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台湾 台北 訪問紀 その2

2006年11月18日 | 団塊世代


台北市内中心部に228記念公園がありました。行ったときは幼児の
音楽発表会が行われていて、まさに「平和」を絵に画いた風景が広がっていました。名前の228が妙に引っかかり、いろいろ調べてみました。

目の前の「平和」にいたるまで、どんな道のりがあったのか。
記念碑と背景の高層ビルが二つの歴史を語っているようでした。

(大分日日新聞の 高 明さんのブログが大変参考になりました。
  ありがとうございました。以下その一部です)

台湾228事件

1945年、台湾が解放されて大陸から進駐してきた「祖国」の国民党
政府と国民党軍の台湾人に対する暴虐圧政は目に余るひどさだった。
官公庁の主要ポストはすべて大陸からのものが占め、軍隊による台湾人への
強姦、略奪、強盗殺人などは日常的で、台湾の特産品の米はほとんど大陸
へ運び出された。それまで豊かだった台湾で、餓死するものが出るようになった。
規律正しい日本軍が去って国府軍が来たことを、台湾人は
「犬が去って豚が来た」といった。犬は「番犬」になるが豚は「貪り食う」だけ。

台湾人の国民党政府、軍に対する怒りは暴発寸前までになっていた。
国民党軍進駐の翌々年の1947年2月27日、台北市で闇煙草を売っていた
老婆が警官に暴行(後に死亡)され、これに抗議した群集に警官が発砲、
市民の一人が射殺された。

これが発火点となって、台湾全島に反乱、暴動が広がっていった。
「228事件」の始まりである。
翌28日、台北市では台湾人が放送局を占拠し、台湾全土に決起を訴えた。
これに呼応して、暴動は全島に広がり、台湾人は怒りをたぎらせて大陸から
やってきた「外省人」に暴行を加えた。
外省人を区別するのに、日本の歌を歌わせたという。歌えないものは
外省人というわけだ。
ただし、殺すことはせずもっぱら暴行を加えるだけだったという。

大陸の国民党政府は、共産軍と内戦の最中で、敗戦が続いていた。
国民党政府は、最後の砦となる台湾の状況の悪化に驚き、鎮圧部隊を
台湾に送り込み、島内各地で台湾人の虐殺を繰り広げた。
国民党軍と話し合いを続けてきた台湾人の代表委員はほとんど殺害
された。だまし討ちにあったのだ。
台北駅の西にある台湾鉄路局のベランダからの機銃掃射で、多くの市民が
バタバタと倒された。

暴動に関係ないものでも、台湾人であるということだけで、その場で手足を
縛られて射殺された例もある。
基隆市では、多くの台湾人が手のひらに針金を通されて射殺され、そのまま
港の海に投げ込まれた。
もっとも暴動が激しかった南部の嘉義市の駅前では、たびたび公開処刑が
行われた。

私が少年時代によく遊んだ台南駅前の広場でも、公開処刑が行われた。
この暴動は日本の新聞でも「南京発」の情報として報じられた。
李登輝・元総統も、身の危険を感じて一週間ほど山中に身を隠していたという。
反乱の掃討戦は一ヶ月ほどで終わり、台湾各地に血の跡を残し、台湾人と
大陸人(外省人)との間に、深い溝ができてしまった。

ところが、国民党政府の弾圧は、これだけでは収まらなかった。
この事件を契機として、日本時代の台湾人インテリを対象にした「虐殺」が
始まった。「白色テロ」である。
突然逮捕され、身に覚えのないことで裁判もなく処刑されるものが相次いだ。
台湾大学のキャンバスに、針金でぐるくる巻きにされた射殺死体が捨てられて
いた。文字通り「暗殺」である。こんなことが珍しくなかった。
台湾人は恐怖のため、夜も安心して眠れない状況に追い込まれた。

李登輝・元総統が、故司馬遼太郎氏との対談で「かつてわれわれ70歳代の
人間は夜はろくろく寝たことがなかった」といっている。
大戦中の軍部独裁といわれる、わが国の治安警察(特高警察)と憲兵による
圧政下でも、国民に不安を与えることはなかった。
それはいまの台湾からは想像もつかない「恐怖の時代」であり、それを体験した
人々が現在も生きているのである。

2006年10月21日
 228記念公園にて
  笠原 道夫


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