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神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

神明社(千葉県柏市)

2025-04-05 23:32:12 | 神社
神明社(しんめいしゃ)。通称:塚崎神明社、塚崎明神。
場所:千葉県柏市塚崎1460。国道16号線と千葉県道8号線(船橋我孫子線)の「大島田」交差点から南西へ約1.6km。駐車場あり。
社伝によれば鎌倉時代末期の嘉元~徳治年間(1303~1307年)の創建とされるが、当地一帯は「伊勢神宮」の荘園である「相馬御厨」に含まれ、平安時代末期頃に「伊勢神宮」に度々寄進されていることから、その頃には既に「伊勢神宮」の分霊が勧請されていた可能性が指摘されている。下総国式内社「意富比神社」に比定する説もあったようだが、流石に支持する意見は殆どなかったようである(式内社「意富比神社」は、現・千葉県船橋市の「意富比神社」(通称:「船橋大神宮」)に比定するのが通説。2012年12月1日記事参照)。天正19年(1591年)、徳川家康から社領10石を受けた。享保18年(1733年)、現在の三社殿が再建され、宝暦7年(1757年)には老中で駿河国田中藩主・本多伯耆守正珍が石鳥居を奉納した(田中藩は現・静岡県藤枝市を本拠とする四万石の大名で、下総国42ヵ村に1万石の飛地領地を持っていた。因みに、巨人「ダイダラボッチ」の足跡が池になったという伝説が同藩領の谷津に多く、現・柏市周辺でも同藩による流布があったのではないかという説がある。)。風早・土・手賀・鎌ケ谷の4ヵ村17集落の総鎮守で、明治39年には村社に列格。社殿はいわゆる「三社神明」で、中央:大神宮(祭神:天照皇大神)、向かって左:春日社(祭神:武甕槌命)、同右:八幡社(祭神:應神天皇)。
なお、昭和10年に県の天然記念物に指定された大榊(サカキ)は、当時の県の鑑定で樹齢約1300年とされたというが、現在では主幹が枯死し、若木を育生中とのこと。


写真1:「神明社」社号標と表参道石段


写真2:弁財天社(祭神:宗像三女神)


写真3:表参道の灯篭群


写真4:鳥居。宝暦7年(1757年)に田中藩第7代藩主・本多伯耆守正珍の寄進によるもの。外宮鳥居に似ているが、柱に転び(角度)がついているなど、独自の形である。手洗鉢とともに柏市指定文化財。


写真5:拝殿。神額は「神明宮」となっている。


写真6:本殿


写真7:神楽殿。例年10月17日の大祭に奉納される「十二座神楽」は柏市指定無形民俗文化財。


写真8:樹齢約1300年といわれた大榊は枯死してしまったが、「千葉県指定天然記念物 神明神社の榊」碑はそのままで、若木育成中。


写真9:境内社が多いが、これは? (地元の建具屋さんが奉納したもので、家内安全・商売繁盛の御利益があるとか。)


写真10:裏参道(西側)入口の鳥居と社号標


写真11:裏参道入口にある境内社「一ノ宮社」。当神社の氏子らは表参道を歩くのは恐れ多いとし、裏参道から入り、まず最初に「一ノ宮社」で祈りを捧げた後、本社殿に進んだという。
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柴崎神社(千葉県我孫子市)

2025-03-15 23:32:09 | 神社

柴崎神社(しばさきじんじゃ)。
場所:千葉県我孫子市柴崎174。国道6号線「柴崎」交差点から南西に約550m。駐車場は、手前約55mの「曹洞宗 東漸寺→」という案内板のところから西へ入る(道路が狭いので注意。)。
社伝によれば、日本武尊が東征のとき当地で武運長久を祈って幣立てをしたといい、現・我孫子市天王台という地名(当神社の南東、徒歩7~8分のところにJR常磐線「天王台」駅がある。)は日本武尊に因むという。神社としての創建は天慶元年(938年)とされ、平将門の祈願所であったともいうが、天慶2年(939年)には将門が常陸・下野・上野の国府を攻撃・占領して新皇と名乗った(「天慶の乱」)ものの、翌年、将門は討たれ、反乱は鎮圧されている。そのために、以後は社勢が衰えたとされるが、境内で永仁6年(1298年)銘の板碑の断片が発見されており(我孫子市内で最も古い年号の板碑という。)、当地における祭祀は続いていたようである。その後、将門直系の子孫と自称する相馬氏一門の守護神とされて崇敬を受け、永禄4年(1561年)には相馬氏家臣の柴崎城主・荒木三河守が社殿を修復したという。近世には、「羽黒・妙見社」として柴崎村の鎮守となり、明治元年に「北星神社」、明治13年に「柴崎神社」と改称して、村社に列格した。現在は、我孫子市の総鎮守と称し、祭神は天御中主命、日本武尊、蒼稲魂命、素盞鳴尊ほか。
蛇足:創建当初の祭神は不明だが、近世には「妙見社」であり、現在の祭神が天御中主神であれば、明治時代より前は妙見菩薩だった可能性もある(「妙見本宮」を称する「千葉神社」(2012年5月5日記事)も同様。)。将門の子孫を自称する千葉氏・相馬氏が妙見菩薩を信仰していたことは確実だが、将門自身もそうだったかは不明。小説やブログなどで将門自身が妙見菩薩を信仰していたことを当然のように書いてある記述もあるが、それを裏付ける資料はない。軍記物語「将門記」には、将門が八幡大菩薩から新皇位を授けるとの神託を受けたという記事はあるが、妙見菩薩の名は出てこない。また、将門所縁の寺院で、将門の守り本尊だったという仏像の伝承があるケースでも、観世音菩薩、薬師如来、不動明王など様々である。妙見信仰自体は、わが国には7世紀頃に伝来したとされており、将門が信仰していた可能性もないとは言えないが、「将門記」以後の将門と妙見信仰を結びつける文書等はいずれも千葉氏・相馬氏の関係者が絡んでいるようである。このように考えると、将門自身には妙見信仰はなかったのでないかと思われる(あくまでも私見です。)。


柴崎神社のHP


写真1:「柴崎神社」鳥居と社号標


写真2:鳥居横の青面金剛、庚申塔


写真3:境内の道祖神、青面金剛像、庚申塔(猿田彦大神)


写真4:手水舎と神亀


写真5:狛犬と並ぶ神亀(玄武)石像。玄武は北方の守護神で、妙見菩薩の神使とされる。


写真6:拝殿


写真7:本殿


写真8:境内の黒髪塚。日露戦争のとき、出征する兵士の妻たちが夫の無事を祈って黒髪を捧げたという塚。


写真9:境内の神武天皇遥拝碑。左手には明治天皇遥拝碑もある。


写真10:北側に隣接する「羽黒山 円福寺」本堂。江戸時代初期頃の創建かといわれる。「柴崎神社」の旧別当寺で、現在は真言宗豊山派に属し、本尊は阿弥陀如来。


写真11:同上、大師堂。新四国相馬霊場八十八ヶ所第55番札所となっている。


写真12:同上、上の大師堂の隣に所謂「鯖大師」像を安置した大師堂もある。「鯖大師」伝説の中心地は四国で、関東地方では比較的珍しいのではないだろうか。

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神明神社(茨城県取手市上高井)

2025-03-01 23:33:57 | 神社
神明神社(しんめいじんじゃ)。
場所:茨城県取手市上高井516。茨城県道328号線(谷井田稲戸井停車場線)「みずき野十字路」から南東へ約1.1kmで右折(南西へ。県道を関東鉄道常総線「稲戸井」駅方面へ)、約350m進んで、左に(北へ)カーヴする手前の狭い道路(車1台分の幅、舗装あり)を南東へ約150m。駐車スペースあり。
社伝によれば、長治元年(1104年)、平将門の孫・相馬文国が勧請、天正10年(1582年)、龍太夫が再建したという。龍太夫という人物については不明だが、「伊勢神宮」に属して祈祷や参詣案内などを行う「御師(おんし)」だったのではないかといわれている。明治5年、村社に列格。祭神:天照大神。
下総国相馬郡は、将門の乱後、将門の叔父・平良文の所領として認められた。良文の孫・平忠常は下総国・常陸国・上総国に広く勢力を張り、千葉郡を本拠地として千葉介を称して千葉氏の祖となった。その8代目の子孫である千葉氏当主・常重は千葉郡の郡司に加え、相馬郡の郡司も兼ねたが、大治5年(1130年)、相馬郡布施郷を「伊勢神宮」内宮に寄進した。これが「相馬御厨」の成立で、その範囲は、現・茨城県守谷市・取手市及び千葉県野田市・柏市・流山市・我孫子市に及ぶとされる。当地に「神明神社」が勧請されたのは、この「相馬御厨」の守護神とされたからだろう。社伝を信じるなら、当神社の創建は「相馬御厨」の成立より少し早いことになるが、事前に「伊勢神宮」側から寄進の勧誘活動があったのかもしれない。その後、常重の孫・師常が相馬郡を領有し、相馬氏を名乗った。これが後に現・福島県南相馬市に移り、江戸時代を生き抜いて明治時代に華族となった奥州相馬氏の最初である。その相馬氏は、近世に作られた系図では、平将門の直系であるとしている。それは、将門の死後、将門の次男・将国が常陸国信田(信太)郡に逃れ、信田氏を名乗る。当神社の社伝にいう相馬文国は、将国の長男(=将門の孫)に当たる。その子孫・師国には子がなかったので、相馬師常が養子となったというものである。ただし、これは伝説に過ぎず、いわゆる貴種流離譚の一種で、相馬氏の権威を高めようとする意図で創作された可能性が高いものと思われる。
なお、取手市米ノ井にも「神明神社」(旧村社、祭神:天照大神)があるが、創建時期・由緒とも不明。近世に「神明神社」(上高井)から分社されたものらしいという。


発掘情報いばらきのHPから(神明遺跡)


写真1:「神明神社」(上高井)鳥居


写真2:同上、境内の「道祖神」碑


写真3:同上、社殿


写真4:境内社(「稲荷神社」と思われる。)。左は弁才天。


写真5:同上、社殿背後の石祠。風化のせいか「  宮」の文字しか読めない。「天満宮」か?


写真6:「神明遺跡」標柱。「神明神社」(上高井)の南西、約140m(直線距離)、県道328号線沿いに立てられている。「神明神社」を中心とした200~300mの範囲に縄文時代晩期~終末期頃の集落跡が発見された。これまでに、大型住居跡、大型柱穴(ただし、上部構造は不明)、石鏃・石棒などの石器、製塩土器を含む土器などが出土している。


写真7:「神明神社」(上高井)の別当寺院であった天台宗「若宮山 慈光院 八幡寺」(廃寺)本堂。茨城県守谷市の「西林寺」(2021年7月31日記事)の末寺で、本尊は阿弥陀如来。(「神明神社」(上高井)の北西、約140m(直線距離)。県道328号線沿い。駐車スペースあり)


写真8:同上、境内入口にある観音霊場巡りの記念碑と「叶観音(かなうかんのん)」像


写真9:同上、スダジイの古木と小堂。小堂の中の石像は、智拳印を結んでいるようなので、金剛界大日如来かと思われる。背後のスダジイは結構太い木だと思うのだが、「取手市の巨木と名木」(2010年)には掲載されていない。


写真10:「神明神社」(米ノ井)鳥居(場所:取手市米ノ井386-3。国道294号線に面するコンビニ「ファミリーマート取手米ノ井店」の東側の道路を南西へ約350m。駐車場なし)


写真11:同上、社殿


写真12:同上、境内の小堂(子育地蔵堂)


写真13:同上、庚申塔など


写真14:同上、イチョウの木の下にある石神像や石祠


写真15:同上、ケヤキの巨木。こちらは取手市指定の保存樹木で、樹高22.5m・幹回り5.5m、推定樹齢310年(「取手市の巨木と名木」による。)。なお、同境内には樹高22m・幹回り3mのカヤの木もある。
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駒形神社(千葉県野田市)

2025-01-18 23:31:51 | 神社

駒形神社(こまがたじんじゃ)。
千葉県野田市木間ケ瀬3623。千葉県道17号線(結城野田線)「新宿」交差点から東へ約1.7km。駐車スペースあり。
社伝等によれば、天慶年間(938~947年)、平将門が当地の農家・白石家を訪れ休息したとき、ちょうど正月14日に若餅を搗いて祝う風習があり、将門にも振舞った。ところが、将門の馬が餅の入った水を飲み、喉に詰まらせて死んでしまった。将門は何も咎めなかったが、白石家では馬を哀れみ、以前からあった保食神の祠の傍らに埋葬して、駒形大明神と呼ぶようになった。なお、白石家では、それ以来、若餅は搗かなくなったという。現在の祭神は、武甕槌命。
因みに、当地の地名(字名)の「木間ケ瀬(きまがせ)」は、「駒(こま)」に由来するという。また、利根川の対岸(下総利根大橋を渡ったところ)に茨城県坂東市木間ケ瀬があって、江戸時代初めの利根川東遷事業(東京湾に注いでいた利根川を現・千葉県銚子市を河口とするように付け替えた土木工事)の前は、一体であったと思われる。そして、坂東市木間ケ瀬の北側に長須という地名がある。これは、「延喜式」にも記載がある平安時代の官牧の1つ「長洲馬牧(ながすのうままき)」の遺称地とされている。将門は、下総国の官牧を実質的に支配していたという説もあり、当神社の社伝等が実話かどうかは不明だが、当地が将門や馬との関わりが深いことが窺われる。


写真1:「駒形神社」鳥居。扁額は「正一位駒形大明神」。なお、当神社境内は彼岸花(ヒガンバナ)の名所とのこと。


写真2:鳥居の傍らの青面金剛像など。


写真3:境内社「大杉大神」


写真4:「駒形神社」社殿(南向き)。境内全体が一段高く、南北に長い島のようになっていて、周囲を道路が一周している。社殿は更に高く、塚の上にあるような形になっている。


写真5:「駒形神社」の裏(北側)にある志部集会所と墓地。集会所の前に大きな木の切り株がある。


写真6:集会所の北側に鎮座する「稲荷神社」一の鳥居


写真7:同上、二の鳥居


写真8:同上、社殿(西向き)。「駒形神社」の社伝等の通りなら、こちらのほうが先に存在したことになろう。

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白山神社(千葉県野田市木間ケ瀬)

2025-01-11 23:31:42 | 神社

白山神社(はくさんじんじゃ)。通称:飯塚白山神社。
場所:千葉県野田市木間ケ瀬475。千葉県道7号線(我孫子関宿線)と同162号線(岩井関宿野田線)の「野田市木間ヶ瀬北」交差点から南に230mで右折(西へ)、約270m。駐車スペースあり。
創建時期は不明。伝承によれば、慶雲2年(705年)、疫病が流行したときに祈願した場所という。あるいは、慶雲2年(705年)は全国的に大旱となったので、税を半分にし、東国の各地では加賀国一宮「白山比咩神社」(現・石川県白山市)を勧請して降雨祈願をしたが、当神社もその1つであろう、ともいう。天慶年間(938年~947年)、平将門が京都からの帰途に当地を訪れたとき、村人に歓待されたことに喜び、当神社に3本、浅間神社に2本、香取神社に2本の桜の木を植えたとされ、これを「木間ケ瀬の七本桜」と称した(植えた場所、植えた本数などに諸説あり。)。現在も境内に桜の木はあるものの、もちろん樹齢千年を超すようなものではないが、親木が枯れても、また根元から新芽が出て、何代も続いているとされる。平安時代末期、将門と同じ桓武平氏良文流の千葉氏の崇敬を受けた。元禄・宝永年間(1688~1711年)、領主・深津氏が社殿を修復したという。現在の祭神は、伊弉冉命(イザナミ)。
なお、当神社の社殿東側から真っすぐ南東に伸びる参道があるが、その突き当りを左折(北東へ)したところ(当神社から徒歩2~3分)に「平将門手植えの桜」の石碑と桜の木がある。
蛇足:全国約3000社あるという「白山神社」の総本社とされる加賀国一宮「白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)」の現在の祭神は、白山比咩大神=菊理媛神(ククリヒメ)・伊奘諾尊(イザナギ)・伊弉冉尊(イザナミ)の3柱で、近世までは神仏混淆により総称して白山妙理権現といい、本地仏を十一面観世音菩薩としていた。ただし、この祭神については、菊理媛神が「日本書紀」の一書に一瞬出てくるだけで、正体不明な神であることもあって、ククリヒメとイザナミを同一神とする説もあったようである。この辺り、歴史的な経緯を含めてかなり複雑なので詳細は省くが、イザナギが「黄泉(よみ)」(死者の国)から脱出するときに現れた神なので、穢れを祓う神と考えられ、「白山」(標高2702m)の「白い」=「清浄」というイメージと結びついたともいわれている。また、「白山」霊場を開いたとされる奈良時代の僧(修験者)・泰澄は、瞑想中に緑碧池(翠ヶ池)から白山妙理権現の本地仏である十一面観世音菩薩の垂迹とされる九頭龍王が出現したのを契機とする、との伝説がある。こうしたことが、「白山神社」に疫病封じや降雨の御利益を求める根拠となっているものと思われる。


写真1:「白山神社」鳥居。参道の左手に桜並木がある。


写真2:境内? 自治会館の前にあるスダジイ?の巨木


写真3:灯篭と拝殿。拝殿の前にも桜の木。拝殿横(向かって左)にはクスノキの大木がある。


写真4:拝殿


写真5:本殿


写真6:境内の青面金剛像などの石造物


写真7:同上、石造の御嶽三尊像。左「三笠山刀利天」、中央「座王権現」、右「八海山提頭羅神王」。山岳宗教である「御嶽山」信仰の神々で、「座王権現」は主神で国常立尊・大己貴命・少彦名命の3柱の総称、「三笠山刀利天」は「三笠山」頂上に祀られる豊斟渟尊(トヨクムヌ)、「八海山提頭羅神王」は「八海山」に祀られる国狭槌尊(クニサヅチ)という。


写真8:「平将門手植えの桜」の石碑と桜の木


写真9:(右)「平将門手植之櫻 古人之口碑」石碑、(左)「将門霊神」石塔

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