神が宿るところ

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佐久の大杉

2024-03-09 23:32:38 | 巨樹
佐久の大杉(さくのおおすぎ)。
場所:茨城県石岡市佐久622。「瓦会小学校」校門前から西へ約150mのところ(佐久集落への案内看板が出ている。)で左折(南~南西へ)、約1.1km。「佐久農村集落センター」の奥に「鹿島神社」が鎮座。駐車スペース有り。
「佐久の大杉」は、石岡市佐久集落の中央部にある杉(スギ)の巨木で、樹高約20m、目通り幹囲約8.8m)、推定樹齢約1300年とされる。伝承によれば、「大化の改新」(645年)の頃、大和朝廷からこの地に派遣された国司の後裔が手植えした杉であるという。応永34年(1427年)に神社が創建されたとき「すでに千年に近い杉」といわれていて、元禄16年(1704年)に武甕槌尊を祭神に迎えて「鹿島神社」となったときには「千年を越す巨木」といわれたとのこと。よって、「鹿島神社」の御神木ではあるが、神社の創建よりもはるかに古くから存在したことになる。当地の南、約500mのところに4世紀後半~5世紀初頭頃の前方後円墳「佐自塚古墳」、当地の北、約200mのところに「佐久上之内遺跡」・「佐久松山遺跡」(古墳時代の豪族居館跡らしき方形濠跡や奈良~平安時代の集落跡など)があり、「鹿島神社」境内からも皿・坏など供献用の須恵器が発見されていることから、当地は元々、古代社会において祭祀を執行する神聖な場所であったと考えられている。近代でも、太平洋戦争中には、兵士が武運長久を祈願し、樹皮をお守りにして戦地に赴いたという。
昭和16年に茨城県指定天然記念物に指定されたが、昭和41年の台風により、枯損していた上部10m程が倒壊してしまったので、元は約30mの高さがあったことになる。「八郷町誌」(昭和45年)では「余命いくばくもないのが惜しまれている」とまで書かれていたが、その後、地域住民らが立ち上がり、平成9年度から樹勢回復事業を開始し、土壌改良に加え、枝受けの銅管支柱や避雷針、見学用歩路などが設置されるなど、今も大事に保護が続けられている。
蛇足:「佐自塚古墳(さじづかこふん)」(場所:石岡市佐久170外)は墳丘長58m、後円部直径35m・高さ6m、前方部幅27m・高さ4.3m。昭和36年に発掘調査が行われ、不規則な透かしを持つ器台系円筒埴輪が検出されたほか、埋葬施設として後円部墳頂中央に全長約6mの粘土槨が確認された。その中に、勾玉・管玉・竹櫛・土師器の壺などが見つかっている。埋葬者は不明だが、伝承によれば、第10代・崇神天皇の皇子で上毛野君や下毛野君の始祖となった豊城入彦命の後裔・佐自努公が当地を治め、「佐自塚古墳」がその墳墓であるとされる。なお、当古墳の南、約550mのところにある「丸山古墳」(2018年10月27日記事)は豊城入彦命の墳墓との伝承があり、当古墳はそれに続く時期の築造とみられる。また、「佐久」という地名も佐自努公が訛ったものという(ただし、「佐」は「狭」で、細長い台地を示す地名とする説が有力。)。


茨城県教育委員会のHPから(佐久の大杉)

石岡市観光協会のHPから(佐久の大杉)

石岡市観光協会のHPから(佐自塚古墳)


写真1:「鹿島神社」正面。祭神:武甕槌尊、御神体は金幣であるという。


写真2:社殿の背後に「佐久の大杉」


写真3:同上


写真4:大杉の片側は白骨化している。


写真5:同上


写真6:同上


写真7:同上


写真8:参道にある「光明真言供養碑」など

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