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経俊の墓(鎮守稲荷境内) 師盛の墓(石水寺)
【 平家物語 落足その2 】
備中守師盛(もろもり)は主従七名で小船で逃げようとしたところへ新中納言の家来:清衛門公長(せいえもんきんなが)が「お乗せください」と申し出たので船を渚にこぎ寄せた。大の男が鎧を着たままでがばっと飛び乗ったので船はぐるっとひっくり返ってしまった。そこへ、源氏方の畠山の郎党:本田次郎が一四~五騎で駆けつけ熊手で引き上げ師盛の首を斬ってしまった。生年14歳であった。
東西の城門での合戦は、2時間をこえるくらい続いた。矢倉の前、逆茂木の下には人馬の死骸が山をなし、一の谷の笹の原は、緑の色が薄紅になった。源氏側が斬って首をさらされた者は2千余人であった。
平家の主な戦死者は、越前三位通盛、弟の蔵人大夫業盛( くらんどたいふ)、薩摩守忠度、武蔵守知章、備中守師盛、尾張守清貞、淡路守清房、修理大夫経盛(つねもり)の嫡子皇后宮亮経正(すけつねまさ)、弟の若狭守経俊(つねとし)、その弟の大夫敦盛、以上10人と言うことであった。
【 平家物語 落足その2 】
備中守師盛(もろもり)は主従七名で小船で逃げようとしたところへ新中納言の家来:清衛門公長(せいえもんきんなが)が「お乗せください」と申し出たので船を渚にこぎ寄せた。大の男が鎧を着たままでがばっと飛び乗ったので船はぐるっとひっくり返ってしまった。そこへ、源氏方の畠山の郎党:本田次郎が一四~五騎で駆けつけ熊手で引き上げ師盛の首を斬ってしまった。生年14歳であった。
東西の城門での合戦は、2時間をこえるくらい続いた。矢倉の前、逆茂木の下には人馬の死骸が山をなし、一の谷の笹の原は、緑の色が薄紅になった。源氏側が斬って首をさらされた者は2千余人であった。
平家の主な戦死者は、越前三位通盛、弟の蔵人大夫業盛( くらんどたいふ)、薩摩守忠度、武蔵守知章、備中守師盛、尾張守清貞、淡路守清房、修理大夫経盛(つねもり)の嫡子皇后宮亮経正(すけつねまさ)、弟の若狭守経俊(つねとし)、その弟の大夫敦盛、以上10人と言うことであった。
まだ中学生の年ですね。
首をさらされた人の数の多さに驚きます。
そんな死に方では、浮かばれるわけがありませんね。
余りの多さにびっくり!!
でも阪神大震災の時に亡くなった人はその倍以上だったのですから・・・
どうなのかな??
神戸は
訪問とコメントありがとう。
14歳と言っても備中守ですから一地域を支配していたのですよね。ケイタイとバレンタインチョコに執着する現代の14歳とは比べられないくらいに早熟だったのでしょうか。
阪神大震災の死者は、6000人くらいですから一の谷の合戦の3倍です。平安時代末期の人口は約700万人くらいですから人口と比較すれば、当時の2000人はものすごい数だったのでしょうね。
優秀な人はほとんど死んだのでしょうね。
その残りから、私達は生まれてきた
訪問とコメントありがとう。
今の日本の人口が12000万くらいですから700万は、むちゃくちゃ少ないですね。大阪府の人口が880万くらいですからそれより少ない人が全国に散らばっていた。
その中の2000人は多いでしょうね。