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神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

於岐都説神社(茨城県行方市)(常陸国式外社・その3の2)

2023-07-15 23:33:39 | 神社
於岐都説神社(おきつせじんじゃ)。
場所:茨城県行方市沖洲603。国道6号線「山王台」交差点から国道355号線を東~東南へ約9.1km。駐車場なし。
社伝によれば、天長7年(830年)、葛原親王が常陸太守に任じられたとき、大任遂行を祈念して創立という。葛原親王は、第50代・桓武天皇の第三皇子で、子女を臣籍降下させて平朝臣姓を名乗らせたことから、所謂「桓武平氏」の祖とされる人物である。卑姓のため皇位にはつけなかったが、親王として諸官を歴任し、一品を授与された。常陸太守も兼任したことは、正史である六国史の1つ「日本文徳天皇実録」仁寿3年(853年)の条に葛原親王薨去の記事があり、その官歴の中に、天長7年に常陸太守を兼ねたとの記載がみえる。ただし、これは名誉職で、常陸国には来たことはないと思われる。しかし、葛原親王の第三子・高望王は関東に下向し、子の平国香らとともに常陸国・下総国・上総国を開拓した。ここから、平将門も出たし、中世には千葉氏・相馬氏などに繋がっていく。なので、葛原親王を持ち出したのは、こうした高望王流桓武平氏の一族かもしれない。
さて、当神社については、「日本三代実録」仁和元年(885年)の条にある「常陸国正六位上於岐都説神に従五位下を授ける」という記事が当神社のことであるとする説がある。所謂「国史見在社」の「於岐都説神」の論社ということになる。この「於岐都説神」については、現・茨城県神栖市の「息栖神社」(2017年12月2日記事)に当てる説が一般的である。しかし、これには、「息栖神社」が「鹿島神宮」・「香取神宮」との結び付きが強く(あわせて「東国三社」と称された。)として社勢が強かったことも影響しているかもしれない。当神社は、霞ヶ浦畔にあって、常陸国でも比較的古く、大きな前方後円墳が多い「沖洲古墳群」の範囲内に鎮座している。当神社の北西約600mのところに大型古墳の「三昧塚古墳」(次項予定)があり、南東約150mには4世紀後半頃(茨城県内最古クラス)の築造といわれる「勅使塚古墳」がある(「勅使塚古墳」は私有地内にあるため、見学は遠慮した。)。また、当神社の現在の祭神は、天照皇大神・国常立尊・経津主命・武甕槌命・天児屋根命であるが、常陸国に縁が深い経津主命(「香取神宮」祭神)・武甕槌命(「鹿島神宮」祭神)・天児屋根命(「春日大社」祭神)を除くと、天照皇大神・国常立尊というのは、日本全体の祖神とはいえるものの、当神社の祭神とするには一般的すぎるというか、「於岐都説神」という名とそぐわないような気もする。これに比べると、「息栖神社」の祭神は久那斗神・天乃鳥船神・住吉三神で、如何にも水上交通の神という感じである。これらのことは、逆に、当神社の神は本来、名も知れない古い自然神(沖洲自体を崇めるような)を祀っていたのかもしれない。一方、当神社を上記「息栖神社」の分社とする説もある。それは、承安元年(1174)、常陸介・高階経仲が橘郷を「鹿島神宮」に寄進したので、「鹿島神宮」から大禰宜中臣則親が遣わされ、支配を任せた。則親は、現・天台宗「萬福寺」(2023年7月1日記事)付近に「羽生館」を築いて、羽生氏を名乗った。あるいは、このとき、羽生氏が当地に「息栖神社」を勧請したのかもしれない、というものである。


写真1:「於岐都説神社」正面。鳥居と社号標(「於岐都説神社」)


写真2:御手洗池?


写真3:拝殿


写真4:本殿
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橘郷造神社(常陸国式外社・その4の2)

2023-06-17 23:32:43 | 神社
橘郷造神社(たちばなのさとのみやつこじんじゃ)。通称:橘明神。
場所:茨城県行方市羽生1390。国道355号線から茨城県道360号線(大和田羽生線)に入り(角に羽生郵便局がある。)、北東へ約1.1kmで参道入口。駐車場なし。
「応仁・文明の乱」(1467~1477年)の兵火により古文書を失い、創建年代・由緒は不明。口碑によれば、日本武尊が東征の途中、相模国の沖で暴風に遭って船が危うくなったとき、后の弟橘姫が海中に身を投じたことで無事に上総国に上陸できた。その後、弟橘姫が髪に挿していた笄(こうがい)と船の帆が羽生の里に流れ着いた。それを無数の白鳥が塚のように守っていたため、そこを「鳥塚」と名付けた。その笄に羽が生えて高台に飛んで行き、落ち着いたところに「橘郷造神社」として祀った。当神社の地を「笄崎」といい、船の帆を埋めたところを「帆呂山」と称した。当地の「羽生」という地名は、羽の生えた笄に因む、とされる。「日本三代実録」の仁和2年(886年)の記事に「常陸国の正六位上郷造神に従五位下を授ける。」とある「郷造神」を当神社のこととする。ただし、この「郷造神」は、現・茨城県筑西市の「雲井宮郷造神社」(2018年8月18日記事)とする説もあり、所謂式外社(国史見在社)「郷造神」の論社ということになる。鎌倉幕府初代征夷大将軍・源頼朝が現・行方市八木蒔の「八幡神社」(通称「八木蒔八幡宮」)を奉斎するにあたり、橘(立花)郷のうち、(現・行方市)羽生・沖洲・八木蒔・倉数を「八木蒔八幡宮」の氏子地域、(同)捻木・若海・芹沢・青柳を当神社の氏子地域と定めたという。明治14年、村社に列した。現在の祭神は弟橘姫命と木花開夜姫命であるが、木花開夜姫命が祀られるようになったのは鎌倉時代以降であるという。
因みに、当地(現・行方市羽生)は、平安時代末、常陸国一宮「鹿島神宮」の神領となり、神宮から大禰宜・中臣氏が派遣されて「羽生館」に住んで支配し、羽生氏を名乗ったという(鎌倉時代の史書「吾妻鏡」の養和元年(1181年)の条に「以常陸国橘郷令奉寄鹿島社」とある。)。そして、鎌田啓司著「茨城の神社覚書Ⅱ」によれば、江戸時代後期の地誌「水府志料」羽生村の項に「鎮守を橘明神と号す」、「水戸藩神社録」に「橘明神今羽生村に在り、鎮守帳蓋武甕槌命を祀る」となっていて、江戸時代までは「郷造」の名はなかったことから、本来は「鹿島神社」で、明治時代以降に現社号になったのではないかとしている。


写真1:「橘郷造神社」参道入口。社号標。


写真2:宮路久子氏製作の弟橘姫の銅像があったが、盗難に遭ったらしい。


写真3:参道。参道自体の雰囲気は良いのだが、直ぐ横を国道355号線が通っており、ダンプなども多く走っていて、少しうるさい。参道は約250m。


写真4:鳥居


写真5:拝殿


写真6:本殿。行方市指定文化財。


写真7:境内社「城山稲荷神社」
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香取神社(茨城県行方市捻木)(常陸国式外社・その18の2)

2023-06-03 23:34:20 | 神社
香取神社(かとりじんじゃ)。通称:捻木香取神社。
場所:茨城県行方市捻木667イ。国道355号線沿い「羽生郵便局」前から南東へ約1.9kmで左折(北東へ)、約1kmで右折(東へ)、約450mで参道入口。駐車場なし。
社伝によれば、延暦24年(805年)の創建。明和2年(1765年)炎上、翌年再建。明治6年造営、同14年、村社に列した。現在の祭神は経津主命。
「常陸国風土記」行方郡の条に記載のある、高向大夫が築いた「枡池」の北の「香取御子之社」については、現・行方市若海の「香取神社」(前項)と当神社のどちらか、とされている。例えば、秋本吉徳全訳注「常陸国風土記」(講談社学術文庫)では「捻木・若海の両地に香取神を祀る社があるという(「大日本地名辞書」)。」、中村啓信監修訳注「風土記 上」(角川ソフィア文庫)では「捻木に香取神社がある。」、柴田弘武著「常陸国風土記を歩く」(崙書房出版)では「玉造町若海の香取神社に比定されている。」としていて、どちらか一方の神社を推す説も、その根拠は特に示していないものが多い。「常陸国風土記」の「鴨野」が現・行方市玉造甲の加茂地区に比定されることについては異論が見られないので、その北にある「香取神社」として、両神社が挙げられているに過ぎないのかもしれない。前項で書いたように、若海「香取神社」は「枡池」の遺称地とされる場所(「市杵島神社」(2023年5月20日記事)参照)の北にはない。しかし、当神社も同様に、方向としては「枡池」の遺称地とされる場所から西、約2.8kmのところにあり、距離的にも「枡池」と結びつけるのは難しいようだ。ということは、①両神社とも「香取御子之社」(の後身)ではないか、②「枡池」の比定地が誤っているか、③「常陸国風土記」の「枡池」からの方向が間違っているのか、④「常陸国風土記」の読み方として「枡池」の北ではなくて、(「枡池」は無視して)「鴨野」の北とするのが正しいのか(原文には「その」という語が無く、単に「北有香取御子之社」としか書かれていない。)等、考えられるが、どれが正解だろうか。


写真1:「香取神社」参道入口、社号標。間口はやや狭いが、奥行きがある。約100mの真っ直ぐな参道。


写真2:鳥居


写真3:拝殿


写真4:本殿
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香取神社(茨城県行方市若海)(常陸国式外社・その18の1)

2023-05-27 23:33:00 | 神社
香取神社(かとりじんじゃ)。通称:若海香取神社。
場所:茨城県行方市若海455。茨城県道116号線沿いの「玉造第一保育園」前から、県道を北へ約500mで右折(北東へ)、道なりに約650m。駐車スペースあり。
社伝によれば、天長2年(825年)、下総国一宮「香取神宮」の分霊を鎮祭したのが創祀という。現在の祭神は経津主命。旧社格は村社(明治14年)。
「常陸国風土記」行方郡の条に、「鴨野の北に・・・高向大夫(たかむくのまえつきみ)の時代に築いた枡池(ますいけ)がある。北に香取御子之社がある。」(現代語訳)という記述があり、「香取御子之社」というのを「香取神宮」の分祠と解釈して、当神社をこれに比定する説がある。ただし、現・行方市捻木の「香取神社」(次項予定)に比定する説もあり、なかなか決め難いようである。因みに、現・行方市若海、捻木はともに、旧・行方郡現原村(明治22年~昭和30年)に属したが、捻木の方は、古代には茨城郡に属していた(「常陸国風土記」にも、梶無川が茨城郡と行方郡の境である旨が記されている。)ので、あくまでも行方郡についての記述だとすると、当神社が有力ということになるのだろう。なお、当神社は「若海貝塚」の上に鎮座しており、その貝塚からは縄文時代中期頃の保存状態良好な成人男性の人骨が発見されている。この人骨は、うつ伏せで、両膝を折り曲げた状態となっており、伏臥半屈葬という形で埋葬されたものらしい。こうした事例が少ないため、それがどのような意味があったかは不明だが、少なくとも、縄文時代から当地に相当大きな集落があったことは確実と思われる。
ただし、当神社は、「枡池」の遺称地とされる場所(「市杵島神社」(前項)参照)の南西、約1.5km(直線距離)の位置にあり、その意味では「枡池」の北とは言い難いようだ。


写真1:「香取神社」境内入口、社号標。


写真2:鳥居


写真3:拝殿


写真4:本殿


写真5:石碑。「常陸国風土記」が引用されており、当神社の創祀は(風土記編纂の官命があった)和銅年間より前であるとしている。
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市杵島神社(茨城県行方市)

2023-05-20 23:35:46 | 神社
市杵島神社(いちきしまじんじゃ)。通称:弁天様。
場所:茨城県行方市芹沢1613。茨城県道50号線(水戸神栖線)「榎本」交差点から北西へ約220mで左折(南西へ)、約400m。狭い駐車スペースあり。「玉造工業高等学校」の西側。なお、参道途中にある「子安神社」(祭神:木華開耶媛命)は当神社の摂社。
社伝等によれば、第59代・宇多天皇の9代の後裔である佐々木太郎定綱の末子・頼定は近江国甲賀郡山中村(現・滋賀県甲賀市)に住して山中氏を称したが、その子・四郎泰定は平氏との争乱に敗れ、永暦元年(1160年)に次男・清定と共に武蔵国蕨(現・埼玉県蕨市)に逃れた。その後、佐竹氏に従い、養和元年(1181年)、常陸国行方郡に所領を与えられ、前住地の地名を採って蕨村(現・行方市芹沢字蕨)とし、館を構えた(「山中館」。現・玉造ゴルフ俱楽部若海コースの北端辺り)。領内の「一の沢」地区の「枡池」に佐々木氏の守護神「竹生弁才天」(現・滋賀県長浜市、「都久夫須麻神社(竹生島神社)」及び「巌金山 宝厳寺」)を勧請して社祠を建て、崇敬した。なお、元は「枡池」の池の中にあったが、安政2年(1855年)の大地震によって山津波(土砂崩れ)が発生し、「枡池」自体が埋まってしまったため、やむなく現在地に遷宮したという。大正2年、芹沢「大宮神社」(前項)に合併されたが、その後も氏子は祭典を行い、昭和39年、旧に復した。現在の祭神は市杵島姫命であるが、本尊(御神体?)は鎌倉時代初期の木彫の宇賀神弁財天像であるという。なお、弁才天(弁天)は、元はヒンズー教の河川の女神であるが、仏教に取り入れられて音楽・芸術・福徳の神として信仰されるようになり、わが国では神仏混淆して七福神の1神となり、元の水神としての性格から宗像三女神(市杵島姫命はその1柱)とも同一視されて、海・川・泉などの水辺に多く祀られた。明治期の神仏分離により神社になったところの多くは宗像三女神または市杵島姫命を祭神とするようになったとされている。
なお、伝説によれば、永正元年(1504年)、蕨(山中)城主・山中左衛門清定の孫・定俊に娘が生まれた。しかし、娘の背中に3つの鱗があり、成長すると鱗は全身に広がり、「蛇女良(へびじょろう)」との綽名がつけられた。娘は年頃になってこれを恥じ、一の沢の「枡池」に投身した。以来、「枡池」には大蛇が棲むといわれ、妖気が漂った。投身した娘の甥に当たる山中永定が不憫に思い、叔母の霊を配祀した。11月15日の祭日には「放禮(なげまつり)」といって、神官が馬上から松火を池に投げ込む神事が行われ、永正年間から安政年間まで3百数十年続いたという。現代では先天性魚鱗癬という難病が知られており、これは皮膚が厚い角質に覆われて魚の鱗のように見える病気で、発汗作用が阻害されるので高体温になりやすく、皮膚のバリア機能が低下して感染症にも罹りやすい。遺伝性の病気で、根治療法は無いという。今、合理的に解釈すれば、「蛇女良」が魚鱗癬という病気であった可能性が高いと言えるが、これを知らない昔の人々からすれば、蛇の祟りなどと考えてもおかしくはない。ただし、この伝説においては、そのような因果応報的な話は伝わっていないところが、逆に不思議ではある。
さて、当地の芹沢や蕨といった地名は中世以降のものということになるが、「常陸国風土記」行方郡の条に「(鴨野の)野の北に櫟(イチイ)・柴(クヌギ)・鶏頭樹(カエデ)などの樹木があちこちに生い繁っており、自然と山林を成している。ここに枡池がある。これは高向大夫(たかむくのまえつぎみ)の時に築かれた池である。北には香取神子之社がある。」(現代語訳)という記述があり、「常陸国風土記」の解説書の多くは、この「枡池」が上記の「一の沢の枡池」と同じものとしているようである。「枡池」というからには、四角くて深い池が想像されるが、当神社の南西側は崖で、下に降りてみると、細長い谷が現在は水田になっている。確かに、これの両端を閉じれば四角い池になるような気はする。「枡池」の北の「香取神子之社」については、次項で。


写真1:「市杵島神社」鳥居


写真2:社殿


写真3:石碑。冒頭に、「一の沢地は、常陸国風土記に見える高向大夫が築いた枡池である。」ということが記されている。


写真4:境内の南側が崖になっている。


写真5:下に降りると、細長い水田になっている。
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