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【 平家物語 重衡生捕 】
本三位中将重衡は生田の森の副将軍であったが、軍勢は皆逃げ主従2人になられた。源氏の梶原源太景季(げんたかげすえ)と四郎高家(たかいえ)は、重衡を見つけ追っかけた。
重衡は、後ろから敵が追ってくるので、湊川、刈藻川(かるも)を渡り、蓮の池を右手に見て、駒の林を左手に、板宿、須磨も通り過ぎ、西に向かって逃げた。追っての源太景季は、追いつかないので弓を放ったら重衡の馬の三頭(さうつ)に当たった。家来の後藤兵衛盛長は、重衡の馬が弱ってきたのを見て、鎧につけていた平家の赤印を捨て逃げてしまった。
重衡は、もう最後と思い馬から下りて兜をぬぎ、腹を切ろうとなさった。そこに、四郎高家がかけつけ、
「それはいけません」と自分の馬に乗せて味方の陣に帰っていった。
後藤兵衛盛長は、逃げ延びた。重衡の乳母子(めのとご)であったので、上京したさいに「恥知らずの
盛長よ。重衡と一緒に死にもせず」と非難されたので、扇で顔を隠したと言うことである。
※・三頭とは、馬の尻のほう。
・重衡の逃げた地名は今も残っており東の砦:生田の森から海岸沿いに西の砦: 一の谷近くまで来た。
「恥知らずの盛長よ。重衡と一緒に死にもせず」と非難されたので、扇で顔を隠したと言うことである。
昔は、武士たるもの生きるのも死ぬのも時と場所を選ばなくてはいけなかったのですね・・・
ここへ行った暑い日のことを思い出しました。
やっちゃんさん、それは細川茂樹さんですよ。仮面ライダー響です!
だから、生き延びた人は後世までも笑われる。
「生きる権利」があたりまえの現代人から見れば、何か気の毒です。
訪問とコメントありがとう。
主従関係は、いまよりずーっと厳しかったのでしょう。
武士は「正々堂々と闘う、義理人情を重んずる、生きて恥を晒すなら死を選ぶ」と言われていますが、平家物語の中には、そうでない箇所かいくつかありますね。