
『知への旅 名指揮者 ショルティの生涯』(1997 BBC https://www.youtube.com/watch?v=FmV-9NJYcbw) ~2019/10/24 投稿から、右はその中のショルティ一家の映像。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ハンガリー生まれ イギリス国籍の指揮者サー・ゲオルク・ショルティ Sir Georg Solti (本名 ジョルジ György 1912~97) の伝記を英 BBC が特集した映像ものを YouTube で見つけ、見てみましたが、殆ど既知の内容で、新たな事実はありませんでした。 生まれた時は Solti ではなく Stern シュテルンだったそうで、ユダヤ系と判ります。
丁度ショルティ自伝本も読み返しているところですが、映像断片にはその指揮ぶりが出てきますから、私にいわせると 彼の指揮スタイルは “忙 (せわ) しない” のひとことですね。
あんなにも激しく両腕を振り回す必要はないと思うのですが、それは個性であり 彼のやり方です。 想像するに ユダヤ系という出自から、戦前 なかなか歌劇場で指揮する機会を与えられなかった境遇で、何とか指揮者として認められたいという願望が強く、それが強い身振りになったのではないでしょうか。
戦時中 ザルツブルクでのトスカニーニとのツテを頼りにスイス入りしましたが、米国に来れば世話しようというマエストロの善意の発言を受けて、米国入国のビザを求めますが 米領事 (※1) の冷たい仕打ちで希望を果たす事ができません。
けれど 結果的には “それが良かった” と本人が自伝でいっています __ 米国へ行っても亡命音楽家が溢れている中で指揮者として何の実績もなかったから、そこで頭角を現すのは難しかったはずだと。 スイスでは歓迎されない外国人として排斥されかかったが、ピアノ・コンクールで優勝したり 友人に助けてもらったりして戦中を生き延びます。
………………………………………………
戦後は ドイツ人指揮者が殆ど全て “お払い箱” になった、その間隙を埋めるようにして、最初 バイエルン国立歌劇場監督、次いでフランクフルト国立歌劇場監督を務め、地歩を築いていきます (バイエルンに比べるとフランクフルトは実は格落ちです)。
その間にミュンヘンの『ワルキューレ』(1950) 公演に接した英デッカの新米プロデューサーのジョン・カルショーと知り合い、『指輪』4部作の録音を話し合ったりしています。
まず VPO と録音した『ワルキューレ』第3幕録音で名を挙げます (=売れた)。 続く全曲録音では デッカは当初 クナッパーツブッシュ指揮で考えていたらしいのですが、クナとカルショーとは噛み合わず 第1幕録音を残したのみで、カルショーが急遽企画した『ラインの黄金』全曲録音 (※2) の機会がショルティに転がり込みます (当時 ウィーン国立歌劇場で『指輪』を上演していたカラヤンが嫉妬したとも … 当然でしょう)。
デッカ経営陣は4部作録音を当初 考えていなかったのを、カルショーは「カラヤンが DG で録音したら手強いライヴァルになる」と経営陣にハッタリを噛ませ、残り3作録音に漕ぎ着けます。 この4部作録音が評判になり、ショルティの株が更に上がります。
その後のショルティの活躍は皆さん ご存じの通りです。 シカゴ響とのマーラー交響曲全曲録音も成し遂げ、ワーグナーとマーラーでは代表的指揮者といってもいいくらいの評価を獲得します。
ただし カルショーはマーラーとは “相性” が悪かったらしく、初期の4番 (コンセルトヘボウ管) と1番 (ロンドン響) に絡んだ以降は 別のプロデューサーにまかせました。
………………………………………………
古典派作品 例えば ベートーヴェンの指揮は向いてないと、はっきりカルショーが述べています。 ※2) 時期に VPO と3・5・7番を録音しましたが、VPO がショルティを嫌ったそうです。
シカゴ響を振ったブラームス1番の指揮ぶりを冒頭映像の中で見たら 必要とされる一瞬の休止がなく (?) 連続した演奏で、これはドイツ系指揮者とは違うと感じました __ もっとも これは好みですから。 私は彼のシカゴ響『英雄』LP は買ってみましたが、他のベートーヴェン・ブラームスは買う気が起こりません。
また 建物内を歩く (85歳の?) ショルティの映像を見ると 残念ながら 体が硬くなった80代の老人そのものです (それが普通といえばそうですが)。 彼の人生を振り返ると チャンスを得るまで諦めず、目前にころがってきたチャンスには飛びついて何とかものにしてしまう、強烈な不屈の精神だと思います。 それが彼に幸運をもたらしたのでしょう。
………………………………………………
おまけのエピソードとして 彼の2度目の結婚 他について __
「イタリアの別荘にいた頃 米国人のカメラマンが写真を撮りにやってきた。 名前を聞くと、※1) の息子だった」(『ショルティ自伝』)
「最初の妻 ヘディと別居後の1964年に ホテル暮らししている頃、BBC のインタビューでヴァレリーがサヴォイ・ホテルまでやってきた。 互いに一目惚れだった。 私たちはすぐに一緒に暮らしたくなったが、どちらも既婚者同士だった。
25歳差など 障害は大きかったが、私は絶対に諦めなかった __ ヴァレリーとは1967年に結婚した」(同 176~7p)
ここにも 目前にころがってきたチャンスには飛びつき、ものにしてしまう、強烈な "不屈の精神" を見る事ができますね。
今日はここまでです。