
「カラヤン帝国興亡史 ― 史上最高の指揮者の栄光と挫折」(中川友介 幻冬舎新書 2008年刊)。 レッグとカラヤン (1950年前後?)。 3つの指揮棒を持つカラヤン。
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ジャーナリストによる カラヤンの成功とその後を、発行された関連本から事実と発言を時系列に沿って書き並べ、語られてない部分は著者が想像して書いた本が『カラヤン帝国興亡史』です。
それなりに面白いです。 ただ 私のような音楽ファンが期待するような、つまり演奏内容にまで突っ込んで批評判断する書き出しはないので、やや不満が残ります。
納得したのは、戦後のカラヤンを引立ててくれた 英 EMI プロデューサーのウォルター・レッグについてです __「レッグ自身は何の楽器も演奏しなかったが、彼の耳は優れており、どうすればいいレコードになるか、演奏家に的確に指示できた」(71p) __ 戦後のレコード愛好家のレコード収集ブームを見越した人物の評論としては、最高の褒め言葉ですね。
「無名の不遇時代を経験し、政敵と戦いながらのし上がっていったタイプの人間の多くは、トップに登り詰めると 昔のことを知っている人間を遠ざけるようになる」(79p) __ これも さもありなんと思わせる "カラヤン評論" ですね。
若かりし頃のご乱行を知っている友人が、功成り名遂げた有名人に近づいていっても、疎まれて あまりいい顔をされないのと同じです。 例えば 無名時代のAさんが遊び好きでBさんCさんの尻を追いかけていたのが、Dさんと結婚したら、昔からの友人がそれらを暴露するのを恐れてDさんがいるところに友人がくるのを拒むようなものでしょう。
「ウィーン国立歌劇場を手にする前 既に BPO、スカラ座、フィルハーモニア管、ウィーン響を抱えていたカラヤンにレッグは『ヘルベルト、いかに君でも対処しきれないよ』と忠告すると、『邪魔する奴は誰だろうと …』と呟くのを妻のシュヴァルツコップは聞いた」(82p) __ 戦後 指揮を禁止され、失業していたカラヤンはレッグに見出され、レコード録音を契約する事で楽壇に復帰しましたからレッグはいわば “恩人” だったのです。
当時は ある意味 カラヤンよりもレッグが階段の上にいたのです。 しかし それから十年後の1957年にはウィーン国立歌劇場を掌握するまでになるのですから、2人は “盟友” というよりも、いつのまにかカラヤンの方がレッグよりも階段の上に立っていました。
「誰もが敬語で恐る恐る話しかけるようになっているのに、昔からの知人は気軽に呼び捨てにして話してくる。 カラヤンを “ヘルベルト” と呼ぶ人物は、かなり少なくなっていた」(79p) __ これは著者の想像だと思います。 カラヤンの周りの人は例外なく “マエストロ” と呼びかけていたのではないでしょうか。
また 1951年以降20年ほど (?) VPO はデッカ専属となり、EMI のレッグにとっては ウィーン国立歌劇場を手にしたカラヤンがレコード録音しても VPO の名称を使えませんから、有難くなかったのでしょう。 だから『ヘルベルト、いかに君でも …』といったのは、「それは EMI には何のメリットもない」が頭にあったのも間違いないですね。
「カラヤンとの契約を失ったレッグは、1963年 EMI を辞任 (事実上 解雇) してしまいます。 それをカラヤンに伝えようとしてウィーンのカラヤンのオフィスに向かい、控室で待つようにと通されたが、カラヤンに会えず、次の日も会えず、『もう三日もここで待たされているんだ』としょげている姿が目撃されています」(130p) __ カラヤンがそうしたのか、側近がそうしたのか …?
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"階段から突き落とされた大物プロデューサー" のイメージですね。 ‘70年頃にパリ管を振って EMI に復帰しますが、その時のプロデューサーはもちろん レッグではありません。 ピーター・アンドリーやミシェル・グロッツです。 グロッツはその後 DG でもカラヤンの録音でディレクターを務めるようになります。 気に入られたんでしょうね。
また 69年 ソ連の大物ソリスト3人とカラヤン BPO はベートーヴェンの三重協奏曲を EMI に録音します。 あまり人気のある曲ではありませんでしたが、話題性で結構と売れました。 日本では契約の関係で、ソ連のレーベル (下記) で発売されました。
この録音のトピックで よく出てくるのが、「リヒテルが録り直しを主張すると、カラヤンはもっと大事な仕事があるからと受け付けなかった。 それは写真撮影である」(215p) です。

ベートーヴェンの三重協奏曲録音風景とジャケット。 クラリネット奏者のザビーネ・マイヤー。
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‘80年代に「マイヤー事件」が発生しましたが (252p)、楽団側が決めた人事 (後述) にカラヤンが反対したためです。 それ以前にも 似たようなケースがあり、カラヤンが入団を求めた奏者を楽団側が拒否し、その時はカラヤンがその決定を受け入れてます。
‘70年代にも歌手のコロやバルツァとも衝突しています。 詳細はともかく これらの経緯からすると 晩年に近づくにつれ カラヤンの感覚・思考・発言に柔軟性が無くなってきたともいえますから、御大は好好爺ではなく "頑固ジジイ" になってしまった?
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外国人名の読みについて 誤記が3つあります__「クロブカルという指揮者」(97p) ですが、”クロブチャール Berislav Klobučar” でしょう。 そして「建築家ハウス・シャロウン」(139p) は、「ハンス・シャロウン Hans Scharoun」でしょう。
また「音楽評論家フリッツ・エンドー」(57p)、「音楽評論家フランツ・エンドラー」(289p) と似た名前がありますが、『カラヤンの生涯』の著者フランツ・エンドラー Franz Endler のことでしょう。 この本は校正が甘いですね。
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1981年 ザビーネ・マイヤー Sabine Meyer は BPO 首席クラリネット奏者のオーディションを受け、カラヤンはマイヤーに強い関心を示したが、BPO 楽員の総意は「マイヤーの音には、BPO の管楽器奏者にとって不可欠の、厚みと融合性が欠如している」というものであった。 カラヤンの指名で客員首席クラリネット奏者として参加したが、翌1982年晩秋の BPO 楽員全員による投票で、マイヤーの仮採用は否決された。
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ウォルター・レッグ (Walter Legge, 1906~79) は、イギリスはロンドン生まれのレコーディング・プロデューサー。
戦後彼は大成した音学家だけでなく、新人音楽家を積極的に発掘し、専属契約を結ぶことに力を入れた。 カラヤンや後に妻となるエリーザベト・シュヴァルツコップ、マリア・カラスなどとはこの時期に仕事を始めている。
レッグは戦後ナチ党員であったとして演奏を禁じられていたカラヤンのために、彼が1945年に創立したフィルハーモニア管弦楽団を提供し、レコード録音で大きな成功を収めた。 しかし 1954年のフルトヴェングラーの死とともにカラヤンがベルリン・フィルの指揮者になると、カラヤンの活動の中心はベルリンになる。 また当時の専属契約で彼はベルリンでの録音は DG (ドイツ・グラモフォン) でしかできなくなった。 レッグはカラヤンに代わり 当時実力に見合ったポストに恵まれなかったオットー・クレンペラーに白羽の矢を立て、この巨匠による最良の演奏記録を残すことを1954年から開始した。
その後 EMI はクラシック音楽の事業予算を削減し始めたため、また彼の完全主義が社内での対立を生んでいたこともあり、レッグは1963年に EMI を去ることを決意した。
レッグは演奏記録を完全なものに近づけるため、新人だろうと巨匠だろうと自らの音楽的信念に基づき、忌憚無く意見を述べ、助言し、鼓舞して演奏家の最高の資質を引き出そうとした。 トスカニーニに彼の録音のいくつかについて意見を求められたとき、レッグが率直な批評をしたため、この大指揮者はレッグを評価するようになり、後にロンドンでレッグが率いるフィルハーモニア管との演奏会も実現したのである。
レッグは、完全主義者であったが、それを支える優れた音楽の理解力と批評能力を持っていた。 彼は自分が演奏家になれるとは思わなかったが、優れたレコードやコンサートを聴いて自分の耳を鍛えた (ウィキペディアから)。
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今日はここまでです。