goo blog サービス終了のお知らせ 

東十条探偵団2

明日は何を撮りに行こうかな?

音無川に荒ぶる大地を見る

2016-08-16 | 散歩
  上流は石神井川、王子辺りから音無川と名前を変えます、
  八代将軍吉宗の故郷、紀州の音無川に似ているとの命名です。
  でもこの川、名にし負う暴れ川で今でも集中豪雨のときなど
  あっという間に増水し被害が出ることもあります。


  

     音無橋から川沿いに上流に行くと左に正受院、
     中国風の鐘楼は昭和16年頃まで朝夕に鐘をついていたという。

     赤ちゃん寺として有名で、
     この世に生まれることなく儚く消えた命、生まれてすぐ天に上った命、
     お詣りする人の姿は途切れません。




  

     前はよく行った、春にはカタクリなんか咲いていたりしていたけど。
     この廻りはぬいぐるみとかのお供え物でいっぱいだったが
     久しぶりに来てみたらかなり整理されていた。




  

     正受院の裏側から下を見る。
     この辺りの地名は「滝野川」、この高台から音無川へたくさんの滝が流れ落ちていました。
     俗に言う「王子七滝」です。江戸時代には日帰りで行ける避暑地として賑わいました。




  

     川に戻ってさらに数分、窪地があります、音無さくら緑地。
     アマゾン川のように蛇行していた音無川も改修され真っ直ぐになったけど、
     一番蛇行が強かった場所は残されて緑地公園に。
     強い水流が崖を浸食していた跡が残っています、
     自然露頭ですね。




  

     さらにちょっとで金剛寺、「紅葉寺」として有名。
     (上のはめ込みの地図右に「寺剛金」、分かりますか?)

     頼朝が鎌倉へ帰る際に陣を置いた所、そのあと鎌倉幕府を立ち上げます。
     岩槻街道は鎌倉街道の一部とか脇道とか言われますね。




  

     さらに上流へ歩くと音無川の遊水地、
     ちょっと強い雨が降るとすぐ増水するので蛇行していた跡が遊水地になっています。
     普段は水辺の遊び場、増水したらここに一時濁流を溜めて洪水を防ぐ仕組みですね。

     このままさらに進むと板橋へ出ますが今日はここまで。
     板橋では中山道と交差するけどそこには板の橋が架かっていました、
     「板橋」の名の由来です。




  

     音無橋まで戻って川へ降りてみましょう、音無親水公園です。
     昔の避暑地が偲ばれる風景、
     江戸時代には桜の季節と夏の時期には
     お店もたくさん並んで大賑わいだったようです。




  

     私が東京へ出てきたころはこの川はまだどぶ川、
     後ろの崖には赤茶けたトタン屋根のバラックが並び
     まだ戦後を引きずっていました。
     あれから50年、戦後を知ってる人はもう僅かですねぇ、、、。




  

     王子といえば「玉子焼きの扇屋」、
     江戸名所図会にも描かれ、いろいろな落語にも登場する超有名店でした。
     吉宗が飛鳥山に桜を植えるずっと前からあったとされます。

     何が変わったってこんなに変わった店は類を見ない、
     私もよく知ってる、以前は料亭として堂々たる店を構えて
     辺りを睥睨していたあの扇屋は今・・・。

     隣りの自販機と同じような大きさになってしまった、
     中ではおじさんが一人でどこで作ったのか分からない
     玉子焼きを売ってる、いつかTVでも見たけど、、、
     いや、見てはいられなかった。

     栄枯盛衰は世の習いというけど
     あまりの変わりように言葉も出ない、何があったのか、、、。
     一応「食べログ」には載っているけど・・・。


     最後湿っぽくなったけど、ま、いっかぁ。
     山の日に端を発した街歩き、懐かしい王子の街を歩きました、
     ここまで歩いて次を歩かない手はない。
     このあと日暮里崖線を歩くのはいつかな?。(爆) 
                                                         8月11日 懐かしの音無川を歩く
         

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧日光御成道を歩く

2016-08-15 | 散歩
  日光御成道は、江戸時代の五街道同様整備された脇街道の一つ。
  中山道の本郷追分を起点として岩淵宿、川口宿から岩槻宿を経て
  幸手宿手前の日光街道に合流する脇街道。
  日本橋から三つ目の「西ヶ原一里塚」がそのまま残っています。


  

     飛鳥山公園を出てほんの5分、西ヶ原一里塚。
     江戸時代の一里塚がほぼそのままの形で残っています、
     日光御成道・本郷から二番目の一里塚、向こうは王子方向。

     並んで右側にも一里塚があります、基本的に道の両端にあるのが普通。
     岩槻街道はこの道路2車線分と同じ幅だったということです。




  

     一里塚でUターン、王子方向へ戻ります。
     「ゲーテの小径」、SLも分からなかったけどこれも分からない、
     なんでここに?左へ入ってみましょう。




  

     5分ほど歩いて、東京ゲーテ記念館。
     ふ~ん・・・・・。


     「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」

     ウキより
     「ゲーテ (Goethe) のドイツ語での発音は日本人には難しいこともあり、
     日本語表記は、古くは「ギョエテ」「ゲョエテ」「ギョーツ」「グーテ」
     「ゲエテ」など数十種類にものぼる表記が存在した。
     このことを諷して斎藤緑雨は「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」という川柳を詠んだ。





  

     さらに10分ほど坂道を下ります、谷戸駐在所。
     交番ではありません、駐在所です、
     交番と違うのはお巡りさんが家族と一緒に常駐してるということ。

     さっきの一里塚の隣に本署があるのでここまで歩いても15分くらい、
     なんで家族と住み込みのお巡りさんが、、、これも分からん。


     谷戸(やと)とは、丘陵地が浸食されて形成された谷状の地形、
     ここも谷の底ですね、

     谷戸は谷津とも言われ同じ地形の場所。
     ここからもうちょっと行って音無川を上ると観音橋の袂に、
     寿徳寺の谷津大観音が姿を現します。
     寿徳寺は新撰組組長近藤勇の菩提寺としても知られ、こっちが本家。
     JR板橋駅前にある近藤勇墓所は寿徳寺の境外墓地ですね。




  

     飛鳥山まで帰ってきました、
     本郷通りはここで終り、ここからは岩槻街道となります。
     右手の日本家屋風建物は飛鳥山交番、中央の頭だけのビルは「北(ほく)とぴあ」
     1990年の完成時は北区で一番高い建物だった、
     最上階17階には展望台があり、富士山や筑波山がよく見える。




  

     飛鳥山の前、交番と8800型の都電、
     このラッピングは初めて見た。




  

     ここから岩槻街道、日暮里崖線の上端が続く道、
     赤羽までの間は右側は切り立った崖が続きます。
     都電は右へちょっとだけ明治通りを走って専用軌道へ。




  

     ちょっとだけ音無川を覗いてみましょう、音無橋の上からです。

     本流は暗渠になっていてここは親水公園、
     この高低差、日暮里崖線、
     こんな高低差が赤羽まで続きます、怖いです。

     今度ヒマをみて日暮里崖線を歩こうかなぁ、
     日暮里から赤羽まで、、、
     基本歩きだから体調のいいときにね。♪  
                                                             8月11日 王子界隈を歩く
         


コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飛鳥山公園のSL

2016-08-14 | 散歩
  飛鳥山公園に都電が保存されているのは分かる、
  でもSLそれもD-51が保存されているのはなぜかなぁ?。
  それはそれとしてこんなに近くでSLが見られるのは嬉しい、
  急に鉄っちゃんになったりしてみる。


  

     う~ん、やっぱりSLっていいなあ
     重厚長大の見本みたい、力強いことこの上もない。




  

     やっぱりここが一番美しい。




              

              こんなところにも乗り込んでみる。




  

     なんだ坂、こんな坂、しゅっしゅっぽっぽ、しゅっぽっぽ~。




              

              アクセル(左)とブレーキね。




  

     気にはしていたけどしばらく行けなかった、
     うっすらと白くなっている、この前見たときはピカピカだった。




              

              私より長生きしてるみたい、まだ頑張ろうね。


              「わたしのあゆんだ道(D51853)

              製造年月日 昭和18年8月31日
              製造工場  国鉄鷹取工場
              配属箇所
               昭和18年 9月24日 吹田機関区
               昭和21年 1月 1日 梅小路機関区
               昭和21年 5月 8日 姫路機関区
               昭和23年 9月11日 長岡機関区
               昭和42年 6月24日 酒田機関区
              廃車年月日  昭和47年 6月14日
              総走行距離  1,942,741.3km

              大きさ 機関車 重さ78.37t、長さ1218cm、高さ398cm、幅260cm
              炭水車 重さ47.40t、長さ755cm、高さ308cm、幅260cm


              おとーさんもこどもたちもたくさんいたけど
              だれも見向きもしない。
              ちょっと寂しい、みんな見慣れているのかな。
                                                               8月11日 飛鳥山公園
         

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「山の日」はここでっしょ !!

2016-08-13 | 散歩
  ここのところ仕事が妙な方向に忙しく?、日付より曜日で頭がいっぱい。
  いつものように朝早く起きてテレビを点けたら、、、
  「お休みで~す」、「山の日ですねぇ」、、、そんなぁ、今ごろ言われても。。。
  でも、そこはそれ名だたる野次馬、急遽”山”へ行ってきましたわ。


  

     なにかご不満でも?。
     ほら、山って書いてあるでしょ、「飛鳥山、標高25.4メートル」。
     れっきとした山です、それも東京で一番低い山 !!。




  

     公共基準点
     こんなのがあるんだ、知らなかったよ。




  

     東京で一番低い山からの眺望。
     JR王子駅を見下ろすここからは都電、JR京浜東北線などの他に東北新幹線が見える。
     この三者を同時に写すのがカメラさんの仕事、
     新幹線と都電は撮れたがJR京浜東北はタイミングが合わなかった。




  

     飛鳥山の碑
     石は紀州のもので吉宗に「飛鳥山をきれいにしてくれてありがとう」、、、
     みたいなことが書いてあるみたい。




  

     ここに、飛鳥山公園に都電の展示は分かるけどSLが置いてあるのはなぜかな?、
     SLは次回に特集で大量に・・・。




  

     北区を語るには渋沢栄一は欠かせない、
     その渋沢栄一の青淵(せいえん)文庫。
     飛鳥山公園にある渋沢栄一の別荘 「曖依村荘」の跡です。




  

     同じく近くに晩香廬(ばんこうろ)。
     晩香廬は、渋沢栄一の喜寿を祝って現在の清水建設(株)が贈った洋風茶室です。
     渋沢栄一は内外の賓客をここでもてなした。




  

     室内もそのまま残されてる。

     渋沢栄一は幕末から大正にかけて活躍した実業家で、
     銀行を初め多くの企業の設立に携わったことで知られる。
     この辺りでは、王子製紙の創業者として製紙業界をリードした人物でもある。




  

     ここらへんで飛鳥山公園を後にしてまた歩きましょう、
     道路は旧日光御成道、岩槻街道ですね。


     将軍家は日光参拝のおり日光街道も使ったけどこの岩槻街道も使いました、
     途中の岩槻城を東北の要衝として重視していたからです。

     これからちょっとだけ本郷方向へ歩きますね。
     この道はこの前行った本郷の東大農学部前で中山道と分岐します、
     日本橋から本郷、王子、赤羽、岩槻と続く岩槻街道、
     旧日光御成道を歩いてみましょう。

     この「六石坂」は、この辺には六石の租税を納めていた水田があったという意、
     本郷台地の上にあるけど水田があったということですね。
                                                           8月11日 「山の日」の飛鳥山
         

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸変化朝顔

2016-08-12 | イベント
  2007年、およそ10年前の写真が出てきました。
  あの頃は毎年展覧会が開かれていました、百花園で。
  この頃は育てる人が少なくなったのかなぁ?、
  あの朝顔市の入谷あたりで作られていたらしいけど。


  

     はい、朝顔です。
     ここまでくるともう、、、。




  

     ススキじゃありません、朝顔ですねぇ。
     もう葉の形も一変しています。




  

     同じ種類で色違い?。
     江戸期も後半になってくる武士も戦いが無くなり仕事がない、
     浪人とか、二男三男の冷や飯食いたちが朝顔の栽培を始めた。




  

     今の御徒町とか朝顔市でお馴染みの入谷あたりが栽培の中心だったらしい。
     御徒町は上野のお山のふもと、入谷は浅草田んぼのふち、
     植木屋さんには地の利を得ていた。




  

     ごくたま~に現れる突然変異の花を見つけ「これ面白いじゃない」。
     メンデルの法則なんて当然知らない、
     なので人工授粉も知らない。
     ただ経験則などから、ただひたすら待ちに徹して変化朝顔を待っていた。




  

     珍しいのを見つければ高く売れる、、、これで火がついた。
     下級武士たちが内職としてその栽培と、
     花や葉の色・形・模様などの「品種改良」に励んだといわれています。




  

     アサガオ(朝顔) ヒルガオ科サツマイモ属

     日本へは、奈良時代末期とも平安時代ともいわれて説が別れていますが、
     下痢や利尿剤の薬用として遣唐使がその種子を持ち帰ったと考えられています。

     日本では観賞用として栽培され江戸・天保年間になると、
     朝顔栽培の中心は、下谷から入谷に移りました。
     入谷の朝顔市の誕生秘話?ですね。
                                                                 2007年8月8日 向島百花園
              

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする