丸山古墳(まるやまこふん)。丸山古墳群第1号墳。
場所:茨城県石岡市柿岡字丸山4123ほか。「佐志能神社(茨城県石岡市柿岡)」(前項)に隣接。駐車場有り。
「丸山古墳」は、恋瀬川に南面する高友丘陵と呼ばれる丘に築かれた前方後方墳で、全長約55m。前方後方墳は茨城県内では珍しく、昭和27年に行われた発掘調査において銅鏡、鉄剣、銅鏃などの武器類や玉類など豊富な副葬品のほか、遺骸の頭部とされる場所に水銀朱が撒かれていたことから、ヤマト王権に関連する貴人の墳墓とみられるという。墳形や副葬品などから、築造時期は4世紀末~5世紀初頭と推定されている(県内最古級)。
もちろん被葬者は不明であるが、第10代崇神天皇の第一皇子「豊城入彦命」の墳墓であるとの伝承がある。崇神天皇自体の実在性にも問題はあるようだが、一応、3~4世紀に実在した大王で、実質的に初代天皇とする説が有力らしい。「豊城入彦命」は、崇神天皇の命を受けて東国の平定に当たったとされるが、実際には東国には来ておらず、東国平定を行ったのはその後継者だろうという。それでも、東国平定の象徴的な人物となっていて、上野国二宮「赤城神社」、下野国一宮「宇都宮二荒山神社」などの祭神になっている。以上のことからすれば、被葬者は「豊城入彦命」ではないとしても、当地を平定するためにヤマトから派遣された将軍の墳墓である可能性は高いということなのだろう。
石岡市のHPから(丸山古墳)
写真1:県道脇に立つ「丸山古墳」石碑。この左手の狭い道路を入って「丸山古墳」と「(柿岡)佐志能神社」に向かう。
写真2:「丸山古墳」。フェンスに囲まれているが、中に入れる。
写真3:前方部。高さ約7m。
写真4:同上。
写真5:前方部から後方部を見る。
写真6:後方部にある五輪塔
写真7:万葉歌碑「庭に立つ 麻手刈り干し 布曝す 東女を 忘れたまふな」(巻4-521)
写真8:「二子塚古墳」(丸山古墳群4号墳)。「丸山古墳」の東側にある前方後円墳で、全長約35m。
写真9:同上。横穴式石室があり、開口している。明治時代に乱掘され、その後修復されたものという。
場所:茨城県石岡市柿岡字丸山4123ほか。「佐志能神社(茨城県石岡市柿岡)」(前項)に隣接。駐車場有り。
「丸山古墳」は、恋瀬川に南面する高友丘陵と呼ばれる丘に築かれた前方後方墳で、全長約55m。前方後方墳は茨城県内では珍しく、昭和27年に行われた発掘調査において銅鏡、鉄剣、銅鏃などの武器類や玉類など豊富な副葬品のほか、遺骸の頭部とされる場所に水銀朱が撒かれていたことから、ヤマト王権に関連する貴人の墳墓とみられるという。墳形や副葬品などから、築造時期は4世紀末~5世紀初頭と推定されている(県内最古級)。
もちろん被葬者は不明であるが、第10代崇神天皇の第一皇子「豊城入彦命」の墳墓であるとの伝承がある。崇神天皇自体の実在性にも問題はあるようだが、一応、3~4世紀に実在した大王で、実質的に初代天皇とする説が有力らしい。「豊城入彦命」は、崇神天皇の命を受けて東国の平定に当たったとされるが、実際には東国には来ておらず、東国平定を行ったのはその後継者だろうという。それでも、東国平定の象徴的な人物となっていて、上野国二宮「赤城神社」、下野国一宮「宇都宮二荒山神社」などの祭神になっている。以上のことからすれば、被葬者は「豊城入彦命」ではないとしても、当地を平定するためにヤマトから派遣された将軍の墳墓である可能性は高いということなのだろう。
石岡市のHPから(丸山古墳)
写真1:県道脇に立つ「丸山古墳」石碑。この左手の狭い道路を入って「丸山古墳」と「(柿岡)佐志能神社」に向かう。
写真2:「丸山古墳」。フェンスに囲まれているが、中に入れる。
写真3:前方部。高さ約7m。
写真4:同上。
写真5:前方部から後方部を見る。
写真6:後方部にある五輪塔
写真7:万葉歌碑「庭に立つ 麻手刈り干し 布曝す 東女を 忘れたまふな」(巻4-521)
写真8:「二子塚古墳」(丸山古墳群4号墳)。「丸山古墳」の東側にある前方後円墳で、全長約35m。
写真9:同上。横穴式石室があり、開口している。明治時代に乱掘され、その後修復されたものという。