国分寺物語展で、飛騨国分寺(高山市)に三重塔が、備中国分寺(岡山、総社市)に五重塔の写真を目にしました。
武蔵国分寺には、七重塔がありましたが、分倍河原の合戦(1333年、新田義貞vs鎌倉幕府軍)で、消失しました。
その模型がつくられています。写真は、府中市の建設会社前に置かれていたときに撮りました。二十分の一でしょうか。
なお、展示会場には、二百分の一の模型が展示されていました。
東大寺(総国分寺)の七重塔は、高さは百メートルくらいだったとか。武蔵国分寺も、礎石から同規模と推定されています。
上記の三重、五重の塔は、文政以後(1820-40頃)に再建されたもので、本来は七重塔でした。
武蔵国分寺には、七重塔がありましたが、分倍河原の合戦(1333年、新田義貞vs鎌倉幕府軍)で、消失しました。
その模型がつくられています。写真は、府中市の建設会社前に置かれていたときに撮りました。二十分の一でしょうか。
なお、展示会場には、二百分の一の模型が展示されていました。
東大寺(総国分寺)の七重塔は、高さは百メートルくらいだったとか。武蔵国分寺も、礎石から同規模と推定されています。
上記の三重、五重の塔は、文政以後(1820-40頃)に再建されたもので、本来は七重塔でした。
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