六所神社(ろくしょじんじゃ)。
場所:山形県鶴岡市上藤島字六所畑62。JR羽越線「藤島」駅前から南東に約300m進み、突き当りを右折(南西へ)して約230m進むと、山形県道30号線(藤島由良線)沿いに石灯篭・社号標・説明板があり(写真1)、そこを左折、約190m。駐車場なし。
山形県鶴岡市には「六所神社」という神社が多いが、当神社は出羽国の総社であるとの伝承がある。社伝によれば、延暦13年(794年)の創建で、往古は国土経営の神として国常立尊、伊弉諾尊、伊弉册尊、素戔鳴尊、大己貴神、事代主神の六柱を奉斎したという。現在では、延喜式神名帳の出羽国式内社のうち現・山形県内に鎮座する大物忌大神、小物忌大神、月山大神、出羽大神、由豆佐賣大神、遠賀大神を祀っている。
確かに、当神社は、出羽国創建時の国府所在地との説がある場所に近く(前項参照)、「六所神社」という名も他国の総社にもよくあるものである。「六所」というのは6柱の祭神を指すこともあるが、管内の神社を登録・管理・統括する「録所」の意味であると言われることもある。元々、国司の重要な任務として管内の重要な神社の巡拝があったが、交通手段が限られ、管内も広いといった事情から、国府の近くに管内の神を合祀した総社を設け、巡拝を省くことが次第に行われるようになった。これはあくまでも便宜で、正式な制度ではなかったため、その成立時期は国によってまちまちだったと考えられているが、早くても平安時代以降と思われる。
さて、当神社が出羽国の総社だったのかどうか、次の通り、検討を要する事項が多い。即ち、
1.JR「藤島」駅付近に出羽国創建当初の出羽国府があったという説が有力であるが、発掘調査等では確認されていない。
2.出羽国創建前に「出羽柵」が設置され、「出羽柵」が出羽国府になったとみられるが、「出羽柵」は天平5年(733年)には秋田村高清水岡(現・秋田県秋田市)に移された。このとき、国府も移転したとみられる(反対説有り)。
3.「出羽柵」は後に「秋田城」となり、国府機能を持っていたが、蝦夷の反乱により、奈良時代末に国府は再び現・山形県庄内地方に移された。その経緯には諸説あるが、平安時代の出羽国府は「城輪柵」(現・山形県酒田市)であるとみられる(「城輪柵」の創建時期は9世紀第1四半期頃と推定されている。)。
4.そうすると、当神社が当地に総社として創建されたという意味は如何。
5.なお、山形県鶴岡市内には「六所神社」という名の神社が多くあるが、当神社が総社であるとする根拠は如何。
さて、どうだろうか。
玄松子さんのHPから(六所神社(鶴岡市上藤島))
写真1:「六所神社」参道入口。社号標と説明板がある(県道50号線沿い)。
写真2:正面鳥居と社号標
写真3:社殿。屋根が特徴的。
場所:山形県鶴岡市上藤島字六所畑62。JR羽越線「藤島」駅前から南東に約300m進み、突き当りを右折(南西へ)して約230m進むと、山形県道30号線(藤島由良線)沿いに石灯篭・社号標・説明板があり(写真1)、そこを左折、約190m。駐車場なし。
山形県鶴岡市には「六所神社」という神社が多いが、当神社は出羽国の総社であるとの伝承がある。社伝によれば、延暦13年(794年)の創建で、往古は国土経営の神として国常立尊、伊弉諾尊、伊弉册尊、素戔鳴尊、大己貴神、事代主神の六柱を奉斎したという。現在では、延喜式神名帳の出羽国式内社のうち現・山形県内に鎮座する大物忌大神、小物忌大神、月山大神、出羽大神、由豆佐賣大神、遠賀大神を祀っている。
確かに、当神社は、出羽国創建時の国府所在地との説がある場所に近く(前項参照)、「六所神社」という名も他国の総社にもよくあるものである。「六所」というのは6柱の祭神を指すこともあるが、管内の神社を登録・管理・統括する「録所」の意味であると言われることもある。元々、国司の重要な任務として管内の重要な神社の巡拝があったが、交通手段が限られ、管内も広いといった事情から、国府の近くに管内の神を合祀した総社を設け、巡拝を省くことが次第に行われるようになった。これはあくまでも便宜で、正式な制度ではなかったため、その成立時期は国によってまちまちだったと考えられているが、早くても平安時代以降と思われる。
さて、当神社が出羽国の総社だったのかどうか、次の通り、検討を要する事項が多い。即ち、
1.JR「藤島」駅付近に出羽国創建当初の出羽国府があったという説が有力であるが、発掘調査等では確認されていない。
2.出羽国創建前に「出羽柵」が設置され、「出羽柵」が出羽国府になったとみられるが、「出羽柵」は天平5年(733年)には秋田村高清水岡(現・秋田県秋田市)に移された。このとき、国府も移転したとみられる(反対説有り)。
3.「出羽柵」は後に「秋田城」となり、国府機能を持っていたが、蝦夷の反乱により、奈良時代末に国府は再び現・山形県庄内地方に移された。その経緯には諸説あるが、平安時代の出羽国府は「城輪柵」(現・山形県酒田市)であるとみられる(「城輪柵」の創建時期は9世紀第1四半期頃と推定されている。)。
4.そうすると、当神社が当地に総社として創建されたという意味は如何。
5.なお、山形県鶴岡市内には「六所神社」という名の神社が多くあるが、当神社が総社であるとする根拠は如何。
さて、どうだろうか。
玄松子さんのHPから(六所神社(鶴岡市上藤島))
写真1:「六所神社」参道入口。社号標と説明板がある(県道50号線沿い)。
写真2:正面鳥居と社号標
写真3:社殿。屋根が特徴的。