三津嚴島神社ブログ

愛媛県松山市神田町に鎮座する嚴島神社の神主の記録

久枝神社(ひさえだじんじゃ) 5月16日 春祭り

2017年05月22日 | 兼務社祭典
5月16日
曜日に関係なく、毎年この日行っている久枝神社(松山市古三津町1257)の春祭り
今年も滞りなくご奉仕いたしました。

春祭りは五穀豊穣を祈念するお祭りですが、

最近は古三津地区の田畑も減り、町内の安全を祈念する意味合いが強くなってきました。

伊予里神楽を奉納し、赤ちゃんも抱っこしてもらいました。


往古、古三津村の大明神地区に住吉神社、南条地区に祇園社、東山地区に岩崎八幡社とそれぞれ鎮座し
河野家松山城主が崇敬し、名門である曽根氏、田房氏、岡田氏等mの崇敬も厚かったが
明治3年嚴島神社へ一旦合祀の後
同12年7月村民の要望により現在地に奉遷、社名を久枝神社と称する。



境内には藤原純友に関する史跡があります。

藤原純友は瀬戸内にのさばる海賊を鎮圧する側にありました。
しかしながら、帰京もせず伊予国に土着し、承平6年(936年)頃までには海賊の頭領ななったとされ
宇和島の日振島を根城として千そう以上の船を操って周辺の海域を荒らし、やがて瀬戸内海全域に勢力をのばしました。

関東で平将門が乱を起こした頃とほぼ時を同じくして瀬戸内の海賊を率いて乱を起こし、藤原純友の勢力は畿内に進出

翌天慶3年(940年)には、2月に淡路国・8月には讃岐国の国府を、さらに10月にはついに大宰府を襲撃し略奪を行った。

朝廷は純友追討のために兵を差し向け
天慶4年(941年)5月に博多湾の戦いで、純友の船団は追捕使の軍により壊滅させられました。
純友は築前博多から逃げ帰って
子供の藤原重太丸と伊予の国・ここ古三津に逃げてきたと言い伝えられています。

古三津の大明神山に藤原純友の館があり、警固使である橘遠保に、子供の重太丸と一緒に捕らえられたそう



宮前文化遺跡を守る会

藤原純友公
貴族政治の腐敗と庶民生活への圧迫に抗して政治の改革を目指し立ち上った時代の先駆者であった。

純友館跡
久枝神社の南「大明神ヶ丘」にあったが、今はその跡をとどめない。
石碑のみ建っている。
純友はこの館で天慶4年6月20日死去。

駒立岩

純友が駒を立て沖を見たと伝へられている駒立岩は現在地より西北30米の田の中にあったが土地造成中に埋没されていたのを有志の努力で堀り出され昭和51年3月にこの地へ移し復元されたものである。

井戸跡
久枝神社境内にあり純友が使用されたと伝へられる石枠は今もその名残りをとどめている。

孀(やもめ)塚
当所より東北約400米孀塚山々頂にあった。
純友の乳母の墓と伝へられている。


鬼塚
東仙台西麓畑の中に在り、純友重臣の墓と伝へらる。


久枝神社 愛媛県松山市古三津町1257番

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