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神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

鹿島神社(茨城県鉾田市造谷)

2023-09-02 23:36:35 | 神社
鹿島神社(かしまじんじゃ)。
場所:茨城県鉾田市造谷491。茨城県道114号線(下太田鉾田線)・同115号線(子生茨城線)「旭村農協前」交差点から南に約300mで左折(東へ)、約450m。駐車場なし。
社伝によれば、上古、日本武尊が東征の際、角折浜から上陸して当地に至り、鹿島大神を拝して戦勝を祈願した。そのとき、谷を開墾して田を造る老人があり、日本武尊はその老人の労を慰めた。これが「造谷」という地名の起こりとする。後に村人が日本武尊の壮武を思い、和銅3年(710年)、常陸国一宮「鹿島神宮」の分社を建立したという。文政3年(1820年)に別当寺「龍蔵院」が炎上して旧記を失う。旧・造谷村の鎮守として氏子らの信仰が篤く、明治17年に村社に列格。平成2年、拝殿・玉垣等改築。現在の祭神は武甕槌命だが、古来「三社の宮」と称されたように、現在は本殿が3棟並んで建てられ、中央に武甕槌命、右に「熊野神社」として素戔嗚尊、左に「鳴神神社」として別雷神を祀る。
さて、当神社の社伝も、日本武尊の進軍に絡めた地名由来譚となっている。ただし、祭神が日本武尊ではなく、武甕槌命を祀るというのは、当地にまで「鹿島神宮」の支配が及んでいたことを示すものだろう。なお、「旭村の歴史 通史編」では、祭神について次のように記述されている。即ち、「造谷村明細帳」によると、当村鎮守は国神大明神、熊野権現、雷大明神の3社であるが、旧造谷村村社である鹿島神社の記載がない。「茨城県神社誌」によると鹿島神社の境内社として熊野神社、鳴滝神社があり、この2社は造谷村鎮守の2社とみられ、「村明細帳」にある国神大明神は明治4年の近代社格制の発足のころ、鹿島神社と名称変更が行われたとみられる。黒子(関城町)の千妙寺文書によると、上太田村の鎮守は国神明神と称し、造谷村鎮守と同名であり、明治維新ごろは国都神神社と称した(一部省略等)...。これをどう考えたらよいのだろうか。言うまでもなく、武甕槌命は天津神の主力メンバーであり、国神(国津神)と呼ばれることはない。日本武尊も天津神の子孫であり、国神とは言えないだろう。そうすると、「旭村の歴史」の通り、祭神が変わってしまったか、あるいは「造谷村明細帳」のほうが間違っているか(旧・上太田村の「国都神神社」(前項)と混同した?)、ちょっと不思議なことである。


写真1:「鹿島神社」鳥居


写真2:社号標(村社 鹿島神社)


写真3:境内の石碑


写真4:拝殿


写真5:本殿。3棟が並んでいる。


写真6:同上、背後から。
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國都神神社(常陸国式外社・その13の2)

2023-08-26 23:33:51 | 神社
國都神神社(くにつかみじんじゃ)。
場所:茨城県鉾田市上太田681。茨城県道114号線(下太田鉾田線)と同115号線(子生茨城線)の「旭村農協前」交差点から114号線を北へ約1.6kmで右折(東へ)、約400m。駐車場なし(北側の「上太田公民館」に若干の駐車スペースがある。)。
社伝によれば、和銅3年(710年)、当地に疫病が流行したとき、時の村長・大碓時度(オオウストキノリ。日本武尊の兄である大碓命24世孫)が「明鳥舞山(みょうとふざん)」に籠って天神に祈願したところ、夜半に光り輝く神が東の海から飛来して次のように霊示した。「我は昔、国造だった槁根津日子(サオネツヒコ)という神である。天神の勅を奉じて、邪気を払い、この地を安堵させる。心配するな。」。時度が霊夢に感じて更に祈ると、7日目に高さ1尺ほどの霊石が現れた。直ぐに祠を建て、霊石を安置して祀ったところ、忽ち病難は収まったという。「日本三代実録」貞観16年(874年)の条に「・・・常陸国の立野神・飛護念神・國都神・・・に従五位下を授ける。」という記事があるが、その「國都神」が当神社のこととする。明暦3年(1657年)、別当寺が炎上して古記録を喪失。近世には国神明神と称し、明治維新頃に「國都神神社」に改称した。明治12年、村社に列格。祭神は槁根津日子命。
ということで、常陸国式外社(国史見在社)「國都神」の論社ということなのだが、まず、祭神が珍しい。槁根津日子は「古事記」での名で、「日本書紀」によれば、神武天皇の東征のときに「速吸門」(豊予海峡?。諸説あり)で出会った国津神で、水先案内を務めた。その功により、珍彦(ウヅヒコ)という名を椎根津彦(シイネヒコ)に改め、倭(大和)国造に任じられて、大倭直の始祖となったという。なお、記紀では、初めて出会った時に神武天皇から「汝は何者か?」と聞かれて、自ら「私は国神です。」と答えている。
常陸国式外社「國都神」については、現・茨城県行方市の「国神神社」(2022年11月12日記事)に比定することが多いが、それに確実な根拠がある訳ではない。ただし、当神社が式外社「國都神」であるというのは、南に約300mの距離にある「楠木神社」初代宮司で、当神社の社掌でもあった和田勘恵が言い出したことらしい。「楠木神社」(住所:鉾田市上太田527)は、明治12年、南朝方の武将で第96代・後醍醐天皇の忠臣である楠木正成公を祭神として、その後裔を称する和田勘恵が創建したとされる(なお、境内は大碓時度の屋敷跡であるという。)。申し訳ないが、上記の社伝で、当地の村長が日本武尊の兄の子孫だったり、記紀において自ら「国神」と名乗っている神が祭神だったりというのは、あまりに出来過ぎというような気がする(どちらも、当地と関係が深そうではないと思うのだが。)。さて、どうだろうか。


写真1:「國津神神社」境内入口。鳥居と社号標。説明板は鉾田市天然記念物「国都神神社の椎」についてのもの。


写真2:拝殿。倒木による破損のため屋根などを補修しているが、傷みが目立つ。


写真3:本殿(覆い屋)


写真4:神木の椎(シイ)。説明板(鉾田市教育委員会、昭和60年)によれば、創建者の大碓時度が植えたという伝承があるもので、幹回り(目通り)6.52m、樹高14m。


写真5:由緒石碑
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鹿島神社(茨城県鉾田市鳥栖)

2023-08-12 23:37:38 | 神社
鹿島神社(かしまじんじゃ)。
場所:茨城県鉾田市鳥栖1369。旧・茨城県道18号線(鉾田鹿島線)「下富田」交差点から南東へ約1.1km(関鉄グリーンバス「鳥栖」バス停、火の見櫓があるところ)の角。交差点を右折(西へ)して約100mのところに鳥居がある。駐車場なし。
社伝によれば、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人に深く帰依し、その第三番弟子となった順信(常陸国一宮「鹿島神宮」大宮司家の出身)が、建保2年(1214年)に現・鉾田市鳥栖の「無量寿寺」住職となったとき、「常陸国風土記」行方郡の条に見える当地の「佐伯(土着の原住民)の鳥日子(トリヒコ)」の館跡に鹿島大神を奉斎したという。旧社格は村社(明治15年)。現在の祭神は、武甕槌命・経津主命・日本武尊・岐神。
さて、当神社の社殿を見ると、拝殿の背後に、横に長い屋根の下に3つの本殿が並んでいる形となっている。これは、中央が「鹿島社」(祭神:武甕槌命)、右が「香取社」(祭神:経津主命)、左が「息栖社」(祭神:岐神)であるという。「常陸国風土記」行方郡の条には当麻之郷に「2つの神子の社」がある、との記述があり、これが「鹿島神宮」と「香取神宮」の分祠であるということに異論はないものの、それぞれの神社があったのか、2神を祀る1つの神社があったのかは不明とされている。現・鉾田市当間に「鹿島神社」(前々項)、同・野友に「香取神社」(前項)があり、それぞれ有力候補となっているが、当神社が2神を祀る1つの神社として有力候補とされることがある。上記の通り、当地の鳥栖(とりのす)という地名は「常陸国風土記」の「鳥日子」の居住地ということに因んだものとされ、当神社の鎮座地の字名は西鳥日子となっている。いかにもそれらしいが、いくつか問題点がある。①当間「鹿島神社」の項でも書いたが、かつては巴川が行方郡と鹿島郡の郡境になっていて、当地が巴川の左岸(東岸)にあって鹿島郡に属したのではないか、という問題。ただし、古代の郡境の問題は難しく、これは何とも言えない。②日本武尊が当麻之郷を征圧したことの証としてヤマト政権側の神社を建立したというのは有り得ることだが、「常陸国風土記」にはそのような記述はない。③「常陸国風土記」の原本は残っていないが、写本はいくつかあり、そのいずれも「鳥日子」ではなく、「烏日子(からすひこ、又は、うひこ)」となっている。これを誤字とする根拠は乏しいようであり、「烏日子」の方が正しいとすると、地名の起源譚としてどうかということにつながる。④(4柱の祭神に対して3つの本殿というところは、さて措くとして)3つの本殿は所謂「東国三社」とされるもので、「お伊勢参りの禊ぎの三社参り」として、江戸時代には関東以北の人々が「伊勢神宮」参拝後にこの3社を巡拝することが流行したという。また、「茨城縣神社誌」によれば、大正8年に村内の香取・息栖・白旗の各神社を合併しているので、3つの本殿はこの時以来のものかとも思われる。
なお、浄土真宗の僧・順信については次項で触れることにしたい。


写真1:「鹿島神社」鳥居と社号標(「村社 鹿嶋神社」)


写真2:木々のトンネルを抜けると、境内。


写真3:拝殿


写真4:本殿。横に長い建物


写真5:同上。3つの本殿が屋根を共有している。


写真6:境内社「大杉神社」鳥居


写真7:同上、社殿。旧県道に面しており、社殿も大きいので、こちらの方が目立つ。
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香取神社(茨城県鉾田市野友)(常陸国式外社・その19の2)

2023-08-05 23:35:22 | 神社
香取神社(かとりじんじゃ)。通称:野友香取神社。
場所:茨城県鉾田市野友899-1。茨城県道2号線(水戸鉾田佐原線)と同184号線(島並鉾田線)の「串挽」交差点から北西へ約1km(ガソリンスタンド「ENEOS鉾田南SS」の先)の丁字路交差点を左折(西へ)、約500mで左折(以下、狭い道路なので注意)、南へ約270mで突き当たり、鳥居横に着く。駐車場なし。
社伝によれば、建長3年(1251年)の奉斎という。野友村の鎮守であり、明治14年、村社に列格。祭神:経津主命。
社伝とは別に、「常陸国風土記」行方郡の条に記載された「当麻郷の2つの神子之社(常陸国一宮「鹿島神宮」と下総国一宮「香取神宮」の分祠)」を当神社のこととする説がある。「当麻郷(たぎまのさと)」は、現・鉾田市当間が遺称地というのが通説だが、巴川が古代の行方郡と香島郡の郡境であったとすると、現・鉾田市当間は香島郡の域内になってしまう(「鹿島神社」(前項)参照)。そこで、古代の当麻郷は現・鉾田市当間より広く、巴川右岸(南岸)の現・鉾田市野友(旧・野友村は近世には行方郡に属した。)も含まれていたとして、野友の鎮守である当神社に比定するものである。境内の植樹記念碑(昭和53年)の碑文に「野友香取神社は創立極めて遠く 古く常陸風土記にも記述されていて・・・」とあるのは、この趣旨だろうと思われる。なお、この碑文だけでは、「鹿島神社」のことは不明。野友には「鹿島神社」の小祠もあるらしいが、そちらは詳細不明で、探したが見つけられなかった。
因みに、当神社の北側・西側から古代の製鉄用窯跡が多数発見され、鉄滓や鞴(ふいご)の羽口などが出土し、製鉄を行っていた人々の集落があったらしい。当神社の境内社に「金毘羅神社」があるが、その祭神は金山彦命で、鉱山・金属・鍛治などの神である(「金毘羅神社」の総本社である現・香川県琴平町の「金刀比羅宮」の祭神は大物主神だが、茨城県内では「金毘羅神社」で祭神を金山彦命とする例は少なくないようである。)。また、上記の植樹記念碑によれば、かつては巨松の森があったらしいので、これも製鉄の名残りかもしれない(砂鉄を熔かすための燃料として松の木を大量に使う。)。「常陸国風土記」によれば、当麻郷には鳥日子という佐伯(土着の先住民)がいて、日本武尊に逆らったために、あっさり殺されてしまったというが(「鹿島神社」(前項)参照)、これはヤマト政権側が製鉄集団を手に入れる目的だったのではないかとする説がある。もちろん、佐伯自らが「香取神社」を勧請するはずはないから、ヤマト政権側が佐伯の征圧のために置いたということになるのだろう。


写真1:「香取神社」鳥居


写真2:境内。入口は狭いが、奥に広がっている。


写真3:拝殿


写真4:本殿。なお、元宮は現在位置から約30m北東にあったという。


写真5:「植樹記念」碑
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鹿島神社(茨城県鉾田市当間)(常陸国式外社・その19の1)

2023-07-29 23:35:49 | 神社
鹿島神社(かしまじんじゃ)。
場所:茨城県鉾田市当間2182。茨城県道8号線(小川鉾田線)「当間」交差点から東に約190mで左折(北へ)、約290m進んだところ(カーヴミラーがあるところ)で左折(西へ)。ただし、この先、道路が狭い上に、神社前まで行くと行き止まりになるので、自動車では無理に入って行かない方が良い。駐車場なし。
社伝等によれば、「常陸国風土記」に記載された行方郡当麻郷の「二神子之社」は当神社のことであるとする。往古、日本武尊が東征の折に、この丘に仮宮を置いたので、後に里人が日本武尊を仰慕して創建したという。中古炎上、寛永3年(1626年)再建、明治15年に村社に列格。現在の祭神は、武甕槌命。
「常陸国風土記」行方郡の条に、「(行方)郡家から東北に15里のところに当麻の郷がある。古老が言うのに、倭武天皇(ヤマトタケル)が当郷を巡幸されたとき、佐伯(土着の先住民)で鳥日子という者がいて、命令に従わなかったので、直ちに殺した。その後、屋形野の仮宮にお出でになったが、車駕の通る道が狭く、凹凸が酷かった。そこで、悪路という意味で、当麻という地名になった。(中略)...(ここに)「二つの神子の社」がある。...」(現代語訳)という記述がある。この辺りの記述は、いろいろ問題があるところで、まず第一に、「凹凸が酷かった」というのは「たぎたぎしい」という言葉で、「当麻」はタギマと読む。現・奈良県葛城市當麻(推古天皇20年(612年)創建と伝わる「當麻寺(二上山 万法蔵院 禅林寺)」がある。)も、「でこぼこのあるさま」を意味する古語の「たぎたぎしい」から、元は「當岐麻」と書いたのが「當麻」となり、「タギマ」が「タイマ」に転訛した地名であるという(通説)。この「當麻(当麻)」の遺称地が現・鉾田市当間(とうま)である、ということには殆ど異論がない。しかし、当間は巴川(この川の名も当麻川から転じたものという。)の左岸(北岸)にあり、近世には鹿島郡に属していた。このことについて、①古代には巴川が郡境ではなく、現・当間も行方郡に属した、あるいは、古代の当麻は現・当間だけでなく、巴川右岸を含む広い地域だった、②古代の当麻郷は近世の旧・行方郡秋津村(現・鉾田市高田・串挽・野友・半原・借宿・青柳)に比定され、後に地名が巴川左岸に移った、という説がある。資料に乏しいので、この問題はなかなか決着が着かない感じではある。第二に、「屋形野」という地名には遺称地がない。仮宮(原文は「帳宮(とばりのみや)」)を置いたところから、逆に「屋形野」と名付けたのではないかという説もある。また、当間の西(巴川の対岸)に現・鉾田市借宿があり、この地名を仮宮に関連付ける説がある。第三に、「二つの神子の社」というのが、常陸国一宮「鹿島神宮」と下総国一宮「香取神宮」の分祠、ということには異論がないが、鹿島・香取の2つの神社があったのか、鹿島・香取の2神を祀る1つの神社があったのかは不明。
ということで、いろいろ問題はあるが、この「二つの神子の社」の候補の1つが当間の鎮守社である当神社である、ということになる。なお、「茨城縣神社誌」(昭和48年)の当神社の項では、当地は、元は行方郡であったが、後に鹿島郡に編入されたとしている。


写真1:「鹿島神社」鳥居と社号標(「鎮守 鹿嶋神社」)


写真2:社殿


写真3:本殿
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