香取神社(かとりじんじゃ)。通称:若海香取神社。
場所:茨城県行方市若海455。茨城県道116号線沿いの「玉造第一保育園」前から、県道を北へ約500mで右折(北東へ)、道なりに約650m。駐車スペースあり。
社伝によれば、天長2年(825年)、下総国一宮「香取神宮」の分霊を鎮祭したのが創祀という。現在の祭神は経津主命。旧社格は村社(明治14年)。
「常陸国風土記」行方郡の条に、「鴨野の北に・・・高向大夫(たかむくのまえつきみ)の時代に築いた枡池(ますいけ)がある。北に香取御子之社がある。」(現代語訳)という記述があり、「香取御子之社」というのを「香取神宮」の分祠と解釈して、当神社をこれに比定する説がある。ただし、現・行方市捻木の「香取神社」(次項予定)に比定する説もあり、なかなか決め難いようである。因みに、現・行方市若海、捻木はともに、旧・行方郡現原村(明治22年~昭和30年)に属したが、捻木の方は、古代には茨城郡に属していた(「常陸国風土記」にも、梶無川が茨城郡と行方郡の境である旨が記されている。)ので、あくまでも行方郡についての記述だとすると、当神社が有力ということになるのだろう。なお、当神社は「若海貝塚」の上に鎮座しており、その貝塚からは縄文時代中期頃の保存状態良好な成人男性の人骨が発見されている。この人骨は、うつ伏せで、両膝を折り曲げた状態となっており、伏臥半屈葬という形で埋葬されたものらしい。こうした事例が少ないため、それがどのような意味があったかは不明だが、少なくとも、縄文時代から当地に相当大きな集落があったことは確実と思われる。
ただし、当神社は、「枡池」の遺称地とされる場所(「市杵島神社」(前項)参照)の南西、約1.5km(直線距離)の位置にあり、その意味では「枡池」の北とは言い難いようだ。
写真1:「香取神社」境内入口、社号標。
写真2:鳥居
写真3:拝殿
写真4:本殿
写真5:石碑。「常陸国風土記」が引用されており、当神社の創祀は(風土記編纂の官命があった)和銅年間より前であるとしている。
場所:茨城県行方市若海455。茨城県道116号線沿いの「玉造第一保育園」前から、県道を北へ約500mで右折(北東へ)、道なりに約650m。駐車スペースあり。
社伝によれば、天長2年(825年)、下総国一宮「香取神宮」の分霊を鎮祭したのが創祀という。現在の祭神は経津主命。旧社格は村社(明治14年)。
「常陸国風土記」行方郡の条に、「鴨野の北に・・・高向大夫(たかむくのまえつきみ)の時代に築いた枡池(ますいけ)がある。北に香取御子之社がある。」(現代語訳)という記述があり、「香取御子之社」というのを「香取神宮」の分祠と解釈して、当神社をこれに比定する説がある。ただし、現・行方市捻木の「香取神社」(次項予定)に比定する説もあり、なかなか決め難いようである。因みに、現・行方市若海、捻木はともに、旧・行方郡現原村(明治22年~昭和30年)に属したが、捻木の方は、古代には茨城郡に属していた(「常陸国風土記」にも、梶無川が茨城郡と行方郡の境である旨が記されている。)ので、あくまでも行方郡についての記述だとすると、当神社が有力ということになるのだろう。なお、当神社は「若海貝塚」の上に鎮座しており、その貝塚からは縄文時代中期頃の保存状態良好な成人男性の人骨が発見されている。この人骨は、うつ伏せで、両膝を折り曲げた状態となっており、伏臥半屈葬という形で埋葬されたものらしい。こうした事例が少ないため、それがどのような意味があったかは不明だが、少なくとも、縄文時代から当地に相当大きな集落があったことは確実と思われる。
ただし、当神社は、「枡池」の遺称地とされる場所(「市杵島神社」(前項)参照)の南西、約1.5km(直線距離)の位置にあり、その意味では「枡池」の北とは言い難いようだ。
写真1:「香取神社」境内入口、社号標。
写真2:鳥居
写真3:拝殿
写真4:本殿
写真5:石碑。「常陸国風土記」が引用されており、当神社の創祀は(風土記編纂の官命があった)和銅年間より前であるとしている。
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