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神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

總社神社(常陸国総社宮)(茨城県石岡市)

2018-01-13 23:33:47 | 神社
總社神社(そうしゃじんじゃ)。通称:常陸国総社宮(ひたちのくにそうしゃぐう)、明神様。
場所:茨城県石岡市総社2-8-1。「常陸国府跡」(石岡小学校校庭)(前項)の南側、約100m。自動車なら、国道355号線「中町 国府3丁目」交差点から、西~南西に約450m進んだところで右折(北へ)、約80mで駐車場入口。なお、境内入口は「石岡市民会館」の南、約130mのところにある。
社伝によれば、天平年間(729~749年)の創建とされるが、「総社」(国司の義務である国内神社の巡拝を効率化するため、国府の近くに国内の神々を合祀した神社)自体の発生が平安時代末期と言われているところから、当神社自身のHPでも、そのように書かれている。元々は「国府宮」と呼ばれていたが、天神地祇6柱を合祀したことから「六所明神」と呼ばれるようになったという。一説には、常陸国の式内社27社のうち名神大(社)の7社(「鹿島神宮」、「静神社」、「吉田神社」、「大洗磯前神社」、「酒列磯前神社」、「稲田神社」、「筑波山神社」)を合祀したという説もあるが、数も、現在の祭神(伊弉諾尊、大國主尊、素戔嗚尊、瓊々杵尊、大宮比賣尊、布留大神)とは合わない。ただし、各国の「総社」のうち、「六所神社」と称するケースが多々あるが、これは6柱の神を祀るというよりも、「録所」(管内の神社を登録・統括する役所・役職)から転じたとする説も有力なので、必ずしも数や祭神に拘る必要はないのかもしれない。なお、創建当初は、「常陸国分尼寺」(「常陸国府」の北)付近にあったが、天慶年間(938~947年)に「(常陸)大掾氏」が「常陸府中城」に築城した際に、鎮守のために現在地に移したとも言われているようだ。こうして、律令体制が崩壊していく過程で各国の「総社」の中には衰退していった神社も多かったが、当神社は中世・近世を通じて時の領主の庇護を受けたようで、永享12年(1440年)には太田道灌が奥州下向の際に武運長久を祈るため参拝し、戦勝後、「曙の 露は置くかも 神垣や 榊葉白き 夏の夜の月」という短歌を詠んで軍配団扇などを奉納したとされる。なお、現在も、毎年9月に行われる「常陸國總社宮例大祭」は「石岡のおまつり」とも称し、神輿・ささら・獅子頭・山車などが出て賑やかに挙行されて、関東三大祭りの1つに数えられるという。


常陸国総社宮のHP

茨城県神社庁のHPから(總社神社)


写真1:「總社神社」参道入口。社号標は「常陸總社宮」。


写真2:鳥居


写真3:随神門


写真4:社殿


写真5:境内の「日本武尊腰掛石」。日本武尊が東征の折、この石に腰掛けたという。


写真6:北側の参道にある鳥居と社号標(こちらは「常陸國總社宮」)。
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