神が宿るところ

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下総国の古代東海道(その4・茜津駅)

2013-06-15 23:47:16 | 古道
延喜式に記された古代東海道(本路)は、下総国府の付属駅かともされる「井上」駅から常陸国符(現・茨城県石岡市)に向かう。当初の古代東海道は、相模国の現・神奈川県横須賀市の観音崎付近から海を渡って上総国(上陸地は不明だが、対岸なら現・千葉県富津市の磯根崎付近?)に行き、そこから北上するルートだったとされている。その後、武蔵国から下総国符を経て、常陸国府に向うルートに変更されたわけだが、ここから、①当初の古代東海道の駅路は必ずしも国府を結ぶものではなかったこと、②国府間を結ぶ道路(伝路)も別途あり、下総国と常陸国を結ぶ官道は後に伝路が駅路に転用されたことがわかる。
さて、井上駅・下総国府から常陸国に向うルートであるが、具体的には不明。発掘調査により、下総国府推定地(千葉県市川市国府台の国府台公園付近)の北で古代の道路跡が見つかっている。市川市新山遺跡(市川市国府台6丁目、化学療法研究所付属病院内)と呼ばれるが、側溝を持たない幅約4mの道路跡で、伝路を駅路に転用したため道路幅が狭いものとみられている。現在の県道1号線(市川松戸線)は、国府台団地の下から「国府台公園」入口に向って北北東に進み、そこから北北西に向かうが、古代東海道はおそらく現・和洋女子大構内から「法皇塚古墳」の横を通って真っ直ぐ北へ進み、国府台小学校の西側を通ったものと思われる。その先に「市川市新山遺跡」があり、更にその先は松戸市と市川市の市境となっている直線的な道路が続く。そこから自然に東北に進路を変えるが、松戸市の二十世紀が丘の住宅地にぶつかって、いったん道路は途絶える。しかし、地図で見ると、国道464号線「美野里」交差点付近から再び東北に向う道路がある。その先は、新京成電鉄「みのり台」駅、同「八柱」駅付近を通って、県道51号線(市川柏線)を経て直進すれば、東武野田線「逆井」駅があり、その線路を越えたところが柏市藤心で、ここが「柏市史」が推定する「茜津」駅となる。ただし、発掘調査等によって確認されたものではなく、道路の道形(みちなり)と標準的な駅間距離をもって推定したものとされる。なお、柏市藤心付近は台地の端で、その先は手賀沼から発する大津川が流れており、古代には「香取海」の「津」(船着場)だったのだろうというのも推定の一因。
「茜津」といっても、ここから水路で行ったということではないらしい。とすれば、県道51号線を更に北に進んだ増尾付近(中世の増尾城があった。)、あるいは日立柏サッカー場付近(その東側は「あかね町」である。)も候補地ではないだろうか。


写真1:中世の増尾城は現在「増尾城址公園」になっている。柏市藤心付近には何もないので・・・



写真2:同上、案内板
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下総国の古代東海道(その3・井上駅)

2013-06-08 23:08:47 | 古道
古代の武蔵・下総国境である隅田川を越え、「延喜式」に記された古代東海道の下総国最初の駅は「井上(いかみ)」駅となる。東京低地に残された直線的な道路が古代東海道の痕跡であることは通説であるが、正に下総国府(現・千葉県市川市国府台)に向って真っ直ぐに造られていた。ただ、そうすると、古代には「太日河(ふといがわ、おおひがわ)」と呼ばれた現・江戸川に行き当たり、その先は急な崖になる。市川市国府台地の南側に「真間」という地名があるが、「真間」というのは崖や急な坂を意味した(「真間の継橋」:2013年3月2日記事参照)。現在の江戸川右(西)岸、東京都江戸川区北小岩四丁目付近の標高が約2mであるのに対して、左(東)岸の市川市国府台地の標高は約22mとなっており、崖が江戸川に迫っている。
駅家の屋根が瓦葺であった古代山陽道以外では発掘調査で駅家跡が確認されることは難しいが、特に東京・千葉においては住宅地化が進んでいるため、所在地を特定するのは極めて困難となっている。「井上」駅の比定地も諸説あったが、市川市国府台遺跡から「井上」と墨書された土器が発見されたことで、下総国府付近にあったことがほぼ確実となった。ただし、それが台地上(国府内?)にあったか、台地下の砂洲上にあったかについては、なお説が分かれているようである。駅家は単なる馬継ぎの場所ではなく、国司の宿泊や饗応の場所でもあったとされているから、国府の付属施設とするほうが駅家の運営上は良いと言えるだろう。一方、国府台の台地は、地形上の制約から、国府の標準とされてきた方八町より狭いこと、下総国府に寄らずに上総国に向う旅客にとってはいちいち急坂を上る必要に乏しいこと、中世以降には台地下が「市川宿」として発達することなどを考えると、個人的には、現・市川市市川二丁目~三丁目付近に「井上」駅があったのではないかと思う。
ところで、「更級日記」は、菅原孝標の次女(名前は不明)が、上総国司であった父に従って帰京する場面から始まっている。当時(寛仁4年(1020年))、作者は13歳で、その後老境の52歳頃までが綴られているが、その時々に書かれたのではなく、後にまとめて書かれたのだろうといわれている。そのせいか、上洛までの紀行文は交通史にとっても貴重な文献資料なのだが(国司一行だから、古代東海道を辿ったはず)、事実誤認や記憶違いが多いとされる。また、律令制が崩壊した頃といっても、「延喜式」から100年程しか経っていないのに、駅家らしき記載がないことも特徴の一つとなっている。さて、その「更級日記」では、武蔵・下総国境である太井川を「まつさとのわたりの津(松里の渡りの津?)」で渡ったと書かれている。当時も太井川(太日河)が国境ではないことは明らかであるので、この点は誤りである(ここで上総国から見送りに来た人々と別れているので、国境でないことを知りながら文学上の脚色として「別れ」を強調したのだという説もある。)が、「まつさと」というのは殆どの解説書で千葉県松戸市のことであるとしている。これは、「まつさと」と「まつど」が似ており、「まつさと」が現在の「松戸」になったと考えているようである。しかし、古代東海道の本路は、確かに下総国府から現・松戸市を通っていくのだが、常陸国に向うため北東方面に進路を取るとされているので、太日河(現・江戸川)からは次第に離れていく。また、かなり上流まで台地の崖が続いているため、現・松戸市内で渡河するのに適した場所は見出し難い(「渡りの津」と言っているので、単に渡りやすい場所ということではなく、渡河のための船着場があったということだろう。)。因みに、大ヒットした歌謡曲で有名な「矢切の渡し」(松戸市下矢切)は江戸川両岸に田を持つ農民のために設けられたもので、観光用に現存しているが、現在も交通は不便(北総鉄道「矢切」駅から徒歩約30分)で、渡河のためにこの付近まで遡ってきたとは思えない。と、いうことで、「松里」という地名自体が菅原孝標女の記憶違いだったかもしれないし、渡河したのは現・市川市であったのではないか(「まつさと」は現・市川市にあった?)という説も出てきている。「図説市川の歴史」によれば、地質調査の結果として、国府・国分寺が置かれた頃、砂州や台地上はマツ林だった、という。なお、蛇足だが、市川市の「市の木」は黒松(クロマツ)で、今もJR総武本線、京成電鉄本線の車窓などから散見される。
さて、江戸時代には、江戸川に「小岩・市川関所」が設けられていた。元々、佐倉街道に「市川の渡し」があり、元禄10年(1697年)に道中奉行が直轄することになって、渡しに置かれた番所が関所となったものという。ただし、旅人の吟味を行う建物自体は小岩側のみにあり、市川関所もその後の護岸工事等によって正確な場所がわからなくなってしまったらしいが、現在、京成電鉄「国府台」駅の南、約120mの江戸川堤防上に木の門と説明板が設置されている。この西側辺りに中世以来の「市川宿」があり、古代には「井上」駅家があったのではないかと思われる。即ち、古代には台地上に下総国府があり、台地の下に太日河に開口した「真間の入江」(国府津?)があって、その南の砂州上に駅家があった。こうして、駅家付近は陸路の要衝でもあり、太日河の水運を利用して市が発達し、これが後に宿場になっていったのではないかと思われる。


市川市観光協会のHPから(市川関所跡)


写真1:江戸川左岸は崖で、崖下には川に沿って狭い道路(歩道)が通っているだけ。


写真2:「市川関所跡」


写真3:「市川関所跡」前から国府台地の方をみる。手前の鉄橋は京成本線で、土手の右手に「国府台」駅がある。
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下総国の古代東海道(その2・東京低地の古代道路痕跡)

2013-06-01 23:22:55 | 古道
延喜式に記された古代東海道の武蔵国最後の駅である「豊嶋」駅(「谷中霊園」付近に比定)から下総国に向うルートは、JR・京成電鉄本線「日暮里」駅付近で台地を下り、下総国府(現・千葉県市川市国府台)に向って真っ直ぐ東へ進む。JR・東京メトロ「南千住」駅付近までははっきりしないが、東武電鉄伊勢崎線「鐘ヶ淵」駅の南側の直線的な道路、更に荒川を渡って京成電鉄押上線「京成立石」駅の南側の直線的な道路、奥戸橋から京成電鉄本線「京成小岩」駅の南側を結ぶ直線的な道路が繋がり、これが古代東海道の直線道路の痕跡とされているものである。これを示す地図が、奥戸小学校(住所:東京都葛飾区奥戸8-20-17)の北側の道路に「古代東海道」の案内板として設置されている(写真1)。この直線道路が古代官道の痕跡であることを最初に指摘したのは吉田東伍で、彼が編纂した「大日本地名辞書」(1899~1907年)では「墨田村より立石、奥戸を経、中小岩に至り、下総村に至る一径あり。今も直条糸の如く、古駅路のむかし偲ばる」と記されている。また、明治13年に作られた迅速測図という地図でも、明瞭に直線道路の存在が見て取れる。「京成小岩」駅南側から先にも直線的な道路は東に延びていて、真言宗豊山派「稲荷山 遍照寺 真光院(いなりさん へんじょうじ しんこういん)」という寺院に突き当たり、その「真光院」の裏は江戸川の土手で、川向こうに千葉県市川市国府台の台地(下総国府の想定地)が見える。古代には、「豊嶋」駅想定地である日暮里付近の台地上から、「下総国府」までが見通せたと思われ、それを目標に直線道路が造られたことは確実だろう。ただし、「京成小岩」駅南側から先(東)の道路には現在、「上小岩遺跡通り」という愛称が付いているが、上記の迅速測図には(「真光院」らしきものはあるが)直線道路はみられない。現・江戸川(古代には「太日河」と呼ばれたらしい。)の対岸は険しい崖で、そのまま進んだのではなく、どうやら「京成小岩」駅南側から東南方向に進路を変え、ほぼ京成本線の線路に沿って進んだものと思われる(続きは次項で。)。


「住んでみないと かわらん版」さんのHPから(この町の歴史)のHP


写真1:奥戸小学校前にある古代東海道の説明板。通常の地図とは南北が逆になっている。


写真2:「京成小岩」駅の南側から東に延びる直線的な道路は「上小岩遺跡通り」という愛称がついている(東の突き当たり付近)。


写真3:同上。「上小岩遺跡通り」の案内板


写真4:「真光院」入口。慶長7年(1602年)良鍐法印の開山で、本尊は阿弥陀如来


写真5:「真光院」裏の江戸川土手上から東を見る。写真右端の高いビルが和洋女子大学(「下総国府」想定地付近)
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下総国の古代東海道(その1・豊嶋駅)

2013-04-06 23:21:06 | 古道
古代東海道は当初、相模国(現・神奈川県)の観音崎から東京湾を船で渡って上総国に上陸、そこから北上して下総国を縦断(現・千葉市~佐倉市~成田市)して「香取海」に到り、再び船に乗って常陸国に入った(終点は常陸国府)とされる。これは、日本武尊の東征ルートと同じであるという。因みに、国名に前・中・後、上・下が付いている場合、都に近いほうから前・中・後あるいは上・下を付ける。房総半島の北側が下総国、南側が上総国になっているのは、都からの道順が上総国~下総国になっていたからだ、というのが通説。
さて、武蔵国は、元は東山道に属していたが、「続日本紀」の宝亀2年(771年)の記事により、東海道に所属替えとなったことが判る。また、その記事によれば、東山道の負担を負う上に、武蔵国を経由して下総国等へ行く公使も多くて負担が重いので、東海道に所属替えしてほしい、という理由が記されている。したがって、以前から下総国に向うルートはあったことになる。そして、「延喜式」によれば、武蔵国最後の駅は「豊嶋」駅になる。東京都には「豊島区」という地名があるが、「豊嶋」というのは比較的よくある地名だそうで、古代東海道武蔵国の「豊嶋」駅家は現・谷中霊園(東京都台東区谷中七丁目)辺りと推定されている。発掘調査等の結果ではないが、その前の駅の「大井」駅は現・JR京浜東北線「大井町」駅(東京都品川区)付近(こちらは遺称地である。)とされ、そこから北上した直線的なルートと、旧・下総国に当たる東京低地に残る古代直線道路の痕跡のルートの交点が、「谷中霊園」付近となる。木下良監修・武部健一著「完全踏破 古代の道 畿内・東海道・東山道・北陸道」(2004年10月)を引用すると、「現在のJR品川駅付近からは近世東海道、現在の国道15号に沿って北上し、JR田町駅付近から日比谷通りで皇居前を通り、名前が変わって本郷通りを北進し、直線路がなくなってもそのまま上野公園の西端を通って行けば谷中霊園に達する。ここが木下による豊嶋である。」。「東京低地に残る古代直線道路の痕跡」については、また別項で採り上げたい。
ところで、現「谷中霊園」付近は交通の要衝であったようで、東京都北区西ヶ原の「北区立滝野川公園」付近の「御前前遺跡」は武蔵国の「豊嶋郡家」跡と推定されている。ここから台地上を地形なりに南東に進むと、約3kmで台地の端の「谷中霊園」に到る。また、武蔵国府(現「大国魂神社」付近(東京都府中市))から下総国府(現「市川市国府台公園」付近(千葉県市川市))まで直線を引くと、「谷中霊園」の南端付近を通る。

「谷中霊園」は東京都立の霊園で、元は谷中「天王寺」の寺域であった。現在も谷中「天王寺」等の墓地も隣接して広大な霊園となっており、通称「谷中墓地」ともいわれる。なお、谷中「天王寺」こと「護国山 尊重院 天王寺」(場所:東京都台東区谷中7-14-8)は、元々、文永11年(1274年)に日蓮宗「長耀山 感応寺」として開山したが、不受不施派に属したため江戸幕府から弾圧を受け、元禄11年(1698年)に天台宗に改宗、天保4年(1833年)に現寺号に改称したという。この寺の五重塔は、幸田露伴の「五重塔」のモデルとなったことで有名であるが、残念ながら昭和32年に放火により焼失した。なお、現在の本尊は阿弥陀如来であるが、天台宗への改宗時には毘沙門天であり、現在も「谷中七福神」の毘沙門天に当てられている。


天台宗東京教区のHPから(天王寺)


写真1:谷中「天王寺」山門。入ったところに銅製の釈迦如来坐像(台東区指定有形文化財)がある。


写真2:同上。写真1の山門は現在的なデザインだが、右手に少し古風な門がある。
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駿河国の古代東海道(その13・足柄峠)

2011-11-22 23:55:33 | 古道
古代東海道は、「横走」駅を過ぎて、駿河国と相摸(相模)国の国境である「足柄峠」を越えた。「足柄峠」は「足柄坂」とも呼ばれ、「足柄坂」の東の東海道(この場合は、行政区画(国)の意味)を「坂東(ばんどう)」といった。また、古事記によれば、日本武尊が東征からの帰路、足柄峠から東を向いて、東征の途中で失った妻・弟橘姫(オトタチバナヒメ)を偲んで、「吾妻(あづま)はや」(ああ、我が妻よ…)と慨嘆したというところから、足柄峠より東を「あづま」と称するようになったとされる。なお、日本書紀では、この逸話は碓氷峠でのこととしている。
「足柄路」は延暦21年(802年)の富士山の噴火で通行不能になり、一時的に「筥荷(箱根)路」が代替したが、僅か1年で旧に復した。駅家制度が廃絶した後も、紀行文などでみると、「更級日記」(1020年頃)と「海道記」(1223年頃)では「足柄路」を通っているが、「東関紀行」(1242年頃)と「十六夜日記」(1278年頃)では「箱根路」を越えている。江戸時代になると、距離を短縮できる「箱根路」が整備され、こちらがメインルートとなった。


写真1:JR御殿場線「足柄」駅にある「足柄山 金太郎」像。金太郎は坂田金時の幼名といい、「金時神社」(小山町)の社伝によれば、金太郎の生誕は天暦10年(956年)5月だとする。


写真2:足柄峠の登り口。自動車は右へ(県道78号線)、古道は直進。


写真3:峠近くの「足柄古道」


写真4:「足柄峠」の案内板。日本武尊の「吾妻はや」の伝承も記載されている。


写真5:「足柄峠広場」(足柄城の一の郭だったところ)。毎年9月の第2日曜日に、小山町(駿河国)と南足柄市(相模国)とで「領地争奪綱引き合戦」が行われ、勝者が1年間この広場を領地とする。このときは、広場は駿河国領だった。この広場から見る富士山は絶景だが、あいにく訪問日には雲がかかって見えなかった。
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