izumishのBody & Soul

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陳 小旺老師による「五層の功夫」最終回ー第五層の功夫

2010-09-26 17:09:29 | 太極拳
陳 小旺老師による「五層の功夫」、いよいよ最終段階の五層である。
ほとんど"カンフー映画の世界で観るしかない!"の世界であるが、スゴイだろうことは想像できる。
やればやるほど深くなる、遠くなる、陳式太極拳の世界。
さ、練習練習。。。
5回に分けて掲載した陳 小旺老師の「五層の功夫」、あらためて転載を許可してくれた日本陳式太極拳学会及川正道氏に感謝します。

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「五層の功夫」陳 小旺

第五層の功夫
「練習面」
 小圏から無圏へ、有形無跡の段階です。初期としても基本的にはすでに完成したもので、剛柔が相済され、弾力性豊かな拳さばきは高い境地を示します。しかし、さらに引き続き研究すればするほど精緻になり、一日の功夫が一日の成果につながります。
 剛柔相済といってもいろいろあります。柔よく剛に克つと言っても、その内容によります。柔の化わしが立派になり敏捷になったからといっても、人と手を組んだにすぎません。拳銃から発射される弾のような剛勁を柔で化わすにはさらに水準を高めねばなりません。柔は剛に克ち、剛は柔に、剛は剛に、柔は柔に克たねばなりません。
“相手の下す手が見えず、見えても制せられている”と拳論にあります。また、“もし功夫が精錬されていれば、無限の大圏となり、生じては無となり、強敵にまみえることもなく、もし対決しても、俄に雷が閃くと同様、根こそぎ吹き飛ばしてしまうようなもの”、“気が動きだせば、志は停まらず、引用の正気は混沌とし、天と地をつくり、有から無となり、その玄妙さ天の技のごとく”といろいろ言われています。
 太極拳が五層の功夫に達したからといってうぬぼれは禁物です。さらに刻苦鍛錬の連続です。この段階が完成すれば、内勁はまさに充実し、そのなめらかさは空気のようになります。


「技撃面」
 ここは頂上です。全身すべて太極となり、一動一静が融合します。
“まごうことのない内容をもち、外形は千変万化きわまりなく、修養はみち、真理を手にし、反応はすべて動きに呼応したもの”になります。
 “内に深遠さを秘め、外は堂々と威風をもち気風混沌とし、ひたすら軽妙で、万象を体内に深蔵し、寂然たるさま愚人の如く飄々とし、陰陽がその身に結合されているなど誰にも解らず、勇気ある者が手を出しても、化わされ投げられる、まさに神妙の技である。引くに引けず、出るに出られず、円い石の上に立たされたようにおどおどし、艱難のさまは後悔先に立たずとなる。もし何か手があるとすれば、一開一合で千人の軍を一掃する心づもりで修業に励むしかない”のです。


 陳 耕転は護衛(ボディガード)を職としていました。
 山東の掖県一帯を通ったとき、夕食後、会計の王さんと村へ芝居を見に行きました。
 当地には武芸にたけ、弟子を大勢もつ拳技の名手がいて、耕転の腕を試したいと思っていました。その者が数十名の弟子を芝居に行くふりをさせて先回りさせ、耕転たちが山道に入ると襲撃してきました。周囲を取り囲み、徐々に詰め寄り、一斉に飛びかかるつもりでした。
 彼らが詰め寄っても耕転は不動の姿勢のまま、近付く者をつぎつぎに投げとばしました。「王さん、今日は芝居は見られません。帰りましょう」と話していると、一人が先回りして待ち伏せています。
 帰り道の途中に細い橋があって、そこで耕転を水中へ落とそうと何人かで待っているのです。耕転は長いキセルを取り出すと“火を貸して下さい”と言いながら人々の真ん中へ突っ込み、両側を猛然と突き払いながら進みました。みんなは水餃子のようにポチャポチャと水の中に落ちていきました。
 翌日、耕転が広間の椅子に座っていると、大男が突如飛び込んでくると“陳老師!”と叫ぶや地に膝まづき、顔を上げるとフウッとかけ声もろとも耕転を両腕でつきとばす勢いで飛びかかってきました。そのとき、耕転の胸に手がかかったかとみるや、耕転が身をひらりとかわし、左右の手を上下に分けて絡めると相手の手を払いのけ、右肩で「みぞおち」を打ちました。
 大男は玄関の外まで飛びましたが、再び入口の敷居に足をかけ反撃の力で打ちかかってきました。耕転は、待ってました、とばかり身体をよけると相手の右腕をとり引き込み、肩を右脇にあてると、大男はなんなく外に放り出され、のびてしまいました。
 大男はすっかり耕転に心服し、弟子たちを集めると耕転の拳技をほめたたえ、さらに石碑にその出来事を刻んだということです。


 父の照旭が五層に達したのが1954年で、温県菜円溝大隊の陳 百方がレンガを父に放りました。父に当たり、跳ね返りましたが、父は無傷でした。五体が手のようになり弾力性をもってボールをはね返すと同じようになるのです。
 五陰五陽に達すると、蓄発が相変し、すべて絶妙な正確さを持つに至ります。全身と中枢神経の協調関係の成立が頂点に達し「妙手は一運一太極、太極一運思いのままに、その不思議さは謎である」。
 生ある限り知識を求めるように、一人の人の太極拳もまた、その生涯その妙味は尽きません。
(日本陳式太極拳学会会報「陳家溝」初出。禁無断転載)

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