goo blog サービス終了のお知らせ 

シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

"独断と偏見" で世相・経済からコミックまで 読んで楽しい 面白い内容を目指します。 

ショルティと日本人奏者

2021年03月18日 | 指揮者あれやこれ
左から 眞峯紀一郎、ショルティと田崎悦子、藤岡幸夫。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ショルティと日本人奏者との関わりについて 拾ってみました。

眞峯氏はベルリン・ドイツ・オペラに入団後 1973年 応募し、以後31年間 バイロイト祝祭管弦楽団に参加した経験を持つヴァイオリン奏者です。 時々 音楽誌にバイロイトで共演した巨匠たちの話しが載りました。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
「オーケストラピットから見たバイロイト音楽祭 ~ バイロイトで出会った巨匠たち」(2011年3月19日 眞峯紀一郎) __ 1983年 ゲオルク・ショルティがバイロイトにやって来ました。 彼の指揮は、ご存じの通り とても “ガチガチ” しているのですが、音楽に対する要求は非常になめらかで、最初は面食らいました。 また オケ練習が始まる直前、彼が金管楽器の奏者をシカゴ交響楽団から連れて来ようとしているといった噂が流れて、少し緊張状態になりましたが、さいわい大事には至りませんでした。

ショルティは、一年でバイロイトを去ることになったのですが、もう一年 指揮して欲しかったですね。 そうすれば我々も、もっと彼のことを理解できたと思うのです。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
シカゴ響の金管は有名でしたから、その名声はバイロイトにも轟いていたのですね。 看板指揮者が『指輪』を振りに来たのですから、DECCA がそれをライヴ録音するんじゃないかという噂があったのですが、なぜか録音には至りませんでした。 歌手か、それともオケに満足しなかったのでしょうか?
………………………………………………
田崎氏は70年代 シカゴ響に2度もピアノ協奏曲のソリストに招かれ、プロコフィエフの第3番とバルトークの第2番を弾いたピアニストです。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
「指揮者ショルティ」(2019年2月13日 ピアニスト 田崎悦子/日経) __ (抜 粋) 音楽における最大の恩師が、シカゴ響の音楽監督だった指揮者のゲオルク・ショルティだ。 私の演奏を高く評価してくれ、79年のシカゴ響の公演にソリストとして出演した。 曲はバルトークの「ピアノ協奏曲第2番」だった。

ショルティは本番前、緊張している私に向かって「明日も鳥はさえずるよ」と激励の言葉をかけてくれた。 これでどれだけ心が落ち着いたかわからない。 ショルティとはその後も交流が続き、食事などもたびたびご一緒した。 97年に亡くなったが、楽譜への忠実さは今も私の音楽の指針となってくれている。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
彼女のエッセイには ショルティとの共演に至る経緯や、オーディションの事などが綴られています (https://www.etsko.jp/essay06.html)。 これを読むと、無名時代のショルティが大指揮者トスカニーニに接した時の情景と重なって見えるようです。

2度もショルティとピアノ協奏曲を共演したのですから、レコード録音になる可能性はなかったのかと考えると、今の状況なら可能性大だが、70年代当時となると かなり難しかっただろうと想像します。

まず 70年代当時で、日本人奏者で名が売れてレコードも売れそうな人は小澤しかいなかったでしょう。 ヴァイオリンの諏訪内晶子がチャイコフスキー・コンクールで優勝したのは1990年ですから、まだまだ日本のステイタスは高いとはいえませんでした。 するとレコード会社も、あえて日本人奏者とショルティ/シカゴ響の組み合わせで企画しようとは考えなかっただろうと推測します。

また ショルティは、協奏曲録音には積極的でなかったようにも感じます。 彼は協奏曲の録音を多く残していません。 カラヤンの場合のムターのような秘蔵っ子がいたという記事も読んだ記憶がありません。

有名指揮者となったからには、共演するだけで 学界に大きな影響力を与える事ができるのですから、そうした独奏者がいなかったのは残念ですね。 推理すると、彼の心に強く響く独奏者と接する機会がなかったのでしょう。 また そういうお膳立てをする側近もいなかったとも想像します。
………………………………………………
もう一人は指揮者です。 三十代前半の藤岡氏が、亡くなる前のショルティと指揮者同士の接点があったのですね。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
「ショルティから頂いた指揮棒」(2月17日 指揮者 藤岡幸夫/日経) __ (抜 粋) 1995年初夏 ロンドン高級住宅街にある世界的指揮者の自宅を訪れていた。

私は当時 BBC フィルの副指揮者。 次の演奏会ではショルティがブルックナー1番を指揮する事になっていた。 その10日ほど前 私の指揮で同じプロをラジオ向けに録音・放送する。「ショルティのレッスンを受けて来い」と命じられたのだった。

95年秋には 同様に ショルティと同演目で R. シュトラウスの交響詩「死と変容」「ツァラ」の放送用の録音をした。「記念におまえにやる」と使っていた指揮棒を下さった。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
藤岡幸夫は関西フィルと長い付き合いがありますから、てっきり関西出身かと思っていましたが、違います。 東京都出身の58歳。

YouTube 投稿に関西フィルとの『エンター・ザ・ミュージック』なる題名の20分台のビデオ投稿が多く、テレビ番組 (BS ジャパン) を録画したものと思われますから 親しみやすい語り口で司会解説しています。

今日はここまでです。

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。