柴崎神社(しばさきじんじゃ)。
場所:千葉県我孫子市柴崎174。国道6号線「柴崎」交差点から南西に約550m。駐車場は、手前約55mの「曹洞宗 東漸寺→」という案内板のところから西へ入る(道路が狭いので注意。)。
社伝によれば、日本武尊が東征のとき当地で武運長久を祈って幣立てをしたといい、現・我孫子市天王台という地名(当神社の南東、徒歩7~8分のところにJR常磐線「天王台」駅がある。)は日本武尊に因むという。神社としての創建は天慶元年(938年)とされ、平将門の祈願所であったともいうが、天慶2年(939年)には将門が常陸・下野・上野の国府を攻撃・占領して新皇と名乗った(「天慶の乱」)ものの、翌年、将門は討たれ、反乱は鎮圧されている。そのために、以後は社勢が衰えたとされるが、境内で永仁6年(1298年)銘の板碑の断片が発見されており(我孫子市内で最も古い年号の板碑という。)、当地における祭祀は続いていたようである。その後、将門直系の子孫と自称する相馬氏一門の守護神とされて崇敬を受け、永禄4年(1561年)には相馬氏家臣の柴崎城主・荒木三河守が社殿を修復したという。近世には、「羽黒・妙見社」として柴崎村の鎮守となり、明治元年に「北星神社」、明治13年に「柴崎神社」と改称して、村社に列格した。現在は、我孫子市の総鎮守と称し、祭神は天御中主命、日本武尊、蒼稲魂命、素盞鳴尊ほか。
蛇足:創建当初の祭神は不明だが、近世には「妙見社」であり、現在の祭神が天御中主神であれば、明治時代より前は妙見菩薩だった可能性もある(「妙見本宮」を称する「千葉神社」(2012年5月5日記事)も同様。)。将門の子孫を自称する千葉氏・相馬氏が妙見菩薩を信仰していたことは確実だが、将門自身もそうだったかは不明。小説やブログなどで将門自身が妙見菩薩を信仰していたことを当然のように書いてある記述もあるが、それを裏付ける資料はない。軍記物語「将門記」には、将門が八幡大菩薩から新皇位を授けるとの神託を受けたという記事はあるが、妙見菩薩の名は出てこない。また、将門所縁の寺院で、将門の守り本尊だったという仏像の伝承があるケースでも、観世音菩薩、薬師如来、不動明王など様々である。妙見信仰自体は、わが国には7世紀頃に伝来したとされており、将門が信仰していた可能性もないとは言えないが、「将門記」以後の将門と妙見信仰を結びつける文書等はいずれも千葉氏・相馬氏の関係者が絡んでいるようである。このように考えると、将門自身には妙見信仰はなかったのでないかと思われる(あくまでも私見です。)。
柴崎神社のHP
写真1:「柴崎神社」鳥居と社号標
写真2:鳥居横の青面金剛、庚申塔
写真3:境内の道祖神、青面金剛像、庚申塔(猿田彦大神)
写真4:手水舎と神亀
写真5:狛犬と並ぶ神亀(玄武)石像。玄武は北方の守護神で、妙見菩薩の神使とされる。
写真6:拝殿
写真7:本殿
写真8:境内の黒髪塚。日露戦争のとき、出征する兵士の妻たちが夫の無事を祈って黒髪を捧げたという塚。
写真9:境内の神武天皇遥拝碑。左手には明治天皇遥拝碑もある。
写真10:北側に隣接する「羽黒山 円福寺」本堂。江戸時代初期頃の創建かといわれる。「柴崎神社」の旧別当寺で、現在は真言宗豊山派に属し、本尊は阿弥陀如来。
写真11:同上、大師堂。新四国相馬霊場八十八ヶ所第55番札所となっている。
写真12:同上、上の大師堂の隣に所謂「鯖大師」像を安置した大師堂もある。「鯖大師」伝説の中心地は四国で、関東地方では比較的珍しいのではないだろうか。
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