* 平家物語(百二十句本) の世界 *

千人を超える登場人物の殆どが実在の人とされ、歴史上”武士”が初めて表舞台に登場する
平安末期の一大叙事詩です。

第八十五句「三草山」

2010-11-26 13:16:19 | 日本の歴史

 

      “義経”に「夜討ち」を進言する“田代の冠者信綱、土肥実平直ちに同意!する。

<本文の一部>

 さるほどに、源氏は四日、一の谷へ寄すべかりしが、「故太政入道の忌日」と聞いて、仏
事をおこなはせんがためにその日は寄せず。五日は西ふさがり。六日は道虚日。七日の
卯の刻に摂津の国一の谷にて、源平矢合せとぞ定めける。
             
七日の卯の刻に、大手、搦手の軍兵二手に分かつ。

 大手の大将軍、蒲の冠者範頼にあひしたがふ人々、武田の太郎信義、加賀見の次郎
遠光その子次郎長清、板垣の三郎兼信、逸見の四郎有義・・・・・・・・
 都合その勢五万余騎、四日の卯の刻に都をたって、その日の申酉の刻には摂津の国
昆陽野に陣をとる。

 搦手の大将軍、九郎義経にあひしたがふ人々、大内の太郎維義、安田の三郎義定、
村上の判官代基国、田代の冠者信綱、侍大将には、土肥の次郎実平、その子弥太郎
遠平、和田の小太郎義盛、同じく次郎義茂、佐原の十郎義連・・・・・・・・

 都合その勢一万余騎。同じ日、同じとき都をたって丹波路にかかって、二日路を一日
にうって、その日播磨と丹波のさかひなる三草山の東の山口、小野原にこそ着き給へ。

 御曹司、土肥の次郎を召して、「平家は小松の新三位の中将、同じく少将、丹後の侍
従、備中守。侍には、平内兵衛、江見の次郎。三千余騎にてこれより三里へだてて西の
山口をかためたんなり。今夜寄すべきか、明日の合戦か」とのたまへば、田代の冠者す
すみ出でて申されけるは、「平家は、さ様に三千騎にて候ふなり。味方は一万余騎、は
るかの利にて候ふものを。明日の合戦にのべられ候はんに、平家に勢つきなんず。
夜討によからんとこそおぼえ候へ。これいかに、土肥殿」と申せば、土肥の次郎、「いし
うも申させ給ひたる田代殿かな。実平もこうこそ申したう候ひつれ」とぞ申したる。

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<あらすじ>

(1) 二月四日、源氏勢は一の谷へ攻め寄せる手筈を整えていたが、その当日が“清盛
  の命日に当たることから、攻撃を取りやめ、陰陽道の忌日も避けて七日になって初め
  て押し寄せることゝした。

   大手の大将軍、蒲の冠者・範頼をはじめ三十六人の名を挙げて、その勢五万余騎
  搦め手の大将軍、九郎義経をはじめとしてこれ又名を挙げて一万余騎を、それぞれ
  三草山の西と東に着陣した。

(2) 守る平家側の、新三位の資盛、及び有盛忠房師盛らが構える三千余騎を前にし
  て源氏側は軍議の上、「夜討ち」と決める。
  (第71代・御三条院に連なる“貴種”とされる、“田代の冠者”信綱の進言を入れる)

(3) 源氏勢は、夜を日に次いで駆け人馬ともに疲れてはいたが、皆うち立って暗闇の中で
  民家や草木に“”を放って明りとなし、眠りに就いた三千余騎の平家の軍勢の後陣
  へなだれ込み駆け破り、慌てふためく平家の兵たちは瞬く間に五百余人が討たれて
  しまったのであった。

(4) 平家資盛や、有盛忠房らは面目を失い船に乗り讃岐の屋島へ退き、師盛は一の
  谷へ向かい、“宗盛”に「三草山の戦い」に敗れたことを伝えた。

   宗盛は、平家一門の諸将に三草山へ向かうよう命ずるが、いずれも辞退されてしま
  い止むを得ず、再び“教盛”に使者を立てて、やっと承諾を得る有様であった。

(5) 平家も大手、搦め手の二手に分け、大手の大将軍に新中納言・知盛及び重衡
  万
余騎で生田の森に向かい、搦め手の大将軍に行盛及び忠度三万余騎一の
  谷
の西側に向かった。

   二月六日早朝、九郎義経土肥次郎実平を大将として、七千余騎で一の谷の西
  側へ差し向け、義経自身は三千余騎で“鵯越(ひよどりごえ)”へ向かった。

(6) 武蔵の国の別府小太郎清重(十八歳)は、深山迷い道では“老馬”を先に立てよ・・と
  の親の教えを進言し、義経はこれを入れ、深い山道に入り、暮れては山中に陣を取
  った。

   武蔵坊弁慶は、年老いた猟師を道案内者として義経に引き合わせ、猟師の話から
  “鹿”が通うことを知り、その子・熊王丸に案内させた。(元服して、鷲の尾の十郎義久)

   後に、義経が奥州(衣川の館)で頼朝に攻められた折、最後まで従って共に討死。