成田山 明王院 神護新勝寺(なりたさん みょうおういん じんごしんしょうじ)。通称:成田山新勝寺、単に成田山とも。
「成田山 新勝寺」は、平将門の乱を平定するために朱雀天皇の勅により僧・寛朝により創建された(前項「不動塚」参照)。「新たに勝つ」という語句に因んで朱雀天皇から「神護新勝寺」という寺号を賜わり東国鎮護の寺院となったが、その後、戦国時代の混乱の中で荒廃し、江戸時代までは寺勢は衰退していたという。よく知られているのは、歌舞伎役者・市川團十郎との関係で、父親の出身地が当寺に近かった所縁から、初代・市川團十郎が子宝祈願を行ったところ、子(二代目・市川團十郎)を授かった。これに感謝して、当寺の不動明王が登場する芝居を打つと、これが大当たり、以来「成田屋」の屋号を名乗ったという。元禄16年(1703年)以降、たびたび江戸で「出開帳」が行われ、それに合わせた市川團十郎の芝居の人気とも相俟って、江戸っ子の信仰を集め、「成田山」詣でが盛んになったという。この人気は現在も続いており、正月の初詣客は全国でも「明治神宮」に次いで第2位ということが多い。
ところで、地図で見ると、千葉市市街地から北東に進んできた道(国道51号線)は、成田市で放射状に広がることがわかる。県道18号線(成田安食線)で北西に進むと、「龍角寺古墳群」(2012年6月23日記事)・「天竺山 寂光院 龍角寺」(2012年6月30日記事)がある。国道408号線でやや西よりに北上すると、景行天皇が常陸国を遠望したという「鳥身の丘」の比定地の1つである「一之宮神社」(通称:矢口一之宮明神)の鎮座地がある(「鳥見神社(千葉県印西市中根)」(2013年8月24日記事)参照)。千葉県道161号線(成田滑河線)でやや東よりに北上すると、古刹「滑河山 龍正院」がある。その東には、式外社「神崎神社」(千葉県道63号線(成田下総線)で)、下総国一宮「香取神宮」(2012年3月3日記事)(国道51号線で)、「木内廃寺跡」・「小見川城山古墳群」(千葉県道44号線(成田小見川鹿島港線)で)など、重要スポットがあり、こうしてみると、現・成田市付近が古くから交通の要衝であったことがわかる。
「大本山 成田山」のHP
写真1:「成田山 新勝寺」総門。寺号標石碑は「成田山 金剛王院 新勝寺」となっている。現在は真言宗智山派の大本山であるが、宝永4年(1707年)に京都「大覚寺」の直末となり、「金剛王院」院室兼帯の令旨を受けて「成田山 金剛王院 新勝寺」と称したことによるものと思われる。
写真2:仁王門
写真3:大本堂
社員4:三重塔
写真5:釈迦堂。現在の大本堂建立までは本堂であったもの
写真6:光明堂。現在の釈迦堂が本堂となる前の本堂
写真7:奥之院。光明堂の背後にあり、洞窟の奥に大日如来像(不動明王の本地仏)が安置されている。
「成田山 新勝寺」は、平将門の乱を平定するために朱雀天皇の勅により僧・寛朝により創建された(前項「不動塚」参照)。「新たに勝つ」という語句に因んで朱雀天皇から「神護新勝寺」という寺号を賜わり東国鎮護の寺院となったが、その後、戦国時代の混乱の中で荒廃し、江戸時代までは寺勢は衰退していたという。よく知られているのは、歌舞伎役者・市川團十郎との関係で、父親の出身地が当寺に近かった所縁から、初代・市川團十郎が子宝祈願を行ったところ、子(二代目・市川團十郎)を授かった。これに感謝して、当寺の不動明王が登場する芝居を打つと、これが大当たり、以来「成田屋」の屋号を名乗ったという。元禄16年(1703年)以降、たびたび江戸で「出開帳」が行われ、それに合わせた市川團十郎の芝居の人気とも相俟って、江戸っ子の信仰を集め、「成田山」詣でが盛んになったという。この人気は現在も続いており、正月の初詣客は全国でも「明治神宮」に次いで第2位ということが多い。
ところで、地図で見ると、千葉市市街地から北東に進んできた道(国道51号線)は、成田市で放射状に広がることがわかる。県道18号線(成田安食線)で北西に進むと、「龍角寺古墳群」(2012年6月23日記事)・「天竺山 寂光院 龍角寺」(2012年6月30日記事)がある。国道408号線でやや西よりに北上すると、景行天皇が常陸国を遠望したという「鳥身の丘」の比定地の1つである「一之宮神社」(通称:矢口一之宮明神)の鎮座地がある(「鳥見神社(千葉県印西市中根)」(2013年8月24日記事)参照)。千葉県道161号線(成田滑河線)でやや東よりに北上すると、古刹「滑河山 龍正院」がある。その東には、式外社「神崎神社」(千葉県道63号線(成田下総線)で)、下総国一宮「香取神宮」(2012年3月3日記事)(国道51号線で)、「木内廃寺跡」・「小見川城山古墳群」(千葉県道44号線(成田小見川鹿島港線)で)など、重要スポットがあり、こうしてみると、現・成田市付近が古くから交通の要衝であったことがわかる。
「大本山 成田山」のHP
写真1:「成田山 新勝寺」総門。寺号標石碑は「成田山 金剛王院 新勝寺」となっている。現在は真言宗智山派の大本山であるが、宝永4年(1707年)に京都「大覚寺」の直末となり、「金剛王院」院室兼帯の令旨を受けて「成田山 金剛王院 新勝寺」と称したことによるものと思われる。
写真2:仁王門
写真3:大本堂
社員4:三重塔
写真5:釈迦堂。現在の大本堂建立までは本堂であったもの
写真6:光明堂。現在の釈迦堂が本堂となる前の本堂
写真7:奥之院。光明堂の背後にあり、洞窟の奥に大日如来像(不動明王の本地仏)が安置されている。