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台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

台中州 西山神祠

2011-05-20 21:11:04 | 台中州

 

 一般には西山神社とも呼ばれ、当時の新高山群峰の西峰である3,518メートルの頂上に位置し、一般の登山者の守護神として、日の神の天照大神を始めとし、山の神、風の神、地の神、水の神を祀り、昭和9年(1934年)11月14日に鎮座した。本殿は南向きに建立され、北は南投の山々、右に阿里山、左に新高山(現在の玉山)を望んでいる。創立費用は地元阿里山、新高山・阿里山登山者および阿里山国立公園協会の寄付金約4百円をもって、阿里山の紅檜を用材として建立された。

 現在の本殿は戦後建てかえられたと聞いているが、ほぼ当時の原型をとどめているのではないかと思われる。祭神には阿弥陀仏を祀っており、定期的に参拝がされているようである。

 玉山の主峰に比べると、登山のダイナミックさはないが、西峰への登山の途中で見る玉山主峰は雄大である。是非、玉山登山の折には訪問して頂きたい神社である。

 

 

 

阿弥陀仏が中央に祀られている

流れ造りの本殿である

案内板

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台中州 (台中市台中1295番地1296番地) 台中稲荷社

2010-11-13 00:36:15 | 台中州
 
台中警察局第一分局大誠分駐所                 分駐所の裏で、この辺りに神社があったと思われる      

鎮座日:明治30年(1897年)9月  祭神:倉稲魂神  例祭日:6月15日  社格:社 
            
台中稲荷社は台湾における第2番目の神社として明治30年に常磐に建立されたようであるが、大正4年(1915年)に初音町に移築され、大正12年11月20日に建て替えられた。日本統治時代の初期に渡台した日本人(内地人)向けのご利益信仰として建立された最初の稲荷神社となる。
この神社の所在地を特定するのも困難を極めた。台中政府の戸籍課で調査を依頼したが判らず、職員の一人が日本統治時代の建物である「寶覚寺」に言ってみたらと提案してくれた。早速、「寶覚寺」を訪問するとお二人のご老婦人にお会いできた。台中に稲荷神社が無かったかお伺いしたところ、幼い頃によくこの神社の前を通ったとのことであった。
現在の場所は成功路と興中街のちょうど角の台中警察局第一分局大誠分駐所辺りである。当時この建物は派出所であり、神社はその横に南西向きにあった。近くに柳川があり、ご老婦人によると柳川沿いに並んだ料亭に勤める芸者さんがよく通りすがりに手を合わしていたと言う。
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台中州 (能高郡蕃社)  鹿島神社

2010-07-09 22:51:07 | 台中州

鹿島神社はこの水徳宮の場所に建立された

今なお水をたたえる武界ダムである

 第一次世界大戦後の物価および賃金の上昇により、発電所建設に伴う設備のありとあらゆる資材が高騰した。また、関東大震災もあり、結果として日月潭発電所着工3年目の大正12年(1923年)12月に上山総督が正式に工事打ち切りを声明せざるを得なくなった。日月潭の工事の再開の見通しが立ったのは昭和6年(1931年)であり、川村総督が再興具体策を帝国議会に提出し、条件付ではあったが通過した。その後日本国内においては政権の変化があり、石塚総督が新しく就任する。石塚総督と松木新台湾電力株式会社社長の懸命な努力により拓務および大蔵などの関係当局と折衝の上、資金調達も決まり、工事が再開されたのは昭和6年(1931年)10月1日であった。
 この工事は担当箇所により、第一工区から第七工区に分けられた。第一工区(武界ダム、放水路3本、2,000メートル隧道、4,000メートル隧道上半分)および第三工区(4,000メートル隧道下半分、2,000メートル隧道)は鹿島組が入札の結果決まった。
 当事の作業環境は最悪を極めていた。工事現場と言っても全く未開の地に等しかった。特に熱帯雨林地域の台湾中部はマラリヤの発生で環境に慣れぬ内地人は瞬く間にマラリヤに感染し、数多くが亡くなった。このダム工事現場だけでも鹿島組診療所、マラリヤ研究所の病院、台湾電力の病院も含めて五ヶ所の病院があり、マラリヤ患者の治療やアミーバ赤痢、ガムシなどの被害の治療にあたった。鹿島組事務所を置く東埔(とうほ)から第1工区の武界までは「辞職峠」と呼ばれる程の急峻であり、海抜1,360メートルの峠越え徒歩4時間を、枝から垂れ下がる様々な毒蛇を杖で払いながら進む。1年後には資材輸送用架空索道(ケーブル)が設けられた。さまざまな困難を乗り越えて延べ30万人が従事した日月潭発電所工事は、予定工期を3ヶ月残して無事終わった。
 工事着工一年後と言えどもまだまだ死と向き合わせの環境の中で工事の安全と神の守護を求めて、鹿島神社は昭和7年(1932年)5月2日に能高神社の神霊を干卓蕃山頂に移祭した。そして同年の9月2日に鎮座式が行なわれた。当時の台湾日日新報には日月潭電力工事第一工区武界の鹿島組が北堤守護神としてダムと放水路の間の小高い山頂に鹿島神社を建立したとある。
 工事竣工後、鹿島神社の石段と壁は修復された。光復後、神社は取壊され水徳宮が建立された。

この鹿島神社には「台湾電力株式会社発展史」の著者である林炳炎さんの御好意で訪問することが出来ました。この場を借りて改めて御礼申し上げます。なお、下記同氏のブログには鹿島神社の旧景が掲載されているので参照ください。

http://pylin.kaishao.idv.tw/?p=291
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台中州 (大湖郡蕃地) 文水社

2010-05-29 12:48:11 | 台中州

虎山温泉への入り口

壁絵

汶水渓の中の島                          神社本殿の跡

唯一残る燈籠の一部

この神社は当時の記録で台中州大湖郡蕃地タビラスの文水渓中の島に建立された神社となっっている。現在の場所は苗栗県の泰安郷温泉区の虎山温泉と推定し、向かった。
以前、台湾の友人より「虎山の神社」が吊橋を渡ったところにあったというかすかな情報をもとでの探索であった。
虎山温泉に着くと間違いなく吊橋があり、吊橋の向こうにはまさしく文水渓中の島(砂洲)を見ることが出来た。吊橋を渡ると虎山温泉大飯店があり、この裏手に神社が建立された。昭和14年初めのことである。
当時の文水神社には中の島の吊橋あたりに大きな神明鳥居があった。神社遺跡は唯一敷地内に残されている燈籠の傘の一部だけである。本殿場所には小さな祠があり、神社が祠に替っても人々の信仰の対象であることには違いがないと思いつつ虎山温泉をあとにした。
虎山温泉の道路壁にには遠くからこの中の島を眺めるタイヤル人およびタイヤル人と日本女性が楽しそうに温泉に浸かっている壁絵は歴史の一コマを見るようであった。
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台中州 (東勢郡蕃社久良栖) 久良栖祠

2010-05-22 01:08:30 | 台中州

神社はこの理蕃道路の奥にあった

 明治44年(1911年)10月15日に台中廳蕃地捜索前進隊副長台中廳蕃務課長警視市来半次郎(後の台東廳長)の指揮する部隊が大甲渓左岸を遡り、旧クラスワタン社を占領した。その社の頭目の名であるクラスをとって久良栖と名づけたという。タイヤル族が多く住む現在の松鶴である。松鶴村は中部横貫道路沿いにあり、この道路を北東に進むと宜蘭県および花蓮県に出るため、日本統治時代は理蕃政策上重要な道路であった。
 この神社は和平郷博愛村東関道一段松鶴2巷辺りで、松鶴渓が大甲渓に流れ込む河口の反対側に西向きにあったが、1999年9月21日に台湾南部を襲った地震により地盤が緩み、後の芠利台風(2005年)による土石流で今は神社の痕跡は跡形も無くなっている。この神社は多少小高い丘の上に西向きに建立されており、本殿と4-6基(本殿横に一対、石段下に一対)の石燈籠があり、鳥居もないこぢんまりとした神社であったようである。また、神社に向かって右側には相撲の土俵があった。
コメント (10)
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