上記の『政治化された人格』で人間関係が成立しているであろう現在、下手をするとつきあう人間の数だけ人格を作り出している可能性すらある。
普通に考えれば【相手=人格数n】というのが個人の持つ人間関係の式となり人格数nを主観だけで考えればよいのだが、『政治化された人格』では人格数【n】同士が掛け合わさってしまう。シチュエーションが重ならないことなど無い【na x nb】。さらに、客観視する自分xがいて【na nb x】という視点が必要となる。複雑化してしまうのだ。個人の能力というかキャパシティにも因るのだが、この客観記するxが結局のところ対人関係が希薄化してしまうのは避けようもない。
希薄化してしまった関係を補うことと『共感による共同体』を追いかけるために必要な相づちは結局のところ「分かる」という単語になってしまったのではないだろうか。極論なのだが。
これが例えば「分かる」という言葉でなかったとしても、細分化された様に見える趣向を持つ人間同士でさらにその中に『共感』するためには、自分の持つ経験値の中から『共感に足る経験』を当てはめていくことが近道となる。本来であれば、自分の持たない経験を相手の心情を理解し、想像(=創造)することで補っていくのだが、既にその方法が採れないほどに細分化されているのではないだろうか。それによってこの『共感』とはその相手に対する『共感』ではなく『自身の経験』を当てはめた『合意』にすぎない。所謂最大公約数的合意だ。民主的と言っても良いかもしれない。
しかし、ある一つの事柄に於いて大枠ではすんなりと合意が求められたものの、少し詳細に述べると「考えていたのと違う」とあっさり合意が覆される。この落差によって「合意を求めた私」はすぐに孤独を感じてしまう。これは、飴と鞭のようなポジティブにはならない。自分自身が認められていないと感じることに直結するだろう。
これがこの「決壊」から考えられる『共感による共同体という夢がもたらす現代の孤独』である。
、、、
ま~読んでてなんとなく身につまされたけどね、、、、。
頭いい人はこういうこと書いてもスッキリまとめられるんだろうなぁ。
物語より現実の方がエグイことやっていただける昨今ですが、殺人者たちのやらかしてくれるエンタテーメントに垂涎するばっかりじゃなく、もう少し大人として考えてみようかなと・・・(ムリですが)
文章の構造・構築法が勉強になりますが加齢とともにますますムリメです
コメントありがとうございます。
確かに、オープニングは「歩いても~」にかぶってますね。その後の展開が大違いですが。
現実と物語が競っている感覚にすらなってしまう昨今です。それにメディアが相当荷担しているのですが。
読後の感想を楽しみにしています。