*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。13回目の紹介
被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎
はじめに
私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。
私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師 として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかったからです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされて いません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。
だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。
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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介
前回の話:『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※12回目の紹介
6 未知の症状で死んでいく被爆者
8月8日の朝、四国や九州の部隊から、薬をたくさん持って、看護婦や衛生兵をたくさん連れて、元気のいい軍医たちが広島に応援にやってきました。戸坂村にも応援部隊がきてくれて、私たちを含めて27人の医者、100人の看護婦で治療にあたるようになりました。村の記録によると、広島から戸坂村に逃れてきた被爆者は2万7千人にのぼったそうです。
私たちが「この人はもうダメだ」と見放さざるをえなかった重傷者の大半は、2、3日のうちに亡くなりました。ですが、3日をすぎるころには、どんなに火傷を負っていても、どんなケガをしていても、なんとか治療をつづければ、助かりそうな人たちが残るようになりました。これからは医者の働きどころだと、大いにはりきった矢先、生き残った負傷者のなかから、不思議な症状の急病があらわれ始めたのです。
9日朝から、100人の看護婦たちが、村中に散らばって寝ている負傷者たちたちを診てまわりました。重傷者がいるのを見つけては、大声をあげて軍医を呼びます。
「軍医殿、熱が出てます」と呼ばれたので行ってみると、若い兵士の患者が汗をかいてポッポッと湯気を出すほど発熱しています。体温計で測ってみると、40度をこえていました。この患者は顔と左上半身にひどい火傷があり、脱水症状が強く重傷ではあったものの、命の危険があるとは思われなかった人でした。前日には笑顔を見せて冗談が言えるくらいだったのに、1日で症状が激変したのです。
高熱が出たというと、私たちは経験からマラリアと肺炎を疑います。また、広島はチフスの発生地で有名でしたから、チフスではないかとも疑います。チフスだったら感染が村全体に一気に広がって大変なことになります。
しかし、この患者を診ると、どうもチフスではないようです。野外で寝ていたからカゼでもひいたのだろうと思い、口を開けて扁桃腺を見ることにしました。患者が苦しそうに横向きになって、ほっぺたを地べたにくっつけ、足を縮めて丸くなっているので、私もはいつくばります。農家から借りたおさじを使ってようやく口をこじ開けると、うわーっと顔をそむけるくらい、ものすごい臭いがします。腐敗臭です。カゼなどでは普通、扁桃腺が真っ赤になっていますが、この人は真っ黒で壊疽、つまり腐り始めていました。まだ生きているのに、身体の組織が腐っているのです。
(次回に続く)
※続き『被爆医師のヒロシマ』は、9/15(火)22:00に投稿予定です。
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