わたなべ りやうじらう のメイル・マガジン
頂門の一針 6479号
頂門の一針 6479号
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「安倍新党」あり得た歴史
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【阿比留瑠比の極言御免】
「歴史にifはない」とよくいうが、「あの時はこうだったら」と考えることはままあることである。18日発行の僚紙夕刊フジで、安倍晋三元首相の番記者でジャーナリストの岩田明子氏が書いた「幻の"安倍新党" 松井一郎氏が構想していた」との記事を読み、当時の安倍氏の真剣な表情が脳裏によみがえった。
[大連立なら党を割る]
岩田氏は記事で、民主党政権時代の平成24年3月、当時は大阪府知事だった大阪維新の会の松井氏と橋下徹大阪市長が雌伏中の安倍氏と面会した際のことをこう記している。
《安倍氏によると、松井氏はこの席で、「例えば、安倍首相、橋下総務相兼大阪市長といったかたちでは、どうですか」とも提案したという》
《安倍氏は当時、「自民党による政権奪還」を目指していたため、松井氏が提案した「安倍新党」は幻に終わる》
この頃、政治情勢は流動的だった。筆者はこの年の6月4日衆院議員会館の事務所で安倍氏と二人きりになった際に、安倍氏が唐突にこう言ったのが鮮烈な記憶として残っている。
「自民党と民主党による大連立構想は、とんでもない話だ。そうなったら自民党を割って出る」
日頃はユーモアを欠かさない安倍氏だが、重大な政局を巡って冗談は口にしない。驚きながら「大連立したって、来年夏には衆院選なんだから、いい関係は長くは続かない」と話を促すと、安倍氏は続けた。
「そう、各種世論調査を見ても、自民党と民主党の政党支持率は低い。一方、橋下さんの維新には期待が集まっている。大連立なんていうのはバカだよ」
もともと大連立構想は19年秋に、当時の小沢一郎民主党代表と福田康夫首相の間で持ち上がったが、小沢氏が党内をまとめきれずに頓挫した経緯がある。それがその5年後、再燃していたのである。
長老議員を中心に、民主党政権に早期の衆院解散・総選挙を求めるより、大連立によって閣僚ポストを確保することを画策する動きがあった。
安倍氏はさらに言った。
「そういう大連立の動きが本格化したら、むしろ党を割って出やすくなる。『(民主党の支持母体である公務員労組の)自治労や日教組なんかと一緒にやれるか』と、離島の大義名分も立つし。そうなったら、(自民党下野後に就任した)新人の選挙区支部長(次期衆院選公認候補予定者)らはみな、こっちに来るのではないか。橋下さんの人気も当分つづくだろう」
[何が正着か常に模索]
当時、安倍氏がいずれ首相に返り咲くとみる向きはほとんどなかった。そのため、在京紙では見出し付きの記事にもならなかったが、安倍氏はこれに先立つ4月24日にも上京中の橋下氏に要請されて橋下、松井両氏らと会っていた。
同夜、会合を終えた安倍氏に聞くと、橋下氏から礼儀正しく「自民党を割って出てほしい」「できれば安倍さんと一緒にやりたい」と打診されたという。安倍氏は、橋下氏の申し出を歓迎していた。
おそらく安倍氏は、再び首相に就き「日本を取り戻す」ためにはどんな手段と方法、選択肢がり、何が正着か常に模索していたのだろう。
自民、民主両党の大連立構想が立ち消えにならなかったら、この年9月の自民党総裁選に安倍氏が出馬することもなく、日本のあり方そのものが変わったかもしれない。政界一寸先は闇であり、進路は無数に枝分かれしている。
「安倍新党」あり得た歴史
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【阿比留瑠比の極言御免】
「歴史にifはない」とよくいうが、「あの時はこうだったら」と考えることはままあることである。18日発行の僚紙夕刊フジで、安倍晋三元首相の番記者でジャーナリストの岩田明子氏が書いた「幻の"安倍新党" 松井一郎氏が構想していた」との記事を読み、当時の安倍氏の真剣な表情が脳裏によみがえった。
[大連立なら党を割る]
岩田氏は記事で、民主党政権時代の平成24年3月、当時は大阪府知事だった大阪維新の会の松井氏と橋下徹大阪市長が雌伏中の安倍氏と面会した際のことをこう記している。
《安倍氏によると、松井氏はこの席で、「例えば、安倍首相、橋下総務相兼大阪市長といったかたちでは、どうですか」とも提案したという》
《安倍氏は当時、「自民党による政権奪還」を目指していたため、松井氏が提案した「安倍新党」は幻に終わる》
この頃、政治情勢は流動的だった。筆者はこの年の6月4日衆院議員会館の事務所で安倍氏と二人きりになった際に、安倍氏が唐突にこう言ったのが鮮烈な記憶として残っている。
「自民党と民主党による大連立構想は、とんでもない話だ。そうなったら自民党を割って出る」
日頃はユーモアを欠かさない安倍氏だが、重大な政局を巡って冗談は口にしない。驚きながら「大連立したって、来年夏には衆院選なんだから、いい関係は長くは続かない」と話を促すと、安倍氏は続けた。
「そう、各種世論調査を見ても、自民党と民主党の政党支持率は低い。一方、橋下さんの維新には期待が集まっている。大連立なんていうのはバカだよ」
もともと大連立構想は19年秋に、当時の小沢一郎民主党代表と福田康夫首相の間で持ち上がったが、小沢氏が党内をまとめきれずに頓挫した経緯がある。それがその5年後、再燃していたのである。
長老議員を中心に、民主党政権に早期の衆院解散・総選挙を求めるより、大連立によって閣僚ポストを確保することを画策する動きがあった。
安倍氏はさらに言った。
「そういう大連立の動きが本格化したら、むしろ党を割って出やすくなる。『(民主党の支持母体である公務員労組の)自治労や日教組なんかと一緒にやれるか』と、離島の大義名分も立つし。そうなったら、(自民党下野後に就任した)新人の選挙区支部長(次期衆院選公認候補予定者)らはみな、こっちに来るのではないか。橋下さんの人気も当分つづくだろう」
[何が正着か常に模索]
当時、安倍氏がいずれ首相に返り咲くとみる向きはほとんどなかった。そのため、在京紙では見出し付きの記事にもならなかったが、安倍氏はこれに先立つ4月24日にも上京中の橋下氏に要請されて橋下、松井両氏らと会っていた。
同夜、会合を終えた安倍氏に聞くと、橋下氏から礼儀正しく「自民党を割って出てほしい」「できれば安倍さんと一緒にやりたい」と打診されたという。安倍氏は、橋下氏の申し出を歓迎していた。
おそらく安倍氏は、再び首相に就き「日本を取り戻す」ためにはどんな手段と方法、選択肢がり、何が正着か常に模索していたのだろう。
自民、民主両党の大連立構想が立ち消えにならなかったら、この年9月の自民党総裁選に安倍氏が出馬することもなく、日本のあり方そのものが変わったかもしれない。政界一寸先は闇であり、進路は無数に枝分かれしている。