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決壊 上巻
決壊 下巻
2008
平野啓一郎


久々の読書感想文は平野啓一郎氏著作の「決壊」です。
これは傑作。(もちろん自分比)

多分、今回の感想文はつまらない方にはクソつまらない長文です。


さて、平野啓一郎氏というと、今時珍しい文学作家で、どうも小難しい本ばかりを書いている若手作家という認識。ちなみに、歳は私の一つ上。
その平野氏が帯を読むに殺人ミステリらしき作品を書いたと言うことで拝読。
正直、読んでもあんまり理解できんだろうなぁ、と思っていました。
しかし、ここ数年の著作は我々愚民にも理解できるように『降りて』きている感もあります。

結果、読んで大正解でした。
ミステリ然としした構成であり、難解であろう描写についてもページを割き丁寧に文言を重ねています。ともすると冗長なグダグダの言い回しに撮られるかもしれませんが、そのリピート感、「またその話かよ!」も意図的。
下巻では鉛筆で線引きまくりです。




あらすじは下記。

《2002年10月、京都を始めに全国で次々と犯行声明付きのバラバラ遺体が発見された。被害者は山口県宇部市で平凡な家庭を営む会社員沢野良介。事件当夜、良介はエリート公務員である兄・崇と大阪で会っていたはずだった。
犯行声明は「悪魔」と名乗る個人なのか集団なのか分からない署名がなされていた。
そしてその〈悪魔〉は共に〈離脱〉する人間を招集するかのようにメディアを利用していく。
真犯人の分からぬままバラバラにされた遺体は全国で発見される。
〈悪魔〉とは誰か?〈離脱者〉とは何か? 止まらぬ殺人の連鎖。ついに容疑者は逮捕されるが、取り調べの最中、事件は予想外の展開を迎える。明かされる真相。東京を襲ったテロの嵐。“決して赦されない罪”を通じて現代人の孤独な生を見つめる。》



新潮社のサイトにて平野氏本人の動画メッセージが観られます。
要約すると「現在の抱える問題、ちょっとしたことで『決壊』を起こしてしまいそうな社会(人間)を描こうというのが動機だ。」ということが述べられています。

このところ考えるともなく考えていることについて「あぁ、漫然と考えていたことはこういうことか!」と思わせる数々の件。
まさに平野氏の狙い通り、なのかはわかりませんが、考えさせられる作品です。
感想というか、今まで考えていたことを「決壊」という作品を以て醸成されたメモ書きの様なものを下記に。


昨今、私は社会(世の中)を取り巻く様に感ぜられる殺伐とした『悪意』の様なものの正体はいったい何なのだろう?と考えていたのですが、私の拙い思考では、結局それは『悪意』ではなく『無関心』ではないのか、と随分当たり前なことに帰結していたのです。
もう少し詳しく言うと、その『無関心』というのは『関わることをしない』という人間関係拒絶の類のものではなく、会話の節々に出てくる『わかる』という安易な同意の言葉に表出しているのではないか、と。
相手のことを考える(想像する)ことを放棄してしまい、自分と相手の間に何かを想像(創造)して何らかの補完するのではなく、それは手持ちの何かかから「まぁ、この辺で手を打っておこう」というような安直で打算的な同調ではないかと思っているのです。ただ、自分の考えばかりを言うことに必死になり、自分の順番が終わればあとは全て流れていく。
卑近な例を用いれば、カラオケボックスで歌っているときはその周りの人間の存在を意識せず陶酔し、人が歌っているときはその歌は流れるに任せ歌本をぱらぱらと見ているような状況が、その限定的な場だけのことだけではなく日常生活にまで流出してしまっているのではないか、ということです。

それと似た主人公のセリフが本編終盤に本作にあったので引用してみます。
「今の社会は共感による共同体という夢を追いかけているに過ぎず、あらゆる他者との距離をゼロにして、分かる、分かる、と言っって相づちだけで結び合うようなね。・・・ヘドが出る」
この文言をして平野氏の中にそういう想いがあるのかどうかは分かりませんが、一言で言うとまさにこういうこと。ただ、これも私がこの文言に勝手に感情移入しているだけであって、セリフにある『共感による共同体という夢』に入り込んでしまっているだけなのかもしれません。

共同体に属するために打算的な共感で済ませる。自分は決して動かない。
それは例えて言えば『心の天動説』化してしまった状態です。
余談ですが、人間の心がどこにあるかという問いに対してロボット工学の研究者である前野隆司氏が著作「脳はなぜ「心」を作ったのか」という著作の中でこう述べています。
《『心』というのは元々脳の機能として備わっているものではなく、あらゆる外部的な刺激への反射の集積から都合の良いものを(偶然)ピックアップしてそれを『心』や『個性』だと捉えているに過ぎないと述べているのに近い。例えば刺激とその反応を数多くの源流に見立て、それが一つになっていく川の流れがあったとして、『心』はその上流に有るのか下流に有るのかという問いにすれば、間違いなく下流なのだ。なぜなら、あまりにも多くの反応を唯一である『心』が全てフォロー出来るはずがない。あくまで、下流である方が合理的なのだ。》(受動意識仮説)
『心』の働きを天文学上の地動説に例えられる様な考えを述べています。刺激に対する反応というのは無個性であり、その『偶然の集積』こそが心である、と。私がこの考え方を全面的に信頼しているわけではないのですが、納得させられるところはあります。
この考え方に則ると、それでは『共感』とは何ぞや、ということになってしまう。無個性な反射の集積が心であるのなら、ある事象に対する共感というのは既に無個性であり、共感以前に同じ事象に対する反応は同様なものになるのでは。極論ですが。
これが善悪の判断ともなるとかなり似通ってくるのは当然で、しかしその善悪の判断があまりにも斗出してずれている、あるいは欠如している者が犯罪に走る。共同体に属るために必要な『共感』が既に無い。そして、本作ではこれをただの『欠陥』だと唱える。急に犯罪の話になりますが。
そして本作に登場する〈悪魔〉は自分のことを「システムエラーの産物」と言う。
システムとはもちろん社会のことで、自分は社会が作り出した『バグ』だと。そうすると、その殺人自体がある種『有って然るべきまともなこと』に思えてくるから不思議です。
同様に、他者との関わりが上手くとれない人(アスペルガー症候群等の自閉症患者)は欠陥があるために『共感』することができず、他者と関わることに障害が出てしまう。これはある程度解明されているようです。
人間の脳にはミラーニューロン(同情ニューロン)という他人の反応を鏡に映った自分のことのように捉えることが出来る機構があり、器質的に『共感』することができる機能が備わっていると言えます。そうすると自閉症という『病気』も脳というシステムのエラーが引き起こしたある種『バグ』として捉えられる。それを治療するのは地道な看護や励ましではなく、対症療法的な処置しかないということになってしまう。
本作はこういった視点で『人間の悪意』を描いているはないでしょうか。人間の『心』というものは一体どこにあるのか。それをロジックで解き明かそうと試みる。
しかし、ロジックで突き詰めれば突き詰めるほどに温度を失っていき絶望していく。
『温度』ではなく『ロジック』に解を求めた人間の終局が本作には描かれています。



また本作にある『人格の政治化』という言葉も(既出の言葉かもしれませんが)新鮮でした。
言葉通りの意味で、そもそも『政治』というものが『社会における公共的な意志決定』という文脈で語られているとして、「『人格』が個人の意志とは別なところで形成されている」といいうことです。
言い換えれば『他人の認識する人格』というのは『本人にしてみればメタ自分』である、と。
便宜的に『メタ』という言葉を使用しましたが、お気づきの通り、私の用法は矛盾したネスト(入れ子構造)になっています。(※本来『メタ』という言葉は「ある対象をさらに俯瞰した視点から記述する」ことを意味します)
それによって『自己認識』と『メタ人格』がループに固定されてしまう。どっちが本当なんだか誰にもわからない。いや、当人以外の個人からは固定され、当人だけが固定できない状態となってしまうでしょう。

本作で言うところの、誤認逮捕された沢野崇が、刑事が集めた状況証拠によってのみに犯人に仕立て上げられていき、その仕立て上げられた犯人像をメディアが流し、それが公共の認識として社会に浸透していき、その認識が崇の周辺の人間にまで到達し、その周辺の人間から崇に逆流していく。そして崇は「自分が犯人であるに相応している」という認識に至るという流れです。
この操作は刑事の「落とし」のテクニックなのでしょう。これは理にかなっているというか、私が当事者になったことは無いけれども、先の『松本サリン事件』での誤認逮捕の例を挙げるまでもなく現実にも何度も目にしている状況です。


ここからは平野氏が意識しているのは分かりませんが、本作中に散在する文脈を寄せ集めての私の見解です。


これらの『矛盾したネスト化人格』というものこそが現在の個人のキャラクターを形成しているパラドックスと言っても差し支えないでしょう。アイデンティティとは別の話です。
むしろ、アイデンティティが有る故に発生する矛盾。
誰もが身につまされることのはずです。
もし、身に覚えがない方がいらっしゃいましたらご一報下さい。そんなはずはありません。



本作の主人公である沢野崇は自分自身の人格を『政治化』されたものだと言う。
上述のパラドックスに身をゆだねている。
その個人が持つ『人格』は単一のものではなく、状況によって違う人格が現れる。これは多重人格と言われる解離性同一性障害(DID)とは違うもので、意図的に行っている。これは一般的なことである、と言う。
同時に、一個人において普遍的な人格は存在し得ないということを指す。
この場合の『人格』とはあくまで受け手から見た場合の『人格』であり、それは『偶然的、断片的、二次的』に集められた情報の集積であり、それら評価も受け手次第なのだ。
表出する『人格』とは『自己』とは別物である。
また、それらの情報というものは、有る程度自分でコントロールすることが可能であり、まさに『政治』と同様に関係している人間との合意の元に決定づけられる。
その数々の人格は個人の中に偏在するものなのだが、その人格同士に対話はない。
現実に存在する人間同士の疎遠さ以上に乖離してしまっている。
『ここにいる私』と『傍観者としての私』という二面性はよく言われることなのだが、それは対外的には認識され得ない。もしそれが認識されることがあれば、単純に「嘘がばれる」ことになってしまうからだ。
そして、その個人内にある『違う状況』におかれた自分同士が交わることが無い。他者の存在ありきで構築された人格が同時に存在しうるはずがないからだ。
反省することによる個人内会談も、そこでは既に違う状況であるのだから同時とは言えまい。
もし、その『政治化された人格』が存在しなかった場合はどうなるのだろう。どの他者においても同じ人格で振る舞うというのは理想かもしれない。「家族といる私」「仕事をしている私」「恋人といる私」「友人といる私」そして「ひとりでいる私」全てが同じ人格で接することが出来、克つ円満な関係をを築くことが出来るのであれば、それは理想的な社会であろう。けれども、現実にはそうはいかない。前提として上記にあげた全てのシチュエーションで自分の人格が受け入れられなければいけないからだ。クロスオーバーはあることは当然だが、そのさじ加減が難しい。
仕事の場では上司に気を遣い、部下にも気を遣いつつ時には檄を飛ばす。既にここにも程度の大小はあるものの二つの人格が現れている。その『人格』のまま「恋人と逢う」ことはしないだろう。
決して唯一の『人格』だけで世の中を渡っているわけではない。しかし、その『唯一の人格』が無いことの虚無感を野沢崇が切々と語るシーンがある。ちなみに、弟の野沢良介はこの人格の使い分けが下手な人間(唯一の人格しかない者)として描かれている。

この「決壊」では『現代に住まう人間の孤独』という割とベタなテーマをこういう方面で掘り下げている。
その掘り下げ方が半端ではない。
先ず、善悪という視点で語っていない。「そうなんだからしょうがない」という半ば諦め、半ば肯定する視点で語っている。


私が考える『現代の孤独』とは何か。
話は少しずれるのだが、私は「人の気持ちが分からない」ことは当然だと思っている。
稚拙な言葉で申し訳ないのだが『共感』とも違い『感情移入』とも違う。子供じみた言葉遣いの方がしっくりくる。
この考えは決してネガティブなことではなく「わからなくて当然なのだから、想像しなければいけない」という道徳の教科書に載っていそうなことが本当なのではないかと思っている。
無責任に使われる文脈での「人の気持ちがわかる」というのはドラえもんにおける「翻訳こんにゃく」や珍商品の「バウリンガル」ようなもので、ある種のファンタジーだと思っている。

上記で少し触れている野沢崇の言う「共感という共同体という夢を追いかけるための『分かる』という相づちにはヘドが出る」という言葉は「上辺だけでつきあうことの虚無さ」ということなのだが、どうして「上辺だけ」になってしまうのかを考えなければいけない。むしろ「上辺だけ」の方がテクニック的には高等ではないだろうか。

上記の『政治化された人格』で人間関係が成立しているであろう現在、下手をするとつきあう人間の数だけ人格を作り出している可能性すらある。
普通に考えれば【相手=人格数n】というのが個人の持つ人間関係の式となり人格数nを主観だけで考えればよいのだが、『政治化された人格』では人格数【n】同士が掛け合わさってしまう。シチュエーションが重ならないことなど無い【na x nb】。さらに、客観視する自分xがいて【na nb x】という視点が必要となる。複雑化してしまうのだ。個人の能力というかキャパシティにも因るのだが、この客観記するxが結局のところ対人関係が希薄化してしまうのは避けようもない。
希薄化してしまった関係を補うことと『共感による共同体』を追いかけるために必要な相づちは結局のところ「分かる」という単語になってしまったのではないだろうか。極論なのだが。
これが例えば「分かる」という言葉でなかったとしても、細分化された様に見える趣向を持つ人間同士でさらにその中に『共感』するためには、自分の持つ経験値の中から『共感に足る経験』を当てはめていくことが近道となる。本来であれば、自分の持たない経験を相手の心情を理解し、想像(=創造)することで補っていくのだが、既にその方法が採れないほどに細分化されているのではないだろうか。それによってこの『共感』とはその相手に対する『共感』ではなく『自身の経験』を当てはめた『合意』にすぎない。所謂最大公約数的合意だ。民主的と言っても良いかもしれない。
しかし、ある一つの事柄に於いて大枠ではすんなりと合意が求められたものの、少し詳細に述べると「考えていたのと違う」とあっさり合意が覆される。この落差によって「合意を求めた私」はすぐに孤独を感じてしまう。これは、飴と鞭のようなポジティブにはならない。自分自身が認められていないと感じることに直結するだろう。
これがこの「決壊」から考えられる『共感による共同体という夢がもたらす現代の孤独』である。

少し視点を変えると『コミュニケーション対象過多による対個人供給すべき情報の希薄化』と言えるのではないだろうか。
対象が多すぎて個人がコントロールしようとしたときに「できる」範疇を超えてしまった故の『共感』の大安売りなのだ。
更に斜めから見てしまえば、個人が吸収する情報がセグメントされすぎ、それが度を超した為に起こる『情報=セグメント』というメディア(ネット含む)主導の弊害ではないだろうか。
情報を自在にコントロールしている気になって結局は仕入れた情報の分だけ間口を狭めているだけではないだろうか。
これは、欲しい車を選ぶときに消去法で選ぶようなものだ。突き詰めれば突き詰めるほどに細分化されたユーザー設定に惑わされ、当初「燃費性能よりもカッコイイ車」だった設定が、契約書に行き着いたところは「チャイルドシートのオプションが無料」という本体とは全く関係ないところで判を押すようなものだ。

これがもし、対人関係であったらどうだろう。
大枠をすっ飛ばしてディテールだけの関係でしか他人と繋がることはできなくなる。
ディテールで繋がっていたつもりの他人とも少し枠を広げてしまえばあっけなく崩壊する『共感』。
果たして、それをしてコミュニケーションといえるのだろうか。決して言えないだろう。
包括的な判断をすべきだということでは決してない。
むしろ、包括的な判断をする前に『質感』レベルでの『共感』を求めるべきだ。


もし貴方が相手に「わかる」を期待するのであれば、貴方はその言葉を得るために恐ろしく面倒な手続きを踏むこととなる。
しかし、それは今まで自然に行ってきたことなのだ。
レディメイドな新語や造語で済ますのではなく、多少間違っていようとも『自分の言葉』で自分を語るべきではないだろうか。
私はそう考える。

「決壊」に描かれている個人内で起こる殺伐とした葛藤こそが『孤独』なのだろう。『他人には決して理解されないだろう』という諦めに因った『蓋』をしてしまった状態だ。
しかし、あえて自分を『決壊』させることによって溢れ出る言葉こそがデザインされた言葉以上に本質を顕すのではないだろうか。

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コメント
 
 
 
Unknown (ジュリーブランキー)
2008-08-18 22:48:58
やっぱりムラ君は頭いいなあ、、、半分くらいしか分からなかった、
、、、

ま~読んでてなんとなく身につまされたけどね、、、、。


 
 
 
Unknown (juraky)
2008-08-19 08:48:08
イヤ、半分くらいしか理解されない駄文を書く程度の頭しかないよ。
頭いい人はこういうこと書いてもスッキリまとめられるんだろうなぁ。
 
 
 
Unknown (gs)
2008-09-03 15:04:20
こちらの記事を読ませていただき入手して読み始めました。オープニングが「歩いても歩いても」とずいぶんとかぶってしまいました。徐々にイヤ~な方向に導かれていってイイ感じなのですが、いかんせん前フリが長過ぎてクタビレます(自分はドストエフスキーさんに何度も挫折させられた偏差値です)。

物語より現実の方がエグイことやっていただける昨今ですが、殺人者たちのやらかしてくれるエンタテーメントに垂涎するばっかりじゃなく、もう少し大人として考えてみようかなと・・・(ムリですが)
文章の構造・構築法が勉強になりますが加齢とともにますますムリメです
 
 
 
Unknown (juraky)
2008-09-04 20:37:32
>>gsさん
コメントありがとうございます。
確かに、オープニングは「歩いても~」にかぶってますね。その後の展開が大違いですが。

現実と物語が競っている感覚にすらなってしまう昨今です。それにメディアが相当荷担しているのですが。

読後の感想を楽しみにしています。
 
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