でも大事にとってある。理事長は一代で巨大な学校を作ったひとである。それでも腰の低い愛想の良いヒトであった。わたしは今でもあんな人になりたいと思い出す。

 さて念願の縁談であるが会ってみて驚いた。写真の人物とはかなり違いがある。まあそれはお互いだから文句は言わないことにしても、「不動産賃貸業」というのが曲者であった。お父さんは真面目なサラリーマンでたまたま所有していた小さな家を貸に出して月四万円とかのおカネを得ているということである。よく見ると釣書には小さい字で勤めている会社名が書かれており、不動産賃貸業が大きな字で書かれていたため見落としてしまった。月四万円は無いよりは良いけどこれは業としてやってるんじゃないだろう。

 自分にもやっと運が廻ってきたと勘違いしたのである。もう天にも昇る気分で勝手にあれこれ自分にいいように物事を解釈してしまったのである。自分は運のいい人間であると思い込もうとしたのである。しかし反省してももう遅い。予備校は辞めると言ったし公立高校へ赴任する四月はもうすぐである。この縁談は断ってとにかく就職はして次の本当の運が廻って来るのを待つことにした。唯一良いことは、これから毎年三月にびくびくしなくて済むことこれだけであった。しかしなってみて分かったことだが学校にはもう一つだけだが良いことがあった。夏休みである。予備校の夏は本当にかき入れ時で忙しいが、学校は暇であった。収入が半分以下になったのは痛かったがこの二つのことがあるのでまあ許そうかという気になる。

 しかし、良いことはこの二つだけであとは悪いことだらけであった。学校は悪魔が住む所である。現代の伏魔殿である。それは採用になった四月一日に早速分かった。


小説 新坊ちゃん③ 予備校講師時代

2023-06-29 22:35:49 | 日記

小説 新坊ちゃん③ 予備校講師時代

 母親は私が医者にならなかったことをひどく悔やんでいたが、こうやって気楽に高給を食むことができると親にも強く出ることができる。ついつい親に偉そうなしゃべり方になったのはいけないことであった。当時の私の年収は七百万くらいであった。大卒初任給が二百数十万という時代である。しかも周りには年収二千万の講師が五~六人はいたであろう。いずれあのようになって肩で風切るようになりたいと本気で思っていた。

 気がかりなことと言えば、この仕事は終身雇用ではなく年度ごとの更新であることであった。次の年再び仕事を依頼されるかどうかわからないので二月三月はびくびくして過ごさなければならない。二千万プレイヤーは専任講師という肩書で大体六十歳くらいまでびくびくしないで長期契約で働けるから私もそれになれるまでは頑張らないといけなかった。

 おカネがあるもんだからいい下宿に移り住み、毎日うまいものを食って受験数学問題を解く生活はなかなかいいもんである。私の人生碌な時代がないが、戻れるものなら戻りたい唯一の時代である。そんなことをしながら五年くらいしたころ、親がスキ焼を作るから帰って来いという。キット縁談の話を持ち込むつもりだろうと思ったが、見てから難癖をつけて断ってやろうと考えてとにかく帰ることにした。

 思いのほか上等のスキ焼を食べながら親は案の定 釣書を持ち出してきた。どこに難癖をつけようかと開いてみると、一番初めに宗旨の欄があることに驚いた。まあクリスチャンとかだとあとあと問題になるかもしれないけど、日本のありきたりの宗旨なら何でも同じじゃないか。そんなことより親の仕事に目が行った、不動産賃貸業とある。これはいい。もし今年で仕事が打ち切りになったら次の年何で飯食うかは当時大問題であった。少々厚かましいが嫁さんの親に頼ることができる。しかも写真家の腕かもしれないが、なかなかの美人である。方針を大転換してとにかく会うことにした。

 釣書を送れと言うことなので大奮発して値段の高い写真館へ行き、わざわざウォーターマンの万年筆を購入してしかもロイヤルブルーのインクで丁寧に釣書を書いてやった。年収の欄には一千万円(税込み)と書いてしまった。これはいくら何でも盛りすぎだけど二~三年先にはなるかもしれない金額を書いておいてもまあ言い訳はできるであろう。そうしたら二か月くらいたって知らないおばちゃんから電話がかかってきた。

「先様は大変気に入っておられます。ただし、いろいろお調べになったようで、あなたは年度ごとのご契約だそうで。」

 よくそんなことまで調べがついたとあきれるがそうだと答えると

「収入がいくら減ってもよろしいですから、終身雇用の会社にお替りになることが縁談をすすめる条件になっております。」

 良い折だから相手のいいなりになっておくと良いことが起こるかもしれないと考え、それでは、一年くらい時間がかかるがと言うと

「先様はあなたのことをお気に入りですからそのくらいは待つとおっしゃっています。」

不動産賃貸業の美人のお嬢さんを射止めることが出来たら人生がさらに好転するのは目に見えていたので、ちょっと迷ったがこの申し出を受けることにした。たとえ年収が減ってもそこは不動産賃貸業からの援助があるであろう。

 わたしのこの気楽な生活を送りたいという方針と行き当たりばったりな生き方があとあと大変な災害をひきおこすことになるのは当時は知る由もなかった。


小説 新坊ちゃん②大学生のころ

2023-06-28 23:18:57 | 日記

小説 新坊ちゃん②大学生のころ

 父親は工学部へ行って手堅い技術職に就くことを望んでいたようだが、なかなか立派な人でそれを口に出さなかった。当時高校で理系に行ったのに経済学部へというのは格好悪いこととされていた。人生の大事を格好がいいかどうかで決めるのはいかんと思うんだが、ついつい見栄を張ってしまった。これが「敗着」というものであった。プロの棋士なら何回戦かあるからたった一回の敗着で人生を失うというわけではないが、普通の人なら一回で将来を失うようなこともある。それが痛いほど分かったのは後々のことである。しかしこの時は敗着とは思わなかった。

 私は理系にこだわり数学科へ行くことにした。当時の高校の数学の先生は特に私を別室に呼び出して「数学科へは行くな、おれみたいになるぞ。」とこんこんと説諭した。なるほど給料が安くて雑用だらけなのは願い下げであるが、見栄にこだわったのととにかくどこかの大学へ入っておいてそのあとでじっくり考えようとの算段をたてた。「考えてから走ってはいけない、考えながら走れ。」というのは、名言である。とにかく大学に入ってから考えるというのはじっくり考えてから先のことを決定するということだと当時は思っていたが、実は考えずに走り出すのと同じことである。無鉄砲というか向こう見ずというか甚だ慎重でないやりかたであった。失敗したと後々のいまに至るまで後悔している。

 それでも大学に入ったのはいいが、世の中には私より偉い人賢い人が一杯ということを知っただけでたいして良いことはなかった。将棋も私より強いのが一杯いる。仕方ないから運の要素も強い麻雀ばかりやって四年間を過ごした。家に帰ると母親は今からでも退学して医学部へ行けと言う。これが辛くてだんだん家に帰らなくなった。血や骨を見なくていいなら行ってもよかったんだけどそうはいかないだろう。

 大学生の間の試験は、結構ヤマを当てるのが旨いもんでまあまあの成績であった。勉強したのか遊んだのかどちらとも言いかねる四年間ののちに、就職の時が来てしまった。小さいときから何かと損ばかりしてきたが、就職の時は損はしなかった。本当に天から幸せが降ってくるような思いをした。今なら数学科はそれなりに役に立つところもあるが当時の数学科の就職は難しかった。それが、先輩がどこか遠いところの大学の助手採用になったのでアルバイトの予備校講師の口を私に譲ってくれた。そこであんまり後先考えずに予備校講師になった。これが当時は大変な高給であって大卒初任給の三倍から四倍はあったろう。わたしはしあわせな就職をしたことになる。ただし終身雇用でない、一年契約である。これがあとで大問題になる。一年契約だから就職したとは言えなかったがともかく自分で食べて行けるようになった。わたしは契約更新を四回してそれから五年間予備校講師を勤めることになる。その間少しずつだが給料(正式には講演料という名目である)が上がっていった。六年目も契約更新する気になればできたと思うがある事情でそれはこちらから辞退したのである。


小説 新坊ちゃん① 高校生の頃

2023-06-27 15:04:52 | 小説

小説 新坊ちゃん① 高校生の頃

 高校生の頃私は将棋が強かった。紙で拵えた将棋でクラスの大抵のと勝負して負けたことがなかったが一人だけどうしても勝てないのが居た。話に聞くところでは先祖代々暦の製作にかかわっていた人材を輩出したお家とかであった。暦の製作が将棋とは関係あるようにも思わないが彼にはとにかくよく負けた。勝ったことは一度あるきりである。勉強はいい加減にやっていたが数学だけは得意だった。しかしこの将棋の強いのは、私より数学がよくできた。この男はその後どこかの大学の教授になったらしい。

 父親は何も言わない人だったが、母親は私を医者にすることを望んでことあるごとに医学部へ行けと言っていた。しかし国公立しか授業料は出さないという。近所のだれだれは医学部へ行く決心をしたそうだ、お前も決心をせよとかの話をご飯を食べながらしていた。私は血を見るのは大嫌いであったのでなるつもりはなかったが、行かないと言うと次の日からご飯のおかずが減るのは確実であったのでいい加減に答えをごまかしておいた。母親は立派に世の中の役に立つ人間に育てようというのではない、単に儲かる業界だからという気持であった。その子供の私は親のそういう気持ちに反発してという心掛けではない、単に血を見るのが嫌なだけであった。

 そんなわけで大学進学の時は本当に揉めた。本当は文系へ行って経済学部くらいでお気楽な大学生活を送りたかったのだが、当時の私の友人はこぞってお前は営業とか一切できないから理系に行けと勧める。それでうかうかと高校の三年の時理系へ行ったのが間違いの始まりであった。私は多くのヒトの言うとおりにして碌なことがないことを人生の最初の方で学習してしまった。理系の中でも工学部は面倒くさそうでやる気が起きなかった。数学はまあ得意であったので軽い気持ちで数学でもやるかと思ったのがすべての失敗の始まりである。

 西洋の格言に「ノンシャラスはいけない」というのがあるらしい。ノンシャラスとは気にしないの意味で、わたしはあんまりにもノンシャラスに自分の人生を考えてしまった。わたしには実は数学の才能は無かった。


小説 新坊ちゃん

2023-06-27 15:02:49 | 小説

小説 新坊ちゃん 

まずこのお話は全部フィクションであることを特にお断りしておく。

たとえよく似た人物が居たとしてもそれは偶然である。わたしは拙文を書いている間どういう訳か胸中大変爽快であった。

 

序章 よっちゃんのこと

 私が小学2年の頃二軒隣りの大きな家によっちゃんと呼ばれていた男のヒトが住んでいた。佳三と書くらしいがだれもよしぞうとは呼ばなかった。小さい子供ではない、私の父親と同じくらいの歳で子供はいなかった。いつもぶらぶらしていて仕事はしていなささそうだった。

 ある寒い冬の日の朝のことである。学校に行くために家を出ると、よっちゃんの家の前の道路に茶色地に黒の縦縞の入った布団ひとかさねと白地に紺の縦縞の湯飲みひとつが放り出されていた。布団が土の上にあるのであるから汚れて勿体ないなと思いながら登校したのでよく覚えている。

 お昼過ぎに帰宅した時には、布団も湯飲みもなかった。母親にあの布団勿体ないなと言うと、母親はいつもは怖い顔しているのにこの日だけはにやにやしながら

「オマエも遊んでばっかりいたらアないなことになるねんで。」

とだけ言った。

アないなことの意味は分からなかったが、ここを追及するとまたいらざる母親のお怒りを誘発しそうであるから黙っておいた。しかし近所の遊び仲間に聞くと、よっちゃんは婿養子であったがあんまり遊び歩いたために離縁になったという話であった。たしかにその後よっちゃんの顔は見たことないし表札からもいつの間にか佳三の名前は消えていた。

わたしは小さいころから勤労精神のない人間で、それまでよっちゃんのようにぶらぶらした生活を送りたいと考えていたのであるが、この事件でわたしの人生観はかなりの変更を被った。

その後いつのことであったか、何かの折に母親がひどく腹を立ててわたしの布団を玄関から放り出しそうになった時は本当に怖かった。この時はとなりのおばさんがとりなしてくれたので、放り出されなくて済んだ。そんなわけでおばさんには今でも感謝している。同時に母親のように気性の激しい人はどうも苦手になった。