原発問題

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『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※9回目の紹介

2015-09-07 22:00:00 | 【被爆医師のヒロシマ】著者:肥田舜太郎

*『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 を複数回に分け紹介します。9回目の紹介

被爆医師のヒロシマ 肥田舜太郎

はじめに

  私は肥田舜太郎という広島で被爆した医師です。28歳のときに広島陸軍病院の軍医をしていて原爆にあいました。その直後から私は被爆者の救援・治療にあた り、戦後もひきつづき被爆者の診療と相談をうけてきた数少ない医者の一人です。いろいろな困難をかかえた被爆者の役に立つようにと今日まですごしていま す。

 私がなぜこういう医師の道を歩いてきたのかをふり返ってみると、医師 として説明しようのない被爆者の死に様につぎつぎとぶつかったからです。広島や長崎に落とされた原爆が人間に何をしたかという真相は、ほとんど知らされて いません。大きな爆弾が落とされて、町がふっとんだ。すごい熱が放出されて、猛烈な風がふいて、街が壊れて、人は焼かれてつぶされて死んだ。こういう姿は 伝えられているけれども、原爆のはなった放射線が体のなかに入って、それでたくさんの人間がじわじわと殺され、いまでも放射能被害に苦しんでいるというこ と、しかし現在の医学では治療法はまったくないということ、その事実はほとんど知らされていないのです。

 だから私は世界の人たちに核 兵器の恐ろしさを伝えるために活動してきました。死んでいく被爆者たちにぶつかって、そのたびに自分が感じたことをふり返りながら、被爆とか、原爆とか、 核兵器廃絶、原発事故という問題を私がどう考えるようになったかということなどをお伝えしたいと思います。

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**『被爆医師のヒロシマ』著書の紹介

前回の話『被爆医師のヒロシマ』著者:肥田舜太郎 ※8回目の紹介

5 直後の戸坂村、被爆者救援に奔走する

  3時間ぐらいかかったと思いますが、ようやく見覚えのある堤防の階段をあがり街道に出ると、戸坂村はおしよせる被災者でいっぱいで、私は度肝をぬかれました。

 村の大部分の家は、原爆の爆風で屋根が飛ばされたり、倒れたりしていました。倒れた家のなかでなくなった村人もいます。まともな家などほとんどありません。村の人たちはみんな家の外に出て、田んぼのあぜ道に呆然と立っているような状態です。

 そこに、広島からつぎつぎやってくる血みどろの負傷者の群れが、道路とか農家の軒先の空き地、学校の校庭や役場の広場など、乾いた土の上は見るかぎり、足の踏み場もないくらいぎっしりと横たわっているのです。あとから来た人は、寝ている負傷者、死んでいる人の上を乗り越えて、さらに奥へ行こうとしています。みんな顔が焼けていて、人間らしい顔をした人は誰もいない ー 。どこの誰だかぜんぜんわからない。なんと言いますか、地獄としか言いようがありませんでした。

 すでにお話ししたように、戸坂小学校では陸軍病院の戸坂分院を開く準備が進んでいました。原爆が落とされるとは思いもよらないことでしたが、8月2日には軍医3人をふくむ分院の要因が村に到着しています。その軍医3人と、広島からもどってきた私とで、なんとかしなくてはと話し合うわけですが、どうしていいか考えがつかないのです。小学校の校舎はやはり爆風で崩れ落ち、校庭は被災者であふれかえっていました。

 「いま、私は広島まで言ったけれども、広島からこの村に何万人もの人が逃げてくるよ。私たちは否応なしにその面倒を見なくてはならない。村の人を集めてむかえる準備をしなければならない」と言って、私がまずとりかかったのは食事の準備でした。軍医学校で戦地での軍医の仕事を習ったとき、「一度に大量の患者を収容したときは、治療よりもまず食事のことを考えろ」と教えられていたからです。

(次回に続く)

続き『被爆医師のヒロシマ』は、9/8(火)22:00に投稿予定です。

 

被爆医師のヒロシマ―21世紀を生きる君たちに


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