源平の史跡を訪ねて

全国いたるところにある源氏と平家の史跡を訪ねています。少しだけ源氏物語の史跡も紹介しています。

平忠度最後

2006-02-13 02:06:11 | 一の谷の合戦
忠度の塚(兵庫県神戸市)   左:腕塚               右:胴塚 

【 平家物語 忠度最後 】
薩摩守忠度(ただのり)は、一の谷の西の手の大将軍であったので、百騎ほどの家来に囲まれて馬を引きとめ引き止めしながら落ち着いて退いていかれた。
それを源氏の岡部六野太忠純(ろくやたただずみ)が見つけ馬を並べて組付いた。それを見た百騎程の家来は、我先にと逃げてしまった。
熊野育ちの忠度は、大力であったので六野太に三刀をあびせ取り押さえて首を切ろうとされたところへ、六野太の家来が駆けつけ、忠度の右腕を斬り落とし、六野太が後ろから首を討った。

大将軍と思ったが誰とも名乗られなかったが、箙(えびら)に結び付かれていた文を読んでみると「旅宿の花」という題で歌が読まれていた。
ゆきくれて 木のしたかげを やどとせば 花やこよひの 主ならまし
(旅路に日が暮れ、桜の木の下を一夜の宿とすると、花が今夜の主人となってもてなしてくれるであろう)

武芸にも歌道にもすぐれた薩摩守忠度と分かったので太刀の先に首をさして
「平家の名高い薩摩守を六野太忠純がお討ちもうした」と大声をあげた。

※忠度の塚は、兵庫県明石市にもあります。
 箙(えびら)とは、矢を入れて背に負う道具

越中前司最後

2006-02-09 02:37:26 | 一の谷の合戦
【 平家物語 越中前司最後 】

越中前司盛俊は、山の手の侍大将であったが、今は逃げることもできないと馬をとどめて敵を待っていると源氏方の小平六則綱(こへいろくのりつな)が良い敵を見つけたと追ってきて、組みつき馬から落ちた。則綱は、盛俊に抑えられ首を切られようとした。
則綱 「卑怯です、降伏した者の首を切ろうなどとは」
盛俊 「それでは助けよう」
    そして、二人は畔に腰掛けて休息した。そこへ、武者一騎が来た。
則綱 「あれは、人見の四郎と申す者です。気にすることはありません」
盛俊は、近づいてくる敵をじっと見つめていた。そのすきに、則綱は、「えい」と叫んで盛俊の胸板を突き、水田に仰向けに倒した。そして、盛俊の刀を抜き三度刺して首をとった。則綱は、太刀の先に首を刺し高くさしあげ、
「平家の侍越中前司盛俊を、猪俣の小平六則綱が討ち取ったぞ」
と大声をあげた。

※盛俊はちょっとした油断をつかれ、助けてやった則綱に卑怯にもだまし討ちされてしまった。戦闘の非情さが書かれているが、盛俊にとっては不覚のいたりだったろうと思われる。    

北門の砦

2006-02-04 01:19:44 | 一の谷の合戦
【 平家物語 老馬 】
平家軍の統率者:宗盛が平家の公達に「義経が三草の軍を攻め落とし我が軍に乱入しようとしている。山の方面(鵯越方面)は重要だ。おのおの方、向かわれよ」
みな辞退したので能登守教経(のりつね)に使者をたてた。
教経 「教経がお引き受けし打ち破りましょう。ご安心ください」
宗盛は大変喜び、越中前司盛俊(もりとし)、教経の兄:越前三位通盛(みちもり)と一万余騎の兵をつけて山の手を固められた。山の手とは、鵯越のふもとである。

通盛は北の方を迎え最後のなごりを惜しまれた。
能登殿はたいそう怒って「この方面の敵は、手ごわいでしょう。今にも敵が山の上から攻めてきたら武器を取る間もないでしょう。そんなときにそのようにうちとけておられたのでは、役にたちません」と諌められた。通盛は、急いで武具をつけ北の方を帰しました。

※鵯越の町名が今も残っています。
 通盛は、山の手の大将軍でした。
 北の方は、のちに通盛の死を知って身投げした小宰相(こざいしょう)です。

東門の総大将 平知盛

2006-02-02 01:53:14 | 一の谷の合戦
ここからは、平家の大将クラスの戦いぶりや討たれた場面の記述を掲載します。
写真は、下関みもすそ公園にある平知盛像のシルエットです。

【 平家物語 越中前司最後 】
(この巻の書き出しに、知盛について書かれています。)

新中納言平知盛は東門:生田の森の総大将であった。
山の崖から攻めてきた児玉党(源氏側)の使者が
「あなたは、むかし武蔵の国司をしておられたので児玉の者どもが申し上げるのです。
後ろを御覧になってください。」と申した。
新中納言が後ろをふりかえると黒煙が立ち上っていた。
「ああ、西の陣は破れたか」
と言うが早いか我先にと逃げた。

※平知盛は後に、壇ノ浦の合戦の総大将を勤めました。


源氏軍 一の谷攻撃の図

2006-02-01 02:55:50 | 一の谷の合戦
【 平家物語 老馬 】

6日の明けがた九郎御曹司は一万余騎を二軍にわけて、
土肥二郎実平に七千余騎を与え一の谷の西の方面に向かわせた。
義経は三千余騎で、一の谷の背後の鵯越を攻め下ろうと平家の陣の後方にまわられた。

源氏軍の本体は、総大将:源範頼が五万余騎を引きつれ東の砦:生田の森に近づいた。

※「坂落し」が鵯越で行われた説を元にした図です。  

梶原の二度の駆け

2006-01-31 01:32:53 | 一の谷の合戦
【 平家物語 二度之懸 】
梶原平三景時は、河原兄弟が討たれたと聞き、「今は機が熟した。攻めよ」と命じ5百余騎が一度に喊声をあげて平家の大軍の中へ進撃し、さんざんに闘い、敵軍の中からさっと引いた。その時、長男源太景季がいなかった。

「どうした源太は」 「敵陣に深入りしてお討たれになったのでしょう」
「源太が死んでは生きてる甲斐がない、引き返せ」と景時は敵陣の中へとって返した。
平知盛 「梶原は東国で名高い兵ぞ、討ち取れ」
平三景時は、現太を探すため敵の大軍の中を縦、横、八方、十文字に駆け巡った。
源太は2丈ばかりの崖を後ろにして敵5騎のなかにとりかこまれわき目もふらず、命をおしまず、ここを最後と闘っていた。
梶原は、これを見つけ「源太、死んでも敵に後ろをみせるな」といって、親子で敵三人を討ち取り2人に傷を負わせた。

梶原平三景時「弓矢とりは攻めるも退くも状況によるのだ、さぁこい源太」
といって現太をかかえ馬にのせ、敵陣を出たのである。

※写真は「梶原の井」で別名「かがみの井」とも言われ、梶原景時がこの井戸の
 水を飲んで生田の神に武運を祈ったと言われています。

東の砦 先駆け

2006-01-28 02:06:13 | 一の谷の合戦
【 平家物語 二度之懸 】
2月7日、大手軍の攻める生田の森に源氏軍5万余騎が陣取っており、その中に河原太郎、
次郎の兄弟がいた。
太郎 「俺は城内にまぎれこんで一矢を射掛ける、千万に一つも生きて帰れないだろう。
    次郎お前はここに残れ」
次郎 「くやしいことを言われる。別々の所で討たれるよりも、一つ所で討ち死にしましょう。」
そして二人は城内に入った。
太郎 「武蔵国の住人、河原太郎私市高直、同次郎盛直、源氏大手の先陣ぞ」
  ・・・・・・・
それを見た平家側から矢が放たれた。太郎は、鎧の胸板を背後まで射抜かれた。
弟の次郎が走り寄って肩にひっかけ逆茂木を越えようとしたが、平家の二の矢に射られ倒れたところを首を取られてしまった。
平知盛 「ああ りっぱな剛の者よ。これこそ一人当千の兵というべきだ」

そして、東の砦:生田の森の戦いが始まった。

※写真は、河原兄弟を祀った「河原霊社」です。

東の砦アタック(生田の森)

2006-01-26 18:47:17 | 一の谷の合戦
2月7日は、源氏軍が一の谷に本拠を置く平氏軍に総攻撃をかけた日です。

【 平家物語 老馬 】
源氏は生田の森に近づいた。雀の松原、御影の杜、昆陽野の方面を見わたすと源氏の軍勢は陣を構え遠火を焚いている。
平家の側でも「遠火を焚け」といって生田の森で遠火を焚いた。
源氏軍は、あちこちで陣をとって馬に馬草をあたえたりして休息をしている。
平家側では、今攻めてくるか今攻めてくるかと心安らかではなかった。

※雀の松原 神戸市東灘区魚崎町の海岸にあった松原
 御影の杜 雀の松原ノ西に位置する

 写真は生田森、現在ノ生田神社にその面影を残している

敦盛最後 (敦盛塚)

2006-01-21 00:58:04 | 一の谷の合戦
【 平家物語 敦盛最後 】
一の谷の合戦で破れた平家は、海に浮かぶ船に逃れようとした。その中にいた敦盛は熊谷次郎直実に捕らえられ首を討たれる(生年17歳)。熊谷は、討った敦盛の首を包もうとしたが、錦の袋に入れた笛を見つける。

熊谷  「いたわしい。城の中で管弦をなさっておられたのはこの人だ。今、味方の東国の軍勢が何万騎かおるが、戦陣に笛を持ってきた人はおるまい。身分の高い公達は、やはり優雅なことよ」と言い、この笛の一件が熊谷が仏門に入る原因となった。

敦盛塚石造五輪塔は、室町時代後期~桃山時代にかけて製作されたと思われている。
高さ:4M。別の説では、●北条貞時が平家一門の冥福を祈って、弘安年間(1278~1288)に建立したとも言われています。●敦盛供養のために建てられ、須磨寺に首が埋葬され、胴が埋葬されたのがこの敦盛塚だとも言われています。