妻子を都に残すことに決めた維盛も、北の方、幼い嫡男や姫
に縋りつかれ、未練を断ち切れぬさま
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(本文の一部)
修理大夫経盛の子息、皇后宮亮経正は、幼少にては、仁和
寺の御室の御所に侍ひしかば、かくある怱劇のなかにも、御
名残をきっと思ひ出して、侍五六騎召し具して、仁和寺殿へ
馳せ参り、門前にて馬よりおり、申し入れられけるは、「一
門、運尽きて、今日すでに帝都をまかり出で候。うき世に
思ひのこすこととては、ただ君の御名残ばかりなり。
八歳のとき、参りはじめ候うて、十三にて元服つかまつ
り候ひしまでは、あひいたはることの候ひしよりほかは、
御前をたち去ることも候はざりしに、今日よりのち、いず
れの日、いずれの時、帰り参るべしとも覚えざることこそ
口惜しう候へ。
いま一度、御前に参りて、君をも見まゐらせたう候へど
も、甲冑をよろひ、弓矢を帯して、あらぬさまの装ひにま
かりなりて候へば、はばかり存じ候」とぞ申されける。
御室あはれにおぼしめし、「ただその体をあらためずし
て参れ」とこそ仰せけれ。
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<あらすじ>
<平経正、仁和寺御室とのお別れ>
(1) 経正は、小さいころから仕えた御室御所の守覚法親王に
お別れのご挨拶のため、平家都落ちの慌ただしいさ中に
御所に立ち寄り、琵琶の名器“青山”をお返しした上で
先行する帝(81代・安徳帝)のご一行を追って西下するの
であった。(守覚法親王は、後白河院の第四皇子)
(経正は、清盛の弟・経盛の子)
寿永二年(1183)のことであり、この後、寿永三年
(1184)“一の谷合戦”で討死する。
<平維盛、妻子との判れ>
(1) 維盛は、妻子を都に残すことに決めた。事情を伝え
“なだめ、すかし”別れの場面が続くが、北の方(故・
藤原成親の娘)や幼い嫡男の“六代”、姫の“夜叉”が
すがりつき、未練の想いが断ち切れず、刻々と時は過ぎ
遂には弟たち(資盛、清経、有盛など)に、出立を促され
ありさまであった。
(2) 故・斎藤別当実盛の子・斎藤五と斎藤六の二人には、残
された北の方や若君、姫君を守るように命じて都に残す
こととした。
平重盛 維盛:一の谷合戦の後、熊野沖入水
の子ら 資盛:壇ノ浦合戦で討死
清経:西海で入水
有盛:壇ノ浦合戦で討死
師盛:一の谷合戦で討死
忠房:平家滅亡後、紀伊湯浅で兵を
挙げるが、頼朝の策略で鎌倉
へ召される途中で、謀殺さる
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<独り言>
1987年から90年にかけてのバブル経済期に、こんな言説
があった。
「汗水垂らして金儲けする時代はもう終わった。頭を使っ
て“投機”で金儲けをする時代がやってきた。今時、投機
をやらない輩は、世捨て人だ」と。
努力、勤勉、誠実、創意工夫など日本古来の徳目を全否
定するようなことを、某著名経済評論家が真顔?で云うの
である。その後どんな経緯を辿ったかは、皆さんご存知の
通りである。
今、この評論家はどんな顔をして記事を書いているのだろ
うか。
どこぞの超大国の、傲慢資本主義のとばっちりで、戦後
六十数年の日本でも、“百年に一度”の経済危機などと無
責任なことをのたまう政治家や学者、評論家がいる。
ましてや、この半月ひと月の政権与党の政治家の皆さん
の言動!、まさに“政治ヤ”の末期症状と云われても仕方
のない有様で、我々庶民の大迷惑は、この上ありません。
真面目な心ある政治家は、苦々しく思っているに違いあ
りません。
これでも、選挙になると、候補者の人柄や主張をろくに
聞いたり調べたりせずに、投票したり“棄権”したりする
多くの人があるのも事実です。
平成21年7月19日
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