シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

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彼の小説は暗かった

2008年08月06日 | アート/書籍/食事
「イワン・デニーソビッチの1日」は学生時代に読みました。 残酷な描写はありませんが、何度も読み返したい内容ではなかった記憶があります。 要するに、強制収容所時代の自分のことを書いているのですから。
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「ソルジェニーツィン氏死去 ロシアのノーベル賞作家」(8月4日 CNN/モスクワ) _ 旧ソ連時代のスターリン体制を批判した著作で、1970年にノーベル文学賞を受賞した、ロシアの小説家で歴史研究者のアレクサンドル・ソルジェニーツィン氏が3日夜、急性心不全のため死去した。 89歳だった。 ロシアの各通信社が4日伝えた。

大学卒業後に独ソ戦に召集され、スターリン批判の疑いで8年間を強制収容所で過ごした。「イワン・デニーソビッチの1日」「煉獄の中で」「ガン病棟」などを著し、収容所の実態を告発。 検閲廃止をめぐって当局と対立し、3巻に及ぶ最大の著作「収容所群島」出版後の74年、市民権をはく奪されて西ドイツ (当時) に国外追放された。

米カリフォルニア州スタンフォード大学で教職を得た後、バーモント州カベンディッシュに移り、家族と数年間住んだ。 90年に市民権を回復され、94年に20年ぶりにロシアに帰国。 昨年にはプーチン大統領から、人道面での貢献を称えるロシアの最高賞を授与された。 健康状態が悪化していたため、授賞式には妻ナタリヤさんが代理で出席した。

これまでに心臓病を2度患い、52年には腹部にできた悪性腫瘍の摘出手術を受けた。
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「”世捨て人” はいまだ健在なり」(7月1日 COURRiER Japon + hitomedia / タイムズ UK ) _ かつて筆一本で国家と戦った作家の体は老齢から弱っており、一人で歩くことも難しい。 メディアに登場することもなく、モスクワ郊外にある自宅にここ5年ほどこもりきりになっている (※追加1へ続く)。
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ウィキペディアから_「ソルジェニーツィン、アレクサンドル・イサエヴィチ」は、ロシア生れの作家で90年代ロシア再生の国外からの提言者。

● 経歴 ●
1918年、北カフカス、キスロヴォツクに生まれる。 敬虔なクリスチャンの母と祖父母に囲まれて成長。 41年ロストフ大学卒業と同時に第二次世界大戦に従軍。 誕生の半年前に戦死した父と同じ砲兵大尉となる。 45年、スターリン批判の嫌疑で告発され、欠席裁判で懲役8年を宣告される。 収容所に送られ後に流刑。 1958年にニキータ・フルシチョフによって名誉回復される (※追加2へ続く)。
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彼の著書は、『… の一日』(1962年)、『煉獄のなかで』(68年)、『ガン病棟』(68~69年)、『収容所群島』(73~75年) などが有名で、『仔牛が樫の木に角突いた』(邦訳の副題「ソルジェニーツィン自伝」(75年)、『甦れ、わがロシアよ~私なりの改革への提言』(90年)、『廃墟のなかのロシア』(98年) などは話題にならなかったように思います。

旧ソ連国内にいた時代は、当局を告発するような作品群を書いて気を掃いていたのが、76年米国に移住後の作品は、内容を別として、そんなに有名ではありません。

想像するに、当局から睨まれながら、それを批判する作品群を書き続けたのは、当局からの圧力を逆にエネルギーに変えて、有名となる作品にすることが出来たのかも知れません。

米国に移住後は自由な空気の中で、書くエネルギーを感じなかったのかも。 いずれにしろ、題名だけを見ても、やっぱり暗そうな内容を連想させますから、私はもう「読むエネルギー」は出てきそうもないですね。

以上


※追加1_ 彼の名はアレクサンドル・ソルジェニーツィン(89)。 世間からはすでに「過去の人」と見られ、世捨て人のような生活を送っている彼だが、今のロシア人がソルジェニーツィンのことをあまり知らないのには理由がある。

1962年に強制収容所での生活を描いた『イワン・デニーソヴィチの一日』(邦訳:新潮社刊) で鮮烈なデビューを飾り、70年にはノーベル文学賞を受賞したソルジェニーツィンだったが、74年にソ連政府は彼を逮捕。「国家反逆罪」で国外追放に処した。 それとともに、彼の著作も発禁処分となり、ロシア人は彼の小説を読まなくなっていったのだ。

だが、ソルジェニーツィンの情熱はまだ消えていないようだ。 彼の妻ナターリアによると、現在、彼は全30巻に及ぶ自分の全集の完成に全身全霊を傾けているのだという。 全集の第1巻は既に発売されている。 ロシア人が彼を「再発見」する日は近いかもしれない。
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※追加2_ 62年、スターリン時代の収容所の1日を描いた処女作『イワン・デニーソヴィチの一日』を発表し世界的ベストセラーに。 64年10月15日のフルシチョフ失脚から暗転。 70年度ノーベル文学賞を受賞するも、74年2月12日逮捕、国家反逆罪でレフ・トロツキー以来45年ぶりの国外追放処分を受ける。 スイスを経て、76年9月米国に移住。

82年9月、密かに短期来日。 過酷な運命を耐え抜いた正教徒としての神の信仰で宗教界のノーベル賞とも言える83年度テンプルトン賞受賞。 
ミハイル・ゴルバチョフのペレストロイカで90年8月ソ連市民権回復。 同年9月、『甦れ、わがロシアよ~私なりの改革への提言』はソビエト国内で 2,650万部 が出版されソ連国民の白熱の議論を呼んだ。 ゴルバチョフは同月25日ソ連最高会議の席上で彼の論文を絶賛。 ロシアの再生に大きな影響を与えた。 94年5月27日亡命先の米国からロシア連邦に帰国。 97年5月からロシア科学アカデミーの正会員 (芸術院)。  07年6月13日ロシア文化勲章を受章。

● ロシア再生に与えた影響 ●
ゴルバチョフ大統領は、1990年9月25日のソ連最高会議の席上で、「アレクサンドル・イサーエヴィチ」と尊敬を込めて呼び『甦れ、わがロシアよ~私なりの改革への提言』を2回読んだことを告白し、「彼は疑いもなく偉大な人物であり、この作品には非常に多くの興味深い見解、思想が盛り込まれている」と語ったという。 実際、ゴルバチョフが共感しペレストロイカ政策に影響を与えた提言は次のとおりである。

・「ソ連共産党政治綱領」(90年2月5日) で、民族問題については、分離独立も含めた民族自決の権利をうたったレーニン主義を再確認する点。 彼の主要な提言はこの点にあった。

・「ソ連邦内の自治共和国の地位をソ連邦構成共和国と同等とする法律」(90年4月10日) で、ロシア共和国内の自治共和国が主権独立宣言した場合、ロシア共和国は認証する決りになっていた点。 カフカス出身の彼は「少数民族への言葉」の章で 「北カフカスの山岳民族も、連邦離脱の損得勘定をするかもしれない」と提言していた。

・「ソビエト連邦離脱法」(90年4月30日) で、ソ連邦構成共和国がソ連を離脱するための3要件を規定した点。

・「主権ソビエト共和国連邦」創設合意 (91年9月1日) で、従来のソ連を崩壊させ、主権ソ連邦として甦りかけた点。

・「チェチェン共和国連邦離脱宣言」(91年11月) で、彼の地元の北カフカスから離脱しようとする旧自治共和国が出た点。

主権ソ連邦は甦らず、91年12月31日深夜、ソ連は消滅してしまった。 代わりにロシア共和国が消滅して再生したロシア連邦は、ソルジェニーツィンの提言どおりのロシアではなかった。 ロシア連邦の中で再び民族が捕われている。 彼の地元のチェチェン共和国はかつてボリス・エリツィンに、今はウラジミール・プーチンに独立を妨げられたままである。

以上

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