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神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

橿原神宮(茨城県ひたちなか市)

2025-06-16 23:33:37 | 神社

橿原神宮(かしはらじんぐう)。
場所:茨城県ひたちなか市富士ノ上2-1。茨城県道6号線(水戸那珂湊線)・同108号線(那珂湊大洗線)「湊本町」交差点から北東へ約400mで左折(北西へ)、約50m(鳥居前)。駐車場は、鳥居の右手(北東)の坂道を上ったところにある。
社伝等によれば、和銅年間(708~715年)、涸沼のほとり石崎村升原(現・茨城県東茨城郡茨城町中石崎字枡原)に、左大臣・橘諸兄が、涸沼から引き揚げられた鏡をご神体として初代・神武天皇を祀ったのが始まりという。延暦10年(791年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂が東夷征伐の戦勝を祈願して社殿を再建した。仁寿年間(851~854年)、神託により湊村宮山(旧・明神町)に奉遷した。延長5年(927年)、常陸大掾・平国香が桓武平氏の祖として第50代・桓武天皇と、その弟・崇道天皇(早良親王)を合祀し、この頃より「柏原大明神」と称されるようになった。寛文12年(1672年)に社殿が焼失し、同年、現在地に遷座した。享保年間(1716~1735年)に「橿原大明神」に改称したが、明治維新に伴う神社調査の際、誤って「柏原」の名で届出してしまったので、明治11年に「橿原神宮」に複称した。明治15年、県社に列格。現在の祭神は、神武天皇・桓武天皇・崇道天皇。
ということだが、この社伝には、いろいろと注釈が必要だろう。まず、橘諸兄は第30代・敏達天皇の後裔で、元は葛城王といったが、臣籍降下し橘氏の祖となった。ただし、なぜ、橘諸兄が当神社を創祀したかは不明。神武天皇は、日向国(現・宮崎県)に生まれたが、東征により大和国(現・奈良県)を平定して、「畝傍橿原宮」で初代天皇に即位した。この宮があったとされる場所に、明治23年に創建されたのが旧・官幣大社「橿原神宮」(奈良県橿原市)である。だから、同名で祭神も同じながら、当神社のほうが創建は遥かに古いということになる。次に、桓武天皇だが、こちらは現・京都市伏見区の「柏原山陵」に葬られたため、「柏原(かしわばら)天皇」とも呼ばれた。平国香が桓武平氏の祖として桓武天皇を祀ってもおかしくはないが、国香からみれば曾祖父に当たり、神として祀るのは少し早すぎる気もする(国香の時代にはまだ、その後の桓武平氏の隆盛は見通せなかったのではないだろうか。)。また、崇道天皇(早良親王)も合わせ祀った意味も不明。早良親王は桓武天皇の皇太子だったが、陰謀により幽閉され、淡路に流される途中で亡くなり、怨霊になったとされ、祟りを恐れて天皇号を追贈された人物。現・京都市左京区には、早良親王の鎮魂のために貞観年間(859~877年)に創建されたという「崇道神社」がある(祭神:早良親王)。常陸国に何か祟りがあって、当神社でも実は早良親王を主祭神として祀りたかったのだが、桓武天皇を隠れ蓑としたのではないか、という説もある。ところで、上記の社伝は、主に天明4年(1784年)の「柏原神社略縁起」などを基にしている。一方、寛文3年(1663年)の「鎮守開基帳」では、大同2年(807年)、(「柏原大明神」は)常陸国司・井手大臣兄賀が平城天皇の勅を奉じて先帝・柏原天皇を奉斎のため創建した、としている。大同年間というのは、東日本の多くの古社寺の創建年代とされるもので、あまり信用できない。また、井手大臣兄賀という人物も不明。橘諸兄は現・京都府綴喜郡井手町を本拠としたことから「井手左大臣」とも称されたというが、何か関連があるのだろうか。注釈、と言いながら、疑問ばかりだが、詳しい方がおられたら、是非ご教示をお願いしたい。さて、「橿原」と「柏原」の混乱があったようなのだが、それは「柏原」も「カシハラ」と読んでいたことによるもののようだ。「カシハラ」ならば祭神は神武天皇だろう、皇祖を祀るのだから「橿原神宮」が正しい、ということになったものと推測される。大戦以前は神宮号を称することに制限があり、当神社にも神祇院(昭和15年設置)から「神宮を神社に改めるように」との勧告(実質的には行政命令)があったという。戦後は神宮を名乗ることも自由になったこともあり、改称せずに済んだようである。
蛇足1:神武天皇自身は常陸国とは無関係と思うが、その皇子・神八井耳命(カムヤイミミ)は多(意冨)氏の祖で、その後裔の建借馬命(タケカシマ。「常陸国風土記」では建借間命と表記)が常道仲国(後の常陸国那珂郡)の初代国造になったとされる。現・茨城県水戸市の「愛宕山古墳」(2018年3月16日記事)は建借馬命の墳墓であるという伝承があり、同じく式内社(論社)「大井神社」(2019年3月30日記事)は建借馬命を祭神としている。「常陸国風土記」によれば、那賀郡と香島郡の境界を「阿多可奈湖」としていて、これが現在の涸沼だとすれば、当神社の最初の鎮座地という現・茨城町中石崎は涸沼の北側なので、古代には那賀郡に属したかもしれない。そうすると、多氏の後裔が始祖の神武天皇を祀るということも絶対ないとは言えないだろうが...。
蛇足2:「柏原神社略縁起」では、最初の鎮座地を単に「茨城郡涸沼のほとり」としていて、その頭注として「平戸村に柏原明神という地名があり、あるいはここが旧趾と考えられる。平戸村は涸沼の傍にある。ただし、仁寿年中に湊村に移転したというのは古すぎるので、違うのではないか。」(現代語訳)とも書かれている。平戸村(現・水戸市平戸)には、古代官道の「平津駅家」があったとされており、また、伝承では平国香の嫡男・平貞盛の居館跡とされる「平戸館跡」(2025年6月7日記事)がある。平戸の「柏原明神」という地名の場所は不明だが、常陸大掾氏(桓武平氏嫡流)一族の支配地だった可能性は高いと思われる。


写真1:「橿原神宮」鳥居と社号標。鳥居のところから石段を上っていく。なお、鎮座地が「富士ノ上」というのは、元は「富士権現(浅間神社)」祠があったからとされ、境内社として今も「富士神社」があるとのこと。


写真2:社殿


写真3:境内の「幸石(さちいし)」。授与品の「厄割石」を打ちつけて割ることによって、厄を祓うというもの。当神社には「厄除明神」の別称があるらしい。

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湫尾神社

2025-06-09 23:32:12 | 神社

湫尾神社(ぬまおじんじゃ)。通称:武田神社。
場所:茨城県ひたちなか市武田584。茨城県道38号線(那珂湊那珂線)「本町」交差点から南西へ約400m、「武田新地」交差点を左折(南東へ)、直ぐに右折(南西へ)して約220m、突き当りを右折して(南西へ)約190m、また突き当りを左折(南東へ)約140m。住宅地の奥で、道順がややこしいが、「武田氏館」への案内板が所々にあるので、それに従っていくとよい(「湫尾神社」は「武田氏館」の南東側の地続き)。駐車スペースは「武田氏館」前にある。
「湫尾神社」の創建は不明。「勝田市史 中世編」などによれば、当地は常陸国一宮「鹿島神宮」の神領であり、その社家の一族・中臣則頼が開発するに当たり、「常陸風土記」香島郡の条にみえる「沼尾社」(現・鹿島神宮境外摂社「沼尾神社」2017年10月21日記事)に因んで建立されたと推定している。「常陸風土記」によれば、「鹿島神宮」の南に「香島郡家」があり、北に「沼尾の池」があるが、かつて郡家は「沼尾の池」付近にあった、とされている。当神社の南東に「武田溜」という大きな池があり、これを「沼尾の池」に見立てて当神社が創建されたということらしい。ただし、現在の祭神は素戔嗚命となっている。
さて、当神社の鳥居前に「甲斐武田氏発祥の地」という石碑が建てられているが、当神社の境内地を含み、その南東側の「武田溜」との間に「武田館跡」という中世城館跡があったとされている。即ち、八幡太郎源義家の弟・新羅三郎義光は、「後三年の役」(1083~1087年)への参加、常陸介受任、常陸大掾平氏(吉田氏)との縁戚関係などにより、常陸国への進出を図った。しかし、常陸国南部は常陸大掾氏、東部は鹿島神宮・中臣氏の勢力が強かったことから、長子・義業を常陸国久慈郡佐竹郷(現・茨城県常陸太田市)に、三男・義清を那珂(吉田)郡武田郷(現・ひたちなか市武田)に土着させて、勢力の伸長を図った。これが、それぞれ佐竹氏、武田氏の発祥となるのだが、義清とその子・清光の城館(「武田館」)が那珂川を見下ろす台地の南端にあたる当地にあったとされる(ただし、現・JR常磐線の開通工事等のため遺構はほとんど残っていないとのこと。)。しかし、義清・清光父子は在地勢力である吉田清幹(吉田郡の郡司)や中臣氏らとの軋轢から、大治5年(1130年)に常陸国司(常陸介)・藤原盛輔により「濫行」ありとして朝廷に告発され、甲斐国市河荘(現・山梨県市川三郷町付近?)に配流となった(皇后宮権大夫・源師時の日記「長秋記」の記事)。その後、甲斐源氏の祖となり、義清から17代後に戦国時代の猛将・武田信玄が出ることになる。
なお、当神社の社名については、慶安元年(1648年)9月再興の棟札によれば、当時は武田郷の鎮守として「武田大神宮」と称していたらしい。また、水戸藩が行った神社整理の準備として行われた寛文3年(1663年)作成の「鎮守開基帳」には「沼尾明神」と記されているという。「湫」という字は、普通は「くて」と読み、湿地帯や水たまりを指す。当神社の名を「湫尾神社」としたのは、寺社整理を行った水戸藩第2代藩主・徳川光圀(水戸黄門)らしいが、理由は不明。
蛇足:(甲斐)武田氏は、天正10年(1582年)の「天目山の戦い」において、織田信長軍に攻められて当主の武田勝頼と嫡男・信勝が自害し、滅亡した。勝頼の敗北の要因として親族や家臣の離反が多かったこともあげられており、武田家の再興について色々な動きもあったようだが、最終的には、徳川家康が名門の断絶を惜しみ、自らの五男・万千代丸(実母は武田氏支流出身の通称・下山殿)を武田信吉と名乗らせて、武田家を再興させた。信吉は、慶長7年(1602年)、出羽国秋田に移封となった佐竹氏に替わり、水戸15万石の領主となった。ある意味、発祥の地に戻ってきたということになるのだが、慶長8年(1603年)、信吉はわずか21歳(水戸在城10ヵ月)で病死、子がなかったため、再び武田家は断絶となった(なお、勝頼以外の信玄の子孫で徳川幕府に仕えた者があり、その系譜は現在も続いている。)。


ひたちなか市のHPから(武田氏館)


写真1:「湫尾神社」鳥居と社号標。「甲斐武田氏発祥の地」石碑もある。


写真2:参道石段右側のヒイラギ。幹周囲約1.5m・樹高約14mで、樹齢約250年という。


写真3:参道石段左側のスダジイ。幹周囲約5.2m、樹高約23mでひたちなか市内最大のスダジイであるという。樹齢約400~450年とされる。


写真4:同上。石段の上から見る。


写真5:拝殿。元は入母屋千鳥破風・軒唐破風造、屋根は市内唯一の茅葺という非常に趣のある建物だったが、平成25年に不審火により火災焼失、その後再建。


写真6:本殿


写真7:「武田氏館」入口


写真8:同上、主屋。ふるさと創生事業の一環として、中世の武士の館を復元したもの。

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神塚神社(茨城県茨城町)

2025-06-04 23:34:00 | 神社

神塚神社(かみつかじんじゃ)。
場所:茨城県東茨城郡茨城町下石崎2890。茨城県道40号線(内原塩崎線)と同179号線(中石崎水戸線)の「若宮」交差点から南~南東へ約2.4km。駐車場なし。
社伝によれば、武甕槌神が東国平定の際、当地に休息されたところを「仮塚」と称したが、これが後に「神塚」になったという。大同年間(806~810年)、武甕槌神が遺した毎夜光る奇石を安置して、神社を創建した。この奇石のことを聞きつけた盗人が盗み、下総国の印旛沼(現・千葉県成田市ほか)辺りまで逃げたが、持て余して、沼に投げ入れた。しかし、奇石が水中から毎夜光を発し、「帰りたい」と泣く声が響いた。それで大騒ぎとなり、漁師らが引き上げたところ、当神社のものと分かり、元に戻したという。境内の石碑によれば、この奇石(神石)は今も当神社に鎮まり、村を守護しているという。下石崎総鎮守として、明治6年、村社に列格。現在の祭神は武甕槌命。
なお、神木の椎(スダジイ)は幹回り約6.5m、樹高約20mという巨樹で、茨城町指定天然記念物。
また、境内に「神塚古墳群」1号墳がある。現在では長辺約20mの長方形のような形だが、元は円墳だそうで、周濠があり、周濠を含めた直径は約25mという。多数の埴輪片や土器片のほか、比較的保存状態の良い武人埴輪が出土している(東京国立博物館所蔵)。築造年代は6世紀代とされる。「神塚古墳群」は4基が確認されているが、うち2基は湮滅し、当神社の北側道路の向かい側に2号墳がある。


茨城町観光協会のHPから(神塚神社の椎の木)

東京国立博物館のHPから(埴輪 挂甲の武人)


写真1:「神塚神社」一の鳥居と社号標(「村社 神塚神社」)。社殿は東向きで、約150mの参道がある。


写真2:一の鳥居前にある石造道標地蔵尊。茨城町指定有形文化財。


写真3:長い参道


写真4:二の鳥居


写真5:拝殿


写真6:本殿


写真7:神木の椎の木。社殿の北側道路からの境内入口に鳥居があり、その傍らにある。


写真8:同上、北東側から見る。


写真9:同上、北西側から見る。


写真10:当神社の社殿と椎の木の間にある境内社。「茨城縣神社誌」(昭和48年)によれば、境内社は「素鵞神社(祭神:素戔嗚命)」と「富士神社」(祭神:木花咲耶姫命)」だが、どちらだろうか。あるいは、平成15年に社殿改築されているので、その時に合祀されたのかもしれない。


写真11:境内社の背後にある「神塚古墳群」1号墳。


写真12:同上、西側から見る。


写真13:北側道路を隔てたところにある「神塚古墳群」2号墳。道路のすぐ傍だが、足場が悪そうだったので、中に入るのは遠慮した。

コメント (2)
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日笠神社(茨城県石岡市)

2025-05-31 23:31:16 | 神社

日笠神社(ひがさじんじゃ)。
場所:茨城県石岡市瓦谷2335。茨城県道42号線(笠間つくば線)と同140号線(西小塙石岡線)が重複する交差点の北側。「瓦谷郵便局」の道路を隔てた西側にある。駐車場あり(社殿の背後)。
社伝によれば、創建は建治元年(1275年)という。中古、川原野村が瓦谷村・野田村の2村に分かれたが、両村の鎮守として崇敬された。南北朝時代、常陸国で南朝方と北朝方が戦った「常陸合戦」(1338~1343年)において、その最後の戦いとなった「難台山の戦い」で類焼し、古記を失った(なお、この合戦の結果、北朝方が勝利し、小田氏が衰退、佐竹氏が伸長する結果となった。)。天保3年(1832年)再建。牛久藩主・山口氏から例祭毎に献幣を受けた。別当寺院として真言宗「宝蔵院」があったが、明治2年、「宝蔵院」が廃寺となり、社僧が還俗して神職となった。同6年、瓦谷・片岡・浦須・部原4ヵ村の村社、同14年に瓦谷村の村社となった。古来、伝染性流行病消除の霊験があるという。現在の主祭神は弟橘姫命で、大物主命と木花開耶媛命を配祀する。
以前、国指定史跡「瓦塚窯跡」を訪問したとき(2018年12月1日記事)、その近く(西へ直線距離で約500m)に立派な彫刻がある当神社があることは後から知って、機会があれば参拝したいと思っていた。随分時間がかかってしまったが、漸く行くことができた。確かに、本殿の柱に巻き付いた龍の彫刻は見事なものだったが、本殿全体が覆屋にすっぽり覆われていて、見辛いのが残念。
瓦谷(村)は、古代からで瓦を焼いていた生産地で、常陸国府があった現・石岡市市街地まで運んでいた。この道は「瓦谷街道」とよばれ、近世には、瓦谷から更に北西に向かう「宇都宮街道」も整備された。宇都宮から先、「日光東照宮」(現・栃木県日光市)への参拝ルートでもあったので、江戸時代には宿場として瓦谷も賑わっていたらしい。当神社本殿に立派な彫刻が施されたのは、こうした経済力が背景にあったのかもしれない。
ところで、「日笠神社」というのは、ありそうで、案外他にはない社号のようである。地名としての「日笠」は各地にあり、例えば奈良県奈良市日笠町(通称「今井堂天満神社(祭神:菅原道真公)」がある。)、福井県若狭町日笠(旧県社「廣嶺神社(祭神:素盞嗚尊ほか)」がある。)、岡山県和気町日笠下(旧郷社「長田神社(祭神:木花開耶姫命)」がある。)など、古社もあるが、「日笠神社」と称する神社は見当たらないようである。また、当神社の主祭神が弟橘姫命(日本武尊の妃)である理由も不明であるらしい。はて。


写真1:「日笠神社」社号標、石灯籠、鳥居。電柱の脇には古風な道標もある。


写真2:拝殿


写真3:本殿覆屋。金網も張ってあって、厳重に囲われている。


写真4:本殿


写真5:同上、彫刻


写真6:同上


写真7:境内社

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清明大明神(茨城県かすみがうら市)

2025-05-24 23:33:45 | 神社

清明大明神(せいめいだいみょうじん)。通称:清明神社、清明様。
場所:茨城県かすみがうら市深谷。国道354号線「加茂入口」交差点から東に約650mで右折(南東へ。「かすみがうら市街」方面)、約950mで「出島郵便局」。その西側の狭い道路を徒歩で、約90m。駐車場なし。
「清明大明神」については、「霞ケ浦町の歴史散歩」(霞ケ浦町郷土資料館、2004年)の近世の項に「謎の清明神社」として記載がある。この「清明」については、平安時代の陰陽師・安倍清明のことであろうとし、現在も地区の女性の方々を中心に信仰されている。ただし、千葉県・東京都などにも古跡があるが、なぜ当地において神社として祀られたのかについては、江戸時代の古文書等を見ても記されておらず、不明である、としている。
陰陽師・安倍晴明は、小説や漫画、映画などで超人的な活躍をした人物として描かれ、今やその名を知らぬ者はいないくらいだろうと思う。実在の人物であるが、出自・前半生は不明で、出生地は関西(現・大阪府、奈良県、香川県など)とすることが多いが、現・茨城県筑西市猫島とする伝承がある(「宮山観音堂」(2024年5月4日記事)ほか参照)。また、現・東京都葛飾区の「(五方山)熊野神社」(2013年5月18日記事)や現・千葉県銚子市の「清明稲荷」(2014年6月7日記事)など所縁の地がある。「晴明」という名は本来「はるあきら」とか「はれあきら」と読むのだろうが、中世以降、彼の超人的な活躍を強調する書物が盛んに書かれるようになったとき、「せいめい」と読んで「清明」という字が当てられることが多くなったようである。つまり、後世、晴明の名声を利用した陰陽師や修験者が諸国を巡り歩き、そうした人々が当地で何か印象に残るような事績を起こしたということがあったのかもしれない。しかし、残念ながら、そうした事情が何も伝わっていないようである。


写真1:「八幡宮」。「出島郵便局」から狭い道路に入っていったところにある小祠だが、石造の鳥居はまだ新しく、立派。


写真2:「清明大明神」。「八幡宮」から少し先に進んだところにある。東向き。


写真3:同上、鳥居の傍にある仏堂。中の石仏は子安観音像?


写真4:同上、社殿内

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