平清盛から賜った、白拍子”とぢ”の屋敷に運び込まれる多額の銭や米。
明り障子の陰には、”とぢ”に使える侍女がひとり・・・。
「こちとら、この一棹の銭で十年はおろか百年も暮らしが立つというものを・・」
「すまじきものは人足、持つべきものは美形の娘っこじゃぁ・・・」と、やっかみ
半分の人足たち。
<本文の一部>
入道相国かように天下をたなごころににぎり給ふあいだ、世のそしりをはばかり給はず、不思議のことをのみし給へり。 そのころ京中に白拍子の名手・義王、義女とておととい(姉妹)あり。これはとぢといふ白拍子のむすめなり。姉の義王を入道最愛せられければ、妹の義女をも世の人もてなすことかぎりなし。母とぢにもよき家つくりてとらせ、毎月百石百貫をぞおくられける。家のうち富貴にしてたのしきことかぎりなし。
そもそもわが朝に白拍子のはじまりけることは、むかし鳥羽の院の御宇に、島の千歳、若の前これら二人が舞ひいだしけるなり。はじめ水干に立烏帽子、白鞘巻をさして舞ひければ、「男舞」とぞ申しける。しかるを中ごろより烏帽子、刀をばのけられて、水干ばかりを用ひたり。さてこそ「白拍子」とは名づけられ。
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入道相国(平清盛)が寵愛していた白拍子・義王、義女の姉妹がいました。
ある時、仏御前という十六歳の舞いの上手な娘が、西八條の清盛別邸へ押しかけ参上したが、清盛は「義王がここに居る以上は、神だろうと仏だろうと来ても用は無い」と門前払いをする、これを見ていた義王は”若い同業の娘”に対して”せめてお会いになって”と、とりなすのであった。
清盛は、”そなたがそれほどまでに云うのなら会ってから帰そうか・・・”と、門前で呼び止めさせて屋敷内に招き、今様(今はやりの歌)と舞いを見ることになった。
その舞や歌のすばらしさと、その姿にすっかり心を奪われた清盛は屋敷に残れと命じる。義王のことを思い退出しようとする仏御前だが、義王をはばかるなら義王を屋敷から出す!と云い、近侍の者に”即刻ひまを出せ”と命じ、とうとう義王は屋敷から追い出されてしまうのであった。
そして、月々の扶持の米や銭もたちまちに止められてしまうのである。
あくる春のころ、仏御前をなぐさめよと、清盛は義王を呼び出すが言を左右にして断る、しかし度々の脅しのような催促と、母とぢのその身を案じて”親孝行だと思って”の諭しにいやいや涙で清盛邸へやってくる。
義王は涙ながらに舞い歌う・・・・・・・・・
月もかたぶき夜もふけて 心の奥をたづぬれば 仏もむかしは凡夫なり
われらもつひには仏なり いずれも仏性具せる身を
へだつるのみこそかなしけれ
月も東の空に移り夜も更けた今、私の心の中を問うてみれば、尊い釈迦仏
も昔は普通の人でした。この賤しい私でも最後は仏になれるはずです。
仏も私もいずれも仏になるべき本性を備えておりますのに、分け隔てを
なさるとは悲しうございます。
並み居る一門の公卿、殿上人、侍にいたるまで、みな涙を流さぬ者はなかったとか・・・。
義王の帰りぎわに、清盛の”この後は召し出さずとも時々来て歌い舞って、仏御前を慰めよ”との言葉に、悔しさ辛さに涙するのであった。
義王 : 諸本は”義王””妓王””祇王”などあり。
この「義王」のくだりは、清盛がどうしてこんな理不尽で情けのかけら
も無いような、まるで色気違い?か破廉恥男のように、何か必要以上に
おとしめる記述をしているとしか思えないように感じてしまいます。
もっとも、古今東西 ”絶対権力” を手にした人の ”豹変” は、挙げれ
ばきりがありませんけれど・・・・。
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