五層の功夫(前回より続く) 陳 小旺
第二層の功夫
「練習面」
ここでは、練習中に生じる強ばりの勁や無駄な力を排除し,周身相随で節々を貫き、内気が動作の要求にそって規則的に体内を流れ、一気貫通させていくことを目的とします。
第一層では初歩的に熟練し,内気活動に対しすでに明らかな感覚がありましたが、掌握するまでには至りません。ある箇所で力みが入るため意気が乱れたからです。
動作が不協和を起こし(その欠陥を“矛盾”といいますが)、この矛盾は細心の注意をして研究してゆかねば解決できません。長い鍛錬経験者でも往々にしてこの矛盾を見逃すことがあります。含胸の行き過ぎ、腰の入れ過ぎなど、適切に怠りなくチェックをします。
矛盾の対立面の統一により、“放松”の程度が掌握でき、周身が相合されてきます。“周身の相合”とは、内合、外合に分けます。外合とは、手と足、肘と膝、肩と胯を揃えることで、左手と右足、左肘と右膝という具合に、左右が上下で相合します。
内合とは、筋と骨、気と力、肝と筋、脾と肉、肺と身、腎と骨、心と意を合わせます。
第二層の功夫では,身体各部への要求は厳格で、内気の貫通をことさら求めます。ある一点がわずかに動けば、内気はすみやかに沈めます。この的確さは微妙で,一ミリの差が千里のミスにつながります。もし納得できない感覚が生じれば,どこかに強ばりの勁が使われ矛盾が発生しているのです。身体の調整が適切であれば気が順調に流れ、自然に沈みます。
陳式太極拳の要求は一挙一動すべて纏絲勁と切り離せません。
“纏絲勁は腎より発し、いずこにも有し、無のときはこの類にあらず”と拳論にあります。運動中は纏絲法(即、纏絲螺旋の運動法)と纏絲勁(纏絲法で練られた勁)を厳格に掌握するーー陳式太極拳の精華がこれです。
纏絲法の要求は、松肩沈肘、含胸?腰、開胯屈膝とし、腰を軸とに一動全動させ,掌心が内外に翻転し、手を内へかえすには手で肘を促し,肘で肩を、そして肩で腰という順に動かします(腰が最後にみちびかれて、実際には軸となります)。
手が外に向くには、腰で肩をうながし、肩で肘、肘で手という順にみちびきます。上肢は手首をまわして腕を動かし、下肢は踝をまわして腿を動かし,身躯は腰をまわし背を動かすという表現によって三者が結合し、足を基礎に腰で主宰して手と指により空間に立体的螺旋の旋転曲線を形作ります。練拳時、ある動作が決まらなかったり順調にいかない時には、螺旋の要領にそって足腰を調整して姿勢を矯正します。
人体の内気は経絡を運行します。
人体の経絡は田畑に例えると通水溝のようなもので、詰まらないように爽やかに気を通します。身肢に矛盾があれば内気は妨げられて中断し、手足の先端に流れません。
第一層の鍛錬中は、習い始めて熟練するうちに気が体内を流れる感覚に興味を持ち、飽くことのない面白さを持ちます。
第二層に入ると新鮮味を欠くため、何度かマンネリを迎えます。上達したと思うときもあれば、どんなに練習しても代りばえせず落ち込むこともあります。そしてまた、あたりに風をはらう勢いの発勁ができたかと思えば、推手では何も使いこなせない、という繰り返しに悩みます。老師が秘訣を伝えてくれないと疑ったり、自分には素質がなく,忍耐力に欠けるのではないかと、それぞれ考えをめぐらします。気の流れに対するある一定の感覚はあっても、貫通させることは容易なことではありません。拳論では「人々はみなそれぞれ一太極をもっているが、功夫があるかないかにより異なる」と説いています。一般には、4年の練拳で第二層の功夫は完成でき、一気貫通するとにわかに悟ることができます。
この時、自然に信念が深まり、ますます興味が高まり、功夫は日々上達し、もうやめられなくなります。“練拳者は千人万人、練成者は1人2人”という言い方はやや大袈裟ですが、実際には中途半端で止める人がほとんどです。信念を失い中断するかしないかはこの第二層の期間の試練にかかっています。この難関を突破する手だては何もありません。ただ屈することのない精神で、規則通り正しく套路を反復し,全身がひとつになって、一動全動し完全な体系をつくります。運動中に浮き上がったり,逆らったりせず、変化は思いのまま、円転は限りなくなってくるでしょう。“道理が不明なら師に習い、迷ったならば良友を求める”とよくいいます。さらに怠らず,努力し続ければ成功をおさめるでしょう。
「技撃面」
第二層の功夫の初期は,第一層の技撃と表面はほとんど変わらず,実用価値もさほどありません。第二層の最終段階に一定の技撃作用を持つにいたります。
推手と練拳は切り離せず,練拳に欠点があれば,推手にも弱点が出て隙を作ります。それで太極拳は妄動を禁じるのです。
推手とは” 棚、将、擠、按を正しく用い、上下相随により人に攻め込ませず、相手の巨力を借りて四肢の巧みな牽動でえ千斤の力を発する“ことです。
前層よりも内勁はやや充実し、重心の調整力もつき、足も安定しますが、対攻性水推手になると、身法を調整する余裕が与えられず、相手の力を無理に化わそうとしては纏絲運動がなおざりになります。相手の進攻が遅ければ、身法を調整することができ、化わすことができる段階です。
このように、自発的に技を用いようとするときに無駄な力を出しやすいのです。強引に勝とうとする精神面ではまだ不充分です。“自己を棄て、人に連なり、臨機応変”の境地にはまだ遠く、二陰八陽というところです。
(日本陳式太極拳学会会報「陳家溝」より)
以下続く。
第二層の功夫
「練習面」
ここでは、練習中に生じる強ばりの勁や無駄な力を排除し,周身相随で節々を貫き、内気が動作の要求にそって規則的に体内を流れ、一気貫通させていくことを目的とします。
第一層では初歩的に熟練し,内気活動に対しすでに明らかな感覚がありましたが、掌握するまでには至りません。ある箇所で力みが入るため意気が乱れたからです。
動作が不協和を起こし(その欠陥を“矛盾”といいますが)、この矛盾は細心の注意をして研究してゆかねば解決できません。長い鍛錬経験者でも往々にしてこの矛盾を見逃すことがあります。含胸の行き過ぎ、腰の入れ過ぎなど、適切に怠りなくチェックをします。
矛盾の対立面の統一により、“放松”の程度が掌握でき、周身が相合されてきます。“周身の相合”とは、内合、外合に分けます。外合とは、手と足、肘と膝、肩と胯を揃えることで、左手と右足、左肘と右膝という具合に、左右が上下で相合します。
内合とは、筋と骨、気と力、肝と筋、脾と肉、肺と身、腎と骨、心と意を合わせます。
第二層の功夫では,身体各部への要求は厳格で、内気の貫通をことさら求めます。ある一点がわずかに動けば、内気はすみやかに沈めます。この的確さは微妙で,一ミリの差が千里のミスにつながります。もし納得できない感覚が生じれば,どこかに強ばりの勁が使われ矛盾が発生しているのです。身体の調整が適切であれば気が順調に流れ、自然に沈みます。
陳式太極拳の要求は一挙一動すべて纏絲勁と切り離せません。
“纏絲勁は腎より発し、いずこにも有し、無のときはこの類にあらず”と拳論にあります。運動中は纏絲法(即、纏絲螺旋の運動法)と纏絲勁(纏絲法で練られた勁)を厳格に掌握するーー陳式太極拳の精華がこれです。
纏絲法の要求は、松肩沈肘、含胸?腰、開胯屈膝とし、腰を軸とに一動全動させ,掌心が内外に翻転し、手を内へかえすには手で肘を促し,肘で肩を、そして肩で腰という順に動かします(腰が最後にみちびかれて、実際には軸となります)。
手が外に向くには、腰で肩をうながし、肩で肘、肘で手という順にみちびきます。上肢は手首をまわして腕を動かし、下肢は踝をまわして腿を動かし,身躯は腰をまわし背を動かすという表現によって三者が結合し、足を基礎に腰で主宰して手と指により空間に立体的螺旋の旋転曲線を形作ります。練拳時、ある動作が決まらなかったり順調にいかない時には、螺旋の要領にそって足腰を調整して姿勢を矯正します。
人体の内気は経絡を運行します。
人体の経絡は田畑に例えると通水溝のようなもので、詰まらないように爽やかに気を通します。身肢に矛盾があれば内気は妨げられて中断し、手足の先端に流れません。
第一層の鍛錬中は、習い始めて熟練するうちに気が体内を流れる感覚に興味を持ち、飽くことのない面白さを持ちます。
第二層に入ると新鮮味を欠くため、何度かマンネリを迎えます。上達したと思うときもあれば、どんなに練習しても代りばえせず落ち込むこともあります。そしてまた、あたりに風をはらう勢いの発勁ができたかと思えば、推手では何も使いこなせない、という繰り返しに悩みます。老師が秘訣を伝えてくれないと疑ったり、自分には素質がなく,忍耐力に欠けるのではないかと、それぞれ考えをめぐらします。気の流れに対するある一定の感覚はあっても、貫通させることは容易なことではありません。拳論では「人々はみなそれぞれ一太極をもっているが、功夫があるかないかにより異なる」と説いています。一般には、4年の練拳で第二層の功夫は完成でき、一気貫通するとにわかに悟ることができます。
この時、自然に信念が深まり、ますます興味が高まり、功夫は日々上達し、もうやめられなくなります。“練拳者は千人万人、練成者は1人2人”という言い方はやや大袈裟ですが、実際には中途半端で止める人がほとんどです。信念を失い中断するかしないかはこの第二層の期間の試練にかかっています。この難関を突破する手だては何もありません。ただ屈することのない精神で、規則通り正しく套路を反復し,全身がひとつになって、一動全動し完全な体系をつくります。運動中に浮き上がったり,逆らったりせず、変化は思いのまま、円転は限りなくなってくるでしょう。“道理が不明なら師に習い、迷ったならば良友を求める”とよくいいます。さらに怠らず,努力し続ければ成功をおさめるでしょう。
「技撃面」
第二層の功夫の初期は,第一層の技撃と表面はほとんど変わらず,実用価値もさほどありません。第二層の最終段階に一定の技撃作用を持つにいたります。
推手と練拳は切り離せず,練拳に欠点があれば,推手にも弱点が出て隙を作ります。それで太極拳は妄動を禁じるのです。
推手とは” 棚、将、擠、按を正しく用い、上下相随により人に攻め込ませず、相手の巨力を借りて四肢の巧みな牽動でえ千斤の力を発する“ことです。
前層よりも内勁はやや充実し、重心の調整力もつき、足も安定しますが、対攻性水推手になると、身法を調整する余裕が与えられず、相手の力を無理に化わそうとしては纏絲運動がなおざりになります。相手の進攻が遅ければ、身法を調整することができ、化わすことができる段階です。
このように、自発的に技を用いようとするときに無駄な力を出しやすいのです。強引に勝とうとする精神面ではまだ不充分です。“自己を棄て、人に連なり、臨機応変”の境地にはまだ遠く、二陰八陽というところです。
(日本陳式太極拳学会会報「陳家溝」より)
以下続く。