上段は1958年録音の3・5・7番、中央はテープ・リール風デザインの CD、右はショルティとカルショー、下段左は7番 LP ジャケ、中央は奮闘指揮するショルティ、右は『運命』とメンデルスゾーン『イタリア』(1990、93年ライヴ)。 全て VPO。
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ハンガリーに生まれ スイス亡命を経て西独国籍を取得後、イギリス国籍となりフランスで亡くなったショルティですが、大昔の VPO とのベートーヴェン録音が CD で復活して発売されているんですね (ネットサーフィンで見つけました)。 冒頭の “Legends” (伝説) と銘打った CD ジャケです。 24ビット・96kHz のリマスターもやってますとも。
また 32年後の同じ VPO との5番ライヴ録音も発売されています。
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1958年録音の3曲は、ワーグナーの楽劇『ラインの黄金』と並行して録音されました。 しかし この時 演奏した VPO はショルティを “嫌った” とプロデューサーのカルショーが自著の中で述べています。
私は上記にある1958年の演奏を聴いた事はありませんが、想像は出来ます __ ショルティが自分流の解釈で VPO を演奏させようとしたのでしょう。
しかし VPO は長い伝統があってベートーヴェンを “腐るほど演奏” してきたので、ショルティという それまでほぼ無名の指揮者の激しい指揮ぶり (下段中央のような?) にうんざりしながら いやいや演奏して録音に付き合ったのだろうと想像します。
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「ショルティも一連のワーグナーのオペラ録音では良い仕事をしているし、VPO のメンバーも、ショルティのもとでレコードの出来が良い事は認めている。 要するに虫が好かないらしい。 ショルティの音楽にはアルバイテンはあるがムジツィーレンはないという」(大町陽一郎 著『楽譜の余白にちょっと』81p)
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musizieren とはドイツ語で、日本語にはない言葉ですが「音楽する」という意味だそうです。 気に入らない指揮だから “いい加減な演奏” になっているかと推理しても レコードに VPO の名前が載るのですから、そうはしないと思います。 玄人筋 (くろうとすじ) や判る人にだけ判るような、”気合の入らない演奏” なんでしょうね。
1990年のライヴ演奏も未聴ですが、聴いてみたいという気をそそるものには思えません。
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ショルティも自伝で述べています __
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「1951年にザルツブルク音楽祭で VPO を指揮し、初めて衝突した。 ドレス・リハーサルでコントラバス奏者が初めて顔を出した。 これまでのリハをすっぽかして、ちゃんとした演奏などできるはずがないと叱った。 リハが終わると彼がいった『私は VPO の主席コントラバスです。 あなたに文句をいわれる筋合いはない。 どう考えたって 私の方が上なんですから」(『ショルティ自伝』112~13p)
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1951年 ショルティは39歳ですから まだ血の気が盛んだった時期なのでしょう。 私は音楽家ではないですからオケを指揮した事もありません。 けれど 百人もの集団ともなれば、いろいろな事情の奏者もいるのは理解できます。
病気とかヤボ用 (夫婦喧嘩していたとか 家族の急病で病院に行ったとか) でリハに来れない・遅刻するなど 全員がきっちり時間通りにリハに参加できない事情もあると思います。 それを一々叱らず ユーモアかジョークでやり過ごす余裕が、まだなかったのでしょう。
『アラベラ』(1957) の LP と『魔笛』(1969) LP から。
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「『アラベラ』録音の時は残念ながらオケとうまく折り合えなかった。 正直いって ウィーンで壁に突き当たった原因は私自身にもあった。 45歳になっていたとはいえ、指揮経験は11年しかなく それも二流オケが殆どだった。
一流オケとの仕事に不慣れな指揮者は、自分の力を誇示するのに精一杯で、オケがひとりでに作り出せるいいものを聴き取ろうとしない。 まず最初にすべきは、あらゆる部分で自分を押し付ける事ではない。 何よりも先ず “聴く” 事が肝心なのだ」(同 137~38p)
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レコード会社が録音のために連れてきた指揮者を見る世界有数のオケと、ほぼ無名の指揮者の関係が見えるようです。 無名指揮者の方も “一流オケにナメられまい” と必死で向き合ったのではないでしょうか (別の表現だと マウントの取り合い?)。
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「長い間 VPO は、私に対して “俺たちの方が上だ” 的な態度を取り続けた。 関係が最悪になったのは、1972年に『魔笛』のためにリハをしていた時だ。 第1 Vn の一人が、途中でふいに立ち上がり、”こんな事はもうごめんだ” といって出ていってしまった。 過去に感情的なもつれや考え方の違いはあったが、VPO と私は素晴らしい録音を数多く行った」(同 139p)
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VPO から好かれていなかった (?) ショルティは長い間 VPO の定期演奏会に招かれなかったと思います。 あれだけ有名な指揮者なのに、と解らなかった理由がこれなんですね。 でも冒頭写真にもあるように、やっと90年代になって登場したらしいですね。 それとニューイヤーコンサートにも登場してません (もっとも ショルティ指揮の “優雅なウィンナ・ワルツ” は想像もできませんけど)。
今日はここまでです。