近津神社 下野宮(ちかつじんじゃ しものみや)。通称:下野宮近津神社。
場所:茨城県久慈郡大子町下野宮1626。国道118号線と茨城県道28号線(大子那須線)の「下野宮」交差点から県道を南へ約140mで左折(北東へ)、茨城県道326号線(下野宮停車場線)を道なりに約240m。駐車スペースあり。旧「下野宮小学校」の北側で、JR水郡線「下野宮」駅から徒歩約5分。
社伝によれば、日本武尊の東征の折に祭神(級長津彦命、面足命、惶根命)が出現し、八溝の強夷を掃討するのに多大の加護を受けたことから、一祠を建立し鎮祭した。慶雲4年(707年)、改めて社殿を造営し、勅により霊鏡・霊剣・金鈴を賜った。延暦20年(801年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂が八溝山の夷・岩竹丸を討伐するに当たり、参籠し戦勝を祈願した。康平年間(1058~1064年)、源義家が(「前九年の役」の)戦勝を祈願し、保三千貫を寄進した。なお、このときに鉾を御神木の杉に立て掛けたので「鉾杉(ほこすぎ)」と称し、また境内に「都々母杉(つつもすぎ)」を植えたともいう。その後も、佐竹氏・岩城氏の庇護を受けて度々社殿を造営した。明治9年、郷社に列格。
当神社を「延喜式神明帳」に登載された所謂「式内社」とする説がある。1つは、当地が「稲村」という地名だったところから、常陸国久慈郡の「稻村神社」に当てるものだが、古代には当地は陸奥国白河郡に属したとみられるため、この説は否定されている。もう1つは、陸奥国白河郡の「都都古和氣神社」とする説で、現在、福島県棚倉町に2つの「都々古別神社」があって、どちらも「陸奥国一宮」であるとしている。ただし、いずれも近世には「近津神社」と称しており、同町馬場の「(馬場)都々古別神社」を上宮、同町八槻の「(八槻)都々古別神社」を中宮、そして当神社を下宮として、「近津三社明神」と呼ばれていたとのことから、この3社とも式内社とすることがある。あるいは、陸奥国白河郡の式内社として、「都都古和氣神社」のほか、「伊波止和氣神社」と「石都々古和氣神社」があって、現在ではそれぞれ、その名を名乗る神社があるが、上記2つの「都々古別神社」と当神社をそれぞれ「都都古和氣神社」・「伊波止和氣神社」・「石都々古和氣神社」に当てる説もある。当神社自身は、旧社名を「石都々古和気神社」とし、延喜式内社であるとしているようである。
ところで、当神社は久慈川と八溝川の合流点の付近に鎮座しており、茨城県内最高峰「八溝山」(標高1022m)山頂に鎮座する「八溝嶺神社」を山の神として、当神社はその里宮(田の神)の性格を有するとされる。祭神のうち級長津彦命(シナツヒコ)は風の神であり(面足命(オモダル)・惶根命(カシコネ)は修験道で重視された神で、「八溝山」の修験の影響とみられる。)、現在も、毎年夏至の日に行われる田植祭である「中田植(ちゅうだうえ)」や「御枡廻し」という神事(詳細は、下記の大子町文化遺産HP参照)の伝統があることによっても、当神社が農業の守護神であることがわかる。
久慈地方神社総代会のHPから(近津神社)
大子町文化遺産のHPから(鉾スギ)
同上(都々母スギ)
同上(近津神社の中田植)
写真1:「近津神社(下野宮)」鳥居、社号標
写真2:随身門。額に「旧社名 延喜式内石都々古和気神社 近津三社明神」とある。
写真3:神池
写真4:手水舎
写真5:金精様
写真6:正面に社殿、その右手前と左脇にスギの巨樹がある。右手前が「都々母杉」、左脇を「鉾杉」という。
写真7:拝殿
写真8:「鉾杉」。樹高約50m・根周囲約12.5m、最初の社殿造営の際(慶雲4年)に植えられたとの伝承があり、樹齢約1300年という。昭和6年、茨城県指定天然記念物の第一号。昭和59年に落雷があり、上から約15mまで幹が裂け、火が付いたが、消防団が消し止めたという。
写真9:本殿
関戸神社(せきどじんじゃ)。通称:関戸米大明神(せきとめだいみょうじん)。
場所:茨城県久慈郡大子町頃藤6506。国道118号線「滝倉入口」交差点から北へ約350m(「山間地帯特産指導所」という案内板があるところ)で左折(西へ)、約450m進んで突き当りを左折(南へ)、約40mで狭い道路に直進、約80mで鳥居前。鳥居前は狭いので、国道から約400m進んだ南側に広場があり、ここに駐車できる模様(社殿横に出る小径がある。)。
社伝によれば、大同元年(806年)の創建。当地は、陸奥国白川(白河)郡と常陸国久慈郡との国境とされ、境の明神として信奉されたという。永承6年(1051年)、八幡太郎こと源義家が北征のとき当神社に立ち寄り、宝刀一振を奉献して戦勝祈願した。その後、義家の弟・新羅三郎こと源義光が常陸介となったときに社殿を修営し、「比藤(頃藤)城」を築いた山田左近大夫通定に春秋の祭祀を行わせた。その後の戦乱で荒廃し、一時、「宮平」(現・大子町頃藤の曹洞宗「長福寺」付近)に移されていたが、佐竹氏が常陸国守護として当地を支配すると、「頃藤城」を再建した佐竹氏庶流の小川大和守義継(佐竹氏第6代・義胤の四男)が元の鎮座地(「頃藤城」三の丸)に戻し、小川氏が代々祭儀を司ったという。なお、現・大子町は、古代には陸奥国白河郡依上郷に属していたが、永正年間(1504~1521年)に佐竹氏の所領となって、以来常陸国に属するようになった。当地に関所があったという史料はないようだが、古来より「関戸米大明神」と称され、疫病や不幸災難が村に入ることを防ぐ(せき止める)神として厚く信仰された。「水戸藩神社録」に「関戸明神社、神宝青玉白玉一顆あり」と記されているが、祭神の記録はない。現在の祭神は天津彦根命であるが、記紀において茨城国造の祖とされているところから、近世に祭神としたものであろうという。
因みに、「今昔物語集」(巻第27第45)に次のような話が記載されている。「近衛舎人(宮中の護衛、近侍などを行う下級官吏)で歌謡に巧みな者がいた。相撲取りを召すために東国に下ったときに、陸奥国から常陸国へ越える「焼山関(たきやまのせき)」という深い山を通った。馬上で居眠りをしていたが、ふと目を覚ますと「ここは常陸国だな、ずいぶん遠くまで来たものだ」と思うと心細くなり、「常陸歌」(常陸国の通俗歌)を2~3回繰り返して歌った。すると、山の中から「何とも愉快なことよ」という恐ろしい声と拍手が聞こえた。とても怖い思いをしながら通り過ぎたが、その後病みつき、そのまま宿で死んでしまった。だから、深い山の中で、その土地の歌など歌うものではない。山の神が感心して、引き留めることがあるからだ。・・・」(現代語訳、適宜一部省略)。この「焼山関」というのが、現在の当神社の辺りであるとされている(ただし、大子町に北田気・南田気という地名(大字)があり、こちらを「焼山関」のあった場所とする説もある。)。
茨城県神社庁のHPから(関戸神社)
大子町文化遺産のHPから(関戸神社(焼山関))
写真1:「関戸神社」鳥居
写真2:社号標
写真3:拝殿
写真4:本殿。江戸時代中期の建造で、狩野派の画風による華麗な彫刻があるとのことで、透明なアクリル板張りの覆屋の中にあるが、外からではよく見えないのが残念。
写真5:境内社「稲荷神社」
写真6:同「白山神社」ほか。
高萩八幡宮(たかはぎはちまんぐう)。正式には単に八幡宮。通称:安良川八幡宮。
場所:茨城県高萩市安良川1180。国道461号線「安良川西」交差点から西へ約230mで斜め右の道路に入り(「総鎮守八幡宮 入口」の大きな看板あり。)、北へ約230mで一の鳥居前。国道から先の道路は狭いので注意。駐車場は鳥居横のほか、北へ約160m進んだところにもある。なお、国道に面して石段の参道がある。
社伝によれば、寛和元年(985年)、第65代・花山天皇の勅宣により藤原左京太夫と京都「鞍馬寺」の僧・修多羅大徳権興が「男山八幡宮(現・「石清水八幡宮」)」(現・京都府八幡市)の分霊を勧請して常陸国多賀郡松原郷に創建した(「浜の宮」)。永承6年(1051年)、源頼義・義家が「前九年の役」のため奥州に下る際、当神社に戦勝を祈願し、「後三年の役」後の寛治年間(1087~1094年)、帰路において多賀郡守護・宇佐美左衛門時景に命じて社領200丁(町)を寄進し、多賀郡33郷の総社として現在地に遷座した。鎌倉時代以降も、佐竹氏を始めとして近隣領主の崇敬を受け、寄進・社殿造営などが行われた。慶長7年(1614年)、徳川家康から45石の朱印地を受ける。江戸時代に入り、水戸藩第2代藩主・徳川光圀は寺社改革の一環として所謂「八幡潰し」を行い、藩内105社あった「八幡宮」・「八幡神社」のうち、残ったのは当神社など4社のみだったという。光圀の「寺社改革」や「八幡潰し」の意図については諸説あるが、当神社の場合、由緒などに加え、一般庶民の崇敬が篤く、神社維持の経済基盤の厚さも評価されたと考えられている(なお、このとき、供僧や別当寺院は廃されたという。)。元禄10年(1697年)社殿造営されたが、江戸時代には町衆により崇敬維持され、多くの寄進があった。明治14年に郷社、昭和13年には茨城県内の日立以北で唯一の県社に列格した。現在の祭神は誉田別命(応神天皇)、日女大神、神功皇后。
蛇足:現・高萩市の安良川海浜に「松原千軒」という栄えた集落があったが、度々高浪に襲われて民家が流される被害があったため、高台に移住したという。
高萩八幡宮のHP
茨城県神社庁のHPから(八幡宮)
写真1:「高萩八幡宮」参道入口。社号標。
写真2:一の鳥居(大鳥居)
写真3:一の鳥居横の境内社「稲荷神社」
写真4:参道。結構な太さの杉が並んでいる。
写真5:境内社・市杵島神社。池は河童伝説があるとのことで、「河童池」という。
写真6:二の鳥居
写真7:拝殿
写真8:本殿
写真9:境内社・天満宮
写真10:本殿の左側にある御神木「爺杉」。高さ約42m、幹回り約10m、推定樹齢約1000年という。国指定天然記念物。
写真11:同上。手前の「白蛇」像は、「息を止めて爺杉の回りを三周すると白蛇が現れ、願い事を叶えてくれる」という伝承に因むもの。保護のため、現在は「爺杉」の近くに立ち入れないが、この「白蛇」に祈願するのだろう。
写真12:「婆杉石」。かつて「爺杉」と夫婦杉といわれた「婆杉」(樹齢約800年)があったが、昭和34年の伊勢湾台風で被害を受け、その後伐採された。その切株跡に石を置いたもので、この石を撫でて夫婦円満などを祈るという。
蠶養神社(こがいじんじゃ)。常用漢字により蚕養神社。通称:かいこ神社。
場所:茨城県日立市川尻町2-2377-1。国道6号「川尻町」交差点から東に約350m(南側)。駐車スペースあり。交通量が多く、出入りに注意。
社伝によれば、第7代・孝霊天皇5年(紀元前286年?)、蚕養(小貝)浜東沖の磯上で稚産霊命の神影が現れたため、上小山に祠を建てて祀った。稚産霊命の子神・宇気母知命の身体から蚕が生まれたということから、日本最初蚕養の祖神とした。日本武尊の東征の折、陸奥に向かう途中で船を豊浦の湊に繋ぎ、当神社に戦勝を祈願した。三日三晩の後、蝦夷の地に入ったが、戦わずに蝦夷を平定できたので、日本武尊が現社地に移し、神領80余郷を寄進したという。以上は伝説として、近世には、宇気母知命を祭神として「於岐都説神社」又は「津明神」と称し、稚産霊命を「蚕養嶺地主神」として相殿に祀っていたらしい。明治34年、現社号に改称、大正8年に稚産霊命・宇気母智命・事代主命の3柱を祭神とした。大正9年、村社に列格。
現・茨城県には養蚕の起源として「常陸国三蚕神社」と呼ばれるものがあり、「日本最初」と称する当神社、「日本一社」と称する「蚕影神社」(現・つくば市。2020年11月28日記事)、「日本養蚕始め」と称する「蠶靈神社」(現・神栖市。2022年8月27日記事)がそれである。細部は微妙に異なるが、いずれにも養蚕の技術を伝えたという「金色姫」の伝説がある。当地では、常陸国の豊浦湊(現在の小貝ヶ浜。近くの「豊浦中学校」に名を残す。) に繭の形をした丸木舟が流れ着いたのを権太夫という人物が見つけ、美しい姫(金色姫)を助けた。しかし、やがて姫は亡くなり、亡骸が繭になった。亡くなる前に養蚕の技術を伝えられていた権太夫により養蚕が広められたと伝えられている。養蚕が海を渡って伝えられたというところは共通するが、当地は外洋に面しており、金色姫が宝石のような赤い貝の首飾りを身に着けていたと伝えている。この赤い貝は小貝ヶ浜に打ち上がる「サンショウガイ」とされ、ネズミの害を避けられるとして、当神社に参拝した養蚕家が蚕棚に飾ったという。
写真1:「蠶養神社」一の鳥居。左奥に見えるのは神輿殿。
写真2:社名碑
写真3:「蚕養浜道」石碑
写真4:川尻海岸、種ヶ崎
写真5:二の鳥居、拝殿
写真6:拝殿
写真7:本殿
写真8:「茨城百景 川尻海岸」石碑
写真9:川尻海水浴場、常陸川尻漁港(南西方向)
写真10:「波切不動尊」
写真11:川尻海岸の断崖
鹿嶋神社(かしまじんじゃ)。通称:大久保鹿嶋神社。
場所:茨城県日立市大久保町2-2-11。国道6号線「大久保町二丁目」交差点から西へ約190mで鳥居前。駐車場は、参道と並行する狭い道路を北へ約140m。社殿・社務所も等高にある。
社伝によれば、大宝元年(701年)、常陸国一宮「鹿島神宮」から分霊を勧請し、住吉台鹿嶋森(現・日立市河原子町)に創建、「塩浜明神」と称した。延暦20年(801年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷征討の戦勝を祈願し、大同元年(806年)に大願成就の御礼として社殿を寄進した。治承4年(1180年)、源頼朝が平家討伐を祈願した。太田城主・佐竹氏からは、東北の守護神として特に崇敬が篤かった。天正12年(1584年)、佐竹義重が流鏑馬を奉納した。大正2年、郷社に列格。日立市内には「鹿島神宮」の分霊を祀る神社が多い(8社)が、当神社が元宮であるともいう。現在の祭神は武甕槌命。
なお、拝殿前、境内南端にイチョウの巨樹がある(茨城県指定天然記念物)。樹高約20m、目通り幹囲約5.6m、推定樹齢は約600年とされる。別名「駒つなぎの銀杏」といい、上記の坂上田村麻呂の戦勝祈願の折、このイチョウの木に駒(馬)を繋いだという伝説に由来するが、もちろん推定樹齢からすれば、そこまで古くはない(初代は枯死してしまい、現在のものは2代目であるともいう。)。しかし、高台にあって、周囲に枝を伸ばしており、推定樹齢以上に大きく見える。
また、当神社では流鏑馬神事が400年以上も続いている。旧社地である河原子海岸で身を清めた後、神社参道で源義家に扮した射手が馬丁に引かれた馬の上から的を射るのだが、かつては一の鳥居前の県道に馬場があり、約300mにわたり馬を馳せながら的を射たものだったという(日立市無形民俗文化財)。
写真1:「鹿嶋神社」一の鳥居と社号標
写真2:参道の急な石段
写真3:石段脇の石碑
写真4:二の鳥居
写真5:狛犬ではなく、神使の鹿(雌)。ゆるキャラ感があって、かわいい。
写真6:拝殿
写真7:本殿
写真8:境内社「交通神社」(祭神:道長乳母神、大穴貴神)。
写真9:歌碑、境内社など
写真10:「駒つなぎの銀杏(イチョウ)」
写真11:同上