*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。11回目の紹介
被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎
はじめに
私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。
私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師 として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかったからです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされて いません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。
だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。
----------------
**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介
前回の話:『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※10回目の紹介
逃げるわけにもいかないので、その男の人のそばにひざをついてしゃがみました。男は横たわったまま、獣のように食いつきそうな目で私を見るのです。でも身動きはできない。さわってやろうにも、上半身は皮膚がむけて血みどろのうえに埃まみれだから、コールタールをつけたように黒い。のどが焼けただれているのか、呼吸も苦しそうでした。ところがいま思い出すと、左の頬が少し焼け残っていて白かったのです。なんの気もなしに、私は右手を開け残った頬にそえました。すると、いままでカーッとおそろしく光らせていた目から、スーッと光がなくなって優しい人間の目になった ー 。その途端に、その人はカクンと頭を落として亡くなりました。
地獄のようにおそろしい状況で、私が手を触れたのが慰めになったのでしょうか。安心したように、人間らしく死んでいった ー 。私にはそう思えました。いまでもこの人の夢を見ます。
こうして校庭や道路にところかまわず転がっていた負傷者たちが少しずつ整理されて、心づくしのムシロの上に横たえられていきました。しかし、ムシロの上で多くの負傷者が死者にかわり、青竹の担架で運ばれ火葬される。そのあとはすぐにまた新しい負傷者で埋まりました。
私たち4人の軍医は、ともかく応急手当をしました。ですが、とても手当なんて言えるものではありません。乱暴そのものです。ガラスの破片が体のほうぼうに刺さっている患者から、三角に割れたガラスのとがった先が皮膚の下をクルッとまわって刺さっているのを、せまい入り口から抜き取るのは大変な仕事でした。切れた傷口は縫わねばなりませんが、道具もないので、一時は縫い針を火で焼いて、ヨードチンキにひたした絹糸を通し、やっと縫い合わせたりしました。使えるかぎりの資材をかき集めて、止血、縫合、ガラス片の除去、創傷治療など、私たちは休む間もなく治療に没頭しました。
火のついたように泣き叫ぶ4,5歳くらいの男の子は、どこにも火傷はなかったものの、丸裸の腹に大きなガラス片が突き刺さり、傷口からあじさいの花のように内蔵が飛び出していました。泥まみれになった内臓に腸管(小腸や大腸のこと)がないことを確かめてから、その根本をしばり、切断。泣く声もかれて意識を失った男の子を、村人の一人が自分の家へ引き取っていきました。
(次回に続く)
※続き『被爆医師のヒロシマ』は、9/10(木)22:00に投稿予定です。
![]() |