"いそ"あらため、イソじいの’山’遍路’紀行’闘病、そしてファミリー

“いそ”のページは、若者のキャリア形成を、目一杯応援するためにも“いそ”改め“イソじい”でリニューアル。

胃癌日記58(番外編1-8)

2012-11-27 18:31:08 | 闘病

胃 癌 日 記 58(番外編1-8)

-スキルス胃癌発見の日(10月15日)から1年の日々-

夏期登山、大峰山の弥山、八経ヶ岳

 

 (八経ヶ岳西稜から弥山展望、山小屋が見える)

 洞川温泉の旅館街を通り、名水「ゴロゴロ水」の採水場を過ぎ、洞川からの大峰山(山上ヶ岳)登山路の女人結界である大峰大橋までミニ観光を楽しんだ。大峰大橋手前の大橋茶屋からUターンし、再び温泉街を抜けて、洞川温泉センターで入浴。ゆっくりと疲れを癒した後、温泉センター入り口にある食堂で「名水コーヒー」を飲み、向かいの店でソフトクリームを買いのんびりと舐めながら、17時5分に出発。「名水コーヒー」は本当に美味しかった。

 途中道の駅黒薙に寄って土産を買おうと思ったが閉店していて適わず。やむなく土産なしで、R309、R169を辿り、飛鳥、橿原、南阪奈道路、近畿道を経由して19時30分に我が家へ着いた。

  (ゴール地点の登山口の看板)

 今回の山行は、体力・気力充実の次女と連れ合いにとっては、楽しく充実した山行、孫には星の観察も含め楽しくも充実し、新たな自信に繋がった山行だったと思う。私にとっては胃癌の手術後8ヶ月、退院後7ヶ月半であり、自分の体力がどれほどダメージを受け、また回復しているかを確認する山行だった。結局「悲しくなるほど」体力が落ちているのをつくづく実感させられた。手術後、松尾山や大文字山と簡単なハイキングに2回行ったが何も「ダメージ」を感じなかった。しかし今回のような結構ハードは山行になると一気に「身体のダメージ」が露呈した。当初考えていた、西穂高岳から奥穂高岳、槍ヶ岳の縦走でなくて良かったと思う。そこで滑落などすれば大変だったのは事実だが、実を言うと『楽しみは後でじっくり味わおう』といった『負け惜しみ』もある。

 このままでは決して終わらないぞと密かに腹を括っている。「体力回復」トレーニングに取組もうと思っている。そして来年か何時のときか、自分の山行の歴史の締めくくりとして「穂高縦走」「知床縦走」をやり遂げる、そんな決意も沸々と湧いてきた山行だった。

 (もう、登山靴もぼろぼろ)

(終わり)

 次回からは「胃癌日記」本編に戻ります。

 近日中に「胃癌日記  胃癌手術の日(12月9日)から1年の日々」をアップします。

(再見)

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胃癌日記57(番外編1-7)

2012-11-22 18:52:42 | 闘病

                 胃 癌 日 記 57(番外編1-7)

                  -スキルス胃癌発見(10月15日)から1年の日々-

                     夏期登山の大峰山脈、弥山・八経ヶ岳

 (八経ヶ岳西稜から弥山・八経ヶ岳を振り返る)

 8月16日 続き

 8時50分往路の狼平との分岐点である高崎横手着。小休止後8時55分発。暫くは歩き易い道を歩き9時30分にナメリ坂着小休止後9時40分発。登路を辿り下り10時40分栃尾辻着、座って小休止。行動食というかおやつを食べる。栃尾辻で帰路行程の約半分強。この辺まで来ると虻や蚋に悩まされる。15分の休憩後林道出会で泊まるのだろうかと思う。南西の大きな谷の方向には昨年の豪雨のときに起こったのか、十津川にい遭難碑を過ぎ林道を横切り再び登山道に入って、12時丁度に昼食とした。

 弥山小屋で作ってもらったお弁当は鮭弁当。ちょっと多いかと思ったがぺろっと食べてしまった。孫も「多い」と言っていたが残さず食べる。孫は昨日の昼弁当以後すこぶる元気。弁当を食べて暫く行くと、2人連れの山ガールが登ってくるのに出会う。バスで来るとこの時間になって、弥山まで登るのは少し時間が遅い。狼平小屋向かって大きな山崩れの跡が見える。

 さて、孫はますます元気で出発からずっと、

 「もうすぐ(村役場に)着く?」

 「早く温泉へ行こう。」

 言い続け、温泉をせかすムードメーカー。本日は下山後洞川温泉の日帰り入浴をしてから帰路に着く予定で、孫は一刻も早く行きたい様子。私にどんどん声をかけ激励する。

 13時30分に登山道で小休止後13時45分出発。後は登りで喘いだ階段を降りていく。私は痙攣しそうな脚を誤魔化し誤魔化し皆に遅れながらマイペースで降りていく。やがて、14時10分に登山口に到着し、結構ハードだった山行は終わった。

 (ゴール地点の登山口にて)

 登山口に着くと、すっかり「下界」でじりじり照りつける太陽で焼きつきそう。暑い中を全員で記念撮影やらブログ用の写真を写す。登山口まで来るとパニックになることも無いので、いろんな話が出てきた。八経ヶ岳でかの紳士が、

 「熊に出会った」

 と言った話。私は、パトロールなら熊に出遭ったらもっとちゃんと注意すると思う。少しずつ荷物を投げ与えるとか、大声を出さない、威嚇をしないとか、ひょっとすると、熊避けスプレーをくれるとか話した。そういったことや、次女がぬかるんだ道で熊の足跡を見たとか、熊が木の幹の皮を剥いだ跡、それもまだ新しい木屑が一杯落ちていたとか皆黙っていた話がどんどん飛び出してきた。

 車を駐車してある天川村役場に戻り、登山装備を解いた。私の靴は右側のソールは全部はがれ、かろうじてツエルトの細引きと修繕用の靴紐でぶらさがっている状態。左の靴も前半分のソールが剥がれ、ツエルトの細引きで括っている。私自身も結構ギリギリの状態で、情けないやら惨めやら。14時25分に登山装備を解いて、役場に「下山届け」をした。そしてわがファミリーは冷房を思い切り利かせた自家用車に乗って洞川温泉へと向かった。

(続く)

 

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胃癌日記56(番外編1-6)

2012-11-20 18:45:04 | 闘病

      胃 癌 日 記 56(番外編1-6)

          -スキルス胃癌発見の日(10月15日)から1年の日々‐

             夏期登山、大峰山の弥山・八経ヶ岳

 (八経ヶ岳西陵にある倒木の根のオブジェ)

2012年8月16日(水)

 本日快晴。朝5時起床、朝食の準備を始める。自炊の担当はメインが次女で、連れ合いが一緒に作る。朝は行動食をと言うことで、パンとコーンスープとチーズ。美味しくいただく。私の体調はどうやら大丈夫な様子。本日は下りなので昨日のような脚の筋肉の痙攣などはしないだろう。登山の当初計画では、6時出発6時間の行程だ。昼食を食べて昼の13時頃には出発点の天川村役場に帰り着く予定。

 朝食後荷造りを済ませて、それでも出発は30分遅れの6時30分になった。単独行の人は6時10分頃に八経ヶ岳方面へと出発した。連れ合いと次女と孫は先に出発、少し遅れて私も6時30分に出発。さて、まず八経ヶ岳を目指して行くが、どうも先に連れ合いたちがいる様子が無い。少しピッチを上げていくがどうも反応が無い。大きな声をかけてみるが反応も無い。

 「ひょっとするとファミリーは道を間違えたか。」

 と心配になり、とりあえず早いピッチで八経ヶ岳に向かった。6時50分標高1,915mの近畿地方最高峰八経ヶ岳頂上着。頂上には先行の単独行ともう一人反対側からの登山者(どこから来たのだろうかと思ったが)の2人だけ。私は単独行に

 「うちの家族を見かけませんでしたか。」

 と尋ねると、見かけない、道に迷うようなところは無い、と言う。困ったなあと思いながら登ってきた道へと振り返りながら、大声で次女を呼ぶ。2回目に読んだときにほんのかすかに返事の声が聞こえ、ホッとした。しかしどこで追い抜いたんだろう。

 3人が登ってくるのを待ちながら、他の登山者と話した。反対方向から来た登山者は、私の靴を見ながら、

 「おたく、靴が壊れてるやないですか。そんなんで登るなんて人に迷惑をかけるもとや。」

 と言われてしまった。少し言い方がぞんざいなので、私は、

 「潰れてしまいましたが、修繕も練習のうちですわ。」

 と言っておいた。かの紳士はまた、

 「こちらのほうに熊がいました。」

 とのこと。この紳士の雰囲気からして、私は話半分どころか話1割ぐらいに思っている。おそらく熊の糞らしきものか、熊の足跡らしきものを見たのだろうか、それとも昔の話それも他人の話かなあ位に思う。確かに大峰山脈には熊が生息するし、目撃情報も頻発している。本当に熊に遭遇したならどう対処したか、熊は何処に行ったか、など詳しく話してくれればいい。

 そんな話をしながら、私は八経ヶ岳からのすばらしい朝の景色を眺め、写真を撮っていた。北方には雲の上に大普賢岳や行者還岳、少し左手には山上ヶ岳、稲村ヶ岳の頂上が聳えている。ずーっと右手を臨めば大台ケ原が遠望でき、本当に近畿地方最高峰の「貫禄」の景色である。そうこうしているうちに、わが家族3人が登ってきた。

 (八経ヶ岳・1914m頂上の看板)

 「どこで追い抜いた?」

 「私ら、小屋の裏から景色を見ていて、お父さんより後から行った。お父さんえらく早く登ったのと違うの?」

 「ああ、コースタイム30分のところ20分弱で登った。」

 「脚、大丈夫なの?」

 「ああ、何とか。」

 とやりとりして、後は記念撮影。

 7時10分、八経ヶ岳発。先ほどの紳士の話をすると連れ合いは、

 「その人、パトロールの人と違うの。荷物も軽装だったし。」

  そんな話をしているうちに、7時25分弥山辻着。ここからは、れんげ道といってなだらかな尾根道を辿り、昨日の登山道に高崎横手で合流する。往路辿った狼平と違い、この道はアップダウンが余り無くて、歩きやすそう。尾根道で男性の単独行と出会ったが、昨夜は狼平小屋泊まりか。

八経ヶ岳の西北稜線を辿る。途中の小ピークは細尾山とか日裏山とか名づけられている。天候は快晴で風も爽やかで最高の気分。振り返ると山頂に山小屋が見える弥山、右手に連なる八経ヶ岳、行く手の方向には頂仙岳と快晴の青空を背景に一望。途中倒木の根っこが作った自然のオブジェを見たり、きのこや生き物の写真を撮ったり、ゆっくりペースで下りていった。熊の足跡らしきものも見かけた。蹄のある鹿や指の長い猿の足跡もあちらこちらに。現在元気一杯で意気軒昂な孫がパニックにならないように黙っていたが。

(以下続く)

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胃癌日記51(番外編1-5)

2012-11-16 19:50:06 | 闘病

      胃 癌 日 記 51(番外編1-5)

      -スキルス胃癌発見の日(10月15日)から1年の日々-

              夏期登山の大峰山脈、弥山・八経ヶ岳

 

 (近畿地方最高峰の八経ヶ岳西面)

 (8月15日の続き)

 暫く尾根道を歩くと下り坂となってきて、だんだんと沢の音も聞こえ出してきた。狼平が近づいてきている。林の中の急な下り坂を行くとやがて木々の隙間から弥山川の源流と狼平の吊橋の橋桁が見え出した。孫が吊橋を待ち望んでいる。渡りたいらしい。

「吊橋や。」

「本当や。はよ渡りたい。」

 吊橋の近くまで来ると、立派な狼平小屋が見える。『今日はここでビバーグかも』と1時間半前にはそんな思いもよぎっていたが、何とか辿り着けたし、不調なりにマイペースで歩き続けることが可能な状態に回復してきた。

 15時40分狼平小屋着。吊橋で記念撮影をしたり、小屋の中で休憩をしたりする。

 15時50分狼平発。後は弥山まで最後の登り。小屋からかなりの高さまで快適で綺麗な木の階段道が続いている。ここから頂上までコースタイムで上り1時間、下り45分となっている。そういったところはよほど登りがきついか、あるいは下り道が歩き易いかどちらかなのだが、この道は歩きやすい道なのだろう。小走りでも下りて来れそうだ。

 (狼平から弥山へと続く 木の階段道)

 20分ほどの木馬道のような登りを過ぎると山道に戻った、ところどころ植生保護の為のカモシカ・シカよけのネットを越える。登山道にはネットは張られず、道の部分が開かれているが、足許に穴が掘られ、格子状の鉄板をかぶせている為に、シカは通られないようになっている。次女と孫は先に登らせて、私はマイペースで登る。連れ合いは私の少し前を歩いていく。

 最後の登りを踏ん張ると、やがて次女と孫に遅れること20分、17時00分に弥山小屋の前の鳥居に出た。感激と言うよりもホッとしたというのが実感。山頂は雲の中で風も強く寒い。先に着いて宿泊の手続きをしていた次女と孫も一緒に皆で山頂の弥山神社へと向かう。標高1,895mを踏みしめて、いろいろあったけど無事ここに来られたことを感謝してお参りし、そして皆で記念撮影。

 お参り後小屋に入る。本日の宿泊はわがファミリー4人のほか、単独で7日間かけて大峰奥駈に挑んでいるおじさん。2人連れのおじさんで行者還トンネル西口から往復する登山者の合わせて7人。全員同じ部屋。山小屋だから雑魚寝でも構わないのだが、単独行の人は声が大きく、酒飲みで、まあ楽しい話ではあるが9時の消灯まで良く喋っていた。

   (弥山頂上の 弥山神社)                 

 18時30分、わが一行は自炊で、本日のディナーはカレーライス、切干大根(水で戻しただけで生)と昆布のサラダとスープ。フリーズドライのカレーでこれがなかなか美味しい。少し高いが結構本格的な味で、ボンカレーなどよりははるかに美味しいと思う。外は雨が降り出している。

 夕食を食べて、明日用のお茶を沸かして片づけをし、早々と布団に入っていると単独行の人が

「星が出ていますよ。」

 とのこと。先ほどまで雨だったのにもう晴れているのか。星座の観察が夏休みの宿題で、星に関心を持っている孫が跳び起きて、続けて連れ合いが跳び出して行った。私も布団から抜け出し、小屋の外へ出ると空は晴れ渡り満天の星。肌寒いほどの冷気だが、それがかえって鮮やかに星の光を研ぎ上げているよう。満天の星が3次元の輝きを放っている。連れ合いが、

「ねえ、どっちが北?」

「八経ヶ岳を後にして、少しだけ右のこの方向。」

 と私が教えると、孫と連れ合いは早速持参の星座表の方向を合わせる。私はあまり星は詳しくないが、それでも天の川がかなりはっきり見え、多分だけれど「夏の大三角形」などが見られた。プラネタリウムとはひと味もふた味も違う、真夏の冷気の中での『本物の』3次元に輝く天体ショーに浸りながら、

「明日はいい天気だなー。」

と、ふと思った。厳しかった体調も癒される思いがした。

(以下続く)

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胃癌日記50(番外編1-4)

2012-11-15 19:25:43 | 闘病

     胃 癌 日 記 50(番外編1-4)

         -スキルス胃癌発見(10月15日)から1年の日々-

           夏期登山、大峰山脈の弥山・八経ヶ岳

 (八経ヶ岳西稜線から弥山を振返る。小屋が見える)

 

 14時15分小休止。これは私が要求した。このあたりで村役場から標高差約950m以上登っただろうか。私の脚が言うことを聞かない。最初の急登から誤魔化し誤魔化し登ってきたが、いよいよ脚の筋肉に激痛が走る。きついコムラガエリが繰り返し起こってくるような症状で、筋を伸ばしたりマッサージしたりするが、治まらない。胃癌手術の退院後毎日の通勤で、10kmは歩いているのだが、やはり手術後の体力の低下がこんなところで出てくるのか。少し悲しいやら複雑な思いになった。

 

「これは、無理かもわからん。」

 

「どうするの?」

 

「皆は元気だし、次女がリーダーで計画通り登山して、俺は下りるかもわからん。下りて天川のどこかに泊まって、明日皆が戻ってくるのを役場で待っていてもいい。」

 

「一人で下ろされへん。」

 

「俺は大丈夫。それより皆で行動したほうがいい。」

 

 (弥山頂上にある大きな看板。元気な孫とツーショット)

 そんなやり取りをしながら脚をマッサージし続けた。暫く休憩し次女からポカリスウェットを貰って飲んで、脚をマッサージしたりストレッチを続けているうちに、激痛がだんだんと治まってきた。この先から暫くは、ナメリ坂、ナベの耳など上りやすそうな緩やかな道のようだ。

 

「少し収まってきた。後標高差300m程やし、とりあえず狼平までは、誤魔化し誤魔化しでも行ってみようか。いよいよ駄目だったら狼平小屋で考えるわ。暫くは登りも楽そうやし。」

 

「大丈夫?」

 

「たぶん大丈夫やろ。」

 

 ふと『へらへら』と笑った状態の登山靴に目をやり、なんとも情けなくなってきたが、気を取り直し14時25分出発。暫く行くと思ったとおりナメリ坂、ナベの耳と緩やかな登りで、ここは何とか順調に過していく。やがて頂仙岳(1,718m)の西側を大きく巻いたあと再び尾根に合流すると前方の視野が拡がった。そして前方には、目的の弥山・八経ヶ岳、それに連なる細尾山、日裏山が視野の中に飛び込んできた。15時10分、「やっと来た」これが正直な実感だった。

(以下続く)

 

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胃癌日記49

2012-11-14 18:11:00 | 闘病

    胃 癌 日 記 49(番外編1-3)

        -スキルス胃癌発見(10月15日)から1年の日々-

          夏期登山、大峰山脈の弥山・八経ヶ岳

 (近畿地方最高峰の八経ヶ岳からの大峰山脈)

私も結構しんどかったけれど、取り付きからの急登で一気に高度約300m稼いで、小さな送電鉄塔や926mのピークを巻き、スタートから約2時間の登りで11時05分に大きな送電鉄塔に到着した。電磁波が嫌で、鉄塔から少し離れて小休止。最近電力会社がテロ対策として、送電線や送電鉄塔の地図を国土地理院に情報提供しなくなり、2.5万分の1地図や5万分の1地図から、送電線・送電鉄塔の記載がなくなるそうだが、これはあったほうが有り難い。特に里山や大峰山脈のようにルートファインディングに苦労する山域では本当に重宝する。今のところ昭文社の山地図には記載されているが、是非今後もお願いしたい。

小休止の後、大鉄塔から暫く行くと天川川合から続いている現在使われていない林道に出会い、少し林道を歩き再び山道に入ると直ぐに、遭難碑がある。皆で冥福を祈り、あわせて今回の山行の無事を祈願した。

再び急緩の山道を登り続け、やがて12時35分に栃尾辻に到着。計画の10時着から2時間35分遅れ。少し気にはなるがまあこんなもんか。

しかし、ここでとんでもないことが起こった。山屋として、言語道断のことであるが、わたしの登山靴の右足ソールの前部が外れ、「へらへら」と笑った状態になってしまった。装備の事前点検の怠りで、あってはならないことである。痛烈に反省しつつ、とにかく応急にツエルトの細引きで縛り、歩けるようには修理する。左足も剥がれてきており「へらへら」と笑ったような状態になるのは時間の問題なので、左靴も同じように修理した。

 (弥山(1,895m)頂上の弥山神社)

栃尾辻には非難小屋がある。管理者は誰だか分からないが、場所としては弥山・八経ヶ岳西北稜のポイントとなるところなので、もう少し手入れして欲しい。少なくとも吉野熊野は国立公園なのだから、環境庁はもっと関わって欲しいと思う。避難小屋から50m位登り昼食とする。昼食は私が作ったおにぎりとゆで卵、それに連れ合い持参の丸干しにチーズ。孫はこの頃はすっかり元気を取り戻し、ムードメーカー。次女は至って元気でリーダーとして孫を引きつれて先頭でどんどん登っている。

昼食後13時10分発。暫く行くと1,518mのピークの西側を巻く道を辿る。巻き道といっても快適な道もあれば急峻な道もある。ここの道は大峰らしく「へつり道」だ。次女が先行し、孫が慎重に続いて登り、連れ合いが続き私が「しんがり」で登って行く。暫く「へつり道」を行き、前3人が過ぎたそのあと、私が「へつり道」の上に落ちていた木の枝に乗り体重をかけたとたん、その木が朽ちていて幹ごと折れてしまい、その反動で右側急斜面に滑落してしまった。

「しまった」

と一瞬思い、身体のコントロールが利かないままに谷側に2回転ほどして、『これは遭難か』と頭の中をやばい思いがよぎった。幸い5m程落ちたところで倒木に頭は打ったけれど何とか滑落が止まった。運が悪ければ斜面の見えない底まで滑落してしまってもおかしくない状況であった。止まった場所で骨折や筋列断が無いのを確かめ、ゆっくりと慎重に木の根っこを掴み、身体を確保しながら起き上がった。そして慎重に慎重に急斜面を這い上がり何とか「へつり道」まで戻った。身体は何とも無いようだ。体中泥だらけは仕方が無い。飲料のペットボトルをタオルで拭いていると、タオルがどろどろになってしまった。情けないやら悔しいやら。みんながびっくりして心配して、孫などは少し落ち着くと

「じいちゃん、大丈夫?」

を連発。何とか気を取り直して「へつり道」へ戻り、暫く歩くと尾根に合流し尾根道を登り続けた

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胃癌日記48

2012-11-13 21:01:50 | 闘病

     胃 癌 日 記 48 (番外編パート1‐2)

           ‐スキルス胃癌発見の日(10月15日)から1年の日々‐

              夏季登山、大峰山の弥山・八経ヶ岳

 (近畿地方最高峰の八経ヶ岳から大峰山脈を臨む)

 

 弥山・八経ヶ岳といっても、コースによっては実はなかなか厳しい山行になる。弥山は標高1,895m、八経ヶ岳は近畿地方の最高峰で標高1,915mの秀峰であり、その上アプローチが不便で工夫が要る。「ファミリー登山」と表題に書いてあるが、これは孫も連れてファミリーで行ったと言うことで、いわゆる「ファミリー向けコース」などとガイドブックに書いてある「ファミリー」とは違う。出発地の天川村役場の標高は608mであり標高差1,300m余りを、登山地図のコースタイムでも休憩時間を除いて5時間45分、普通は7時間コースといわれている結構本格的な登山コースである。私は登山計画で休憩を含めて7時間30分の行程を想定した。結果、いろいろあったが休憩を含めて8時間かかっている結構ハードなコースであった。また、大峰登山は「足許を見ながら登らなければならない」と言われているが、ルートファインディングやピークの巻き道もへつり道が多く、気を遣う。小学生が行くには経験が豊富で、体力・気力のある大人が同行し、責任を持ってサポートしなければならない。

 

 さて、そういった弥山・八経ヶ岳に、体力・気力充実の次女、なかなか粘り強い連れ合い、今までの山行は、天王山、大文字山、北比叡の清龍寺まで雪中ハイキング、北比叡から大原大尾山、葛城山のハイキング経験で結構頑張りやで山好きの小学校4年の孫、そして手術後の体力に不安のある、つまり唯一不安含みである私の4人のファミリーで挑んだ。

 

 (狼平小屋から弥勒山へ登る、木の階段道)

2012年8月15日(火)

 

 朝4時10分起床。私が担当の本日の朝・昼食のおにぎりを作り出す。本日は5時出発予定で、7時から登山開始の予定。4時50分には準備は完了したが、誰も起きてこない。私が起しに行くと寝ぼけ眼でようやく起きだし、結局家発は5時45分。自動車に乗り奈良県吉野郡天川村に向かうが、途中道路の様子が高速道路の工事中やらで以前とすっかり変わっており、迷いながら8時15分に天川村役場に到着した。

 

 天候は快晴。但し天気予報では時々曇りか雨とのこと。先日来、昨日まで近畿地方で豪雨があり雨には気を遣う。役場の駐車場で身支度をして、登山届けを提出し、入念にストレッチの後8時35分に出発。天川村役場は標高608mと表示が出ている。これから1,300mの標高差を登らなければならない。身が引き締まる思いだ。

 

さて歩き出して15分ほどして、どうも様子が違う。登山道の取り付きを間違えたようだ。来た道を引き返し、看板のあるところまで戻るとそこが取り付きだった。もう一度気合を入れなおし、9時丁度に登山口に入る。実に計画から既に2時間遅れ。このままだと計画の2時間遅れのまま順調に行って16時30分に弥山小屋着ということになる。

 

 9時、民家の裏道から登山道に入って最初は階段状の急登。途中から山道になり9時35分最初の送電鉄塔に着く。最初急登だったせいか孫が不調。

 

「お腹が痛い、もどしそう。」

 

とか言って実際に顔色も良くない。排便を試みるが結局出ず。何とかあれやこれやと励まして20分の休憩後出発。但し孫の不調は全行程を通じてこのときだけで、後は元気良く登山を満喫しただけでなく、一行のムードメーカー的な役割も果たした。

(以下続く)

 

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胃癌日記47(番外編①)

2012-11-12 18:00:10 | 闘病

      胃 癌 日 記 47(番外編①)

           -スキルス胃癌発見から1年(10月15日)の日々-

              夏期登山、大峰山脈の弥山・八経ヶ岳

  (近畿地方最高峰の八経ヶ岳からの大峰山脈)

 

 2012年8月15日から16日にかけて、連れ合い、次女、そして小学校4年生の孫の4人で、大峰山脈の主峰である、弥山・八経ヶ岳登山にファミリーで挑んだ。私としては実は自分の山行の「まとめ」の一環として、今夏は西穂高岳から奥穂高岳へと縦走しできれば槍ヶ岳まで行きたいと考えていた。勿論登山は一生のものであり、どこかで「まとめる」という意味ではなく身体が動く限り続けたいと思っているが、それでもいわゆる「本番」と言うか、厳しくチャレンジフルな山行はそう何時までも出来るわけではない。そういった意味での「まとめ」の山行の一つとして春にその話を連れ合いにすると、にべも無く

  「だめ、金が無い。それに全身麻酔の胃癌の手術をして、胃を3分の2摘出して、半年やそこらで何を言ってるの。体力が、がたっと落ちているのに駄目にきまっているでしょ。」

  と言われ、決定的に駄目出しを食らった。

 (弥山取り付きにある 狼平小屋) 

  それでは、ということで次女に入れ知恵をし、私でなく次女の提案として、今夏は弥山・八経ヶ岳に行こうと連れ合いを「攻略」することとした。以前連れ合いと次女との3人で2005年から2007年にかけて吉野から熊野本宮までの大峰奥駈縦走を達成している。但し第1回の吉野から洞川までは次女は参加しておらず、また女人禁制の結界は通らず迂回した為、山上ヶ岳は登頂していない。弥山・八経ヶ岳へは柏木の村からテントや水を担ぎ上げて登り前鬼まで縦走したときに登頂しており、大変充実した良い思い出を持っている山だ。それならばということで、連れ合いの許可も出た。

(以下続く)

 

 

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胃癌日記46

2012-11-11 00:19:30 | 闘病

          胃 癌 日 記 46

             -スキルス胃がん発見から1年(10月15日)の日々-

 (剱岳頂上から立山連峰。遠く槍ヶ岳が遠望)

 

 9月に入ると、仕事での夏期の研修やら学会発表の最後の追込みで忙しい。

 

6~7日は研修で学会は8~9日であった。研修が終わりそのまま学会で、今年の学会発表は『キャリア教育への現場からの提言』として、15コマのキャリア教育シラバス作成を試みた。この発表に至った私の問題意識は、大変厳しい若者の就職をめぐる状況の中で、また、電機業界をはじめとした大変なリストラの嵐の中でも、若者たちが夢を壊されずに主体的に自分の希望する進路・就職をイメージしそして実現する為にキャリア教育を通じてどのようにサポートできるのかということである。以前から私が考えていたテーマであり、このテーマは現在の私にとってのライフワークと言えるだろう。今回の学会発表についても『胃癌日記番外編パート2』として別途アップする。

 

学会の帰りに大船に寄り甥のYと姉のTと合流し中華料理のディナーを食べる。9日は大船に泊まり翌10日は鎌倉の姉Hを表敬訪問。姉Hと姉Tと私の3人でお昼は大船にある、安くて美味しい回転寿司を食べ、いろんな話に花が咲いた。

 

  (剱御前から剱岳を見る)

 

 9月16日は、結婚して釧路に住む3女E夫婦が家に来た。夫婦で沖縄旅行に行く途上に寄ったのだが、1年以上会っておらず久しぶりだった。夜は団欒に手巻き寿司を用意する。Eは旅行の帰りの22日にも家に寄り1泊して、翌23日には伊丹空港まで送っていって、Eの連れ合いと合流する。仲良くやっていて何より。昼食を一緒に食べて昼過ぎの飛行機で北海道へと帰路についた。少し寂しい思いでもある。

 翌日からは私は再び地方出張。夏期の地方出張はこれで終わり。今年も収穫も多く課題も多くあった出張だった。10月に入ると私が担当する仕事のフォーラムがいよいよ始まり、また仕事に忙殺される。9月になって再び通勤時に往復合計8Km、1日18,000歩以上歩くようになって、体力が戻りつつある実感がする。忙しい仕事に向かっていく気力が湧いてくる。そうこうするうちにスキルス胃癌発見の10月15日の1年を迎えた。

(続く・・・次回より3〜5回にわたり「胃癌日記(番外編)」

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胃癌日記45

2012-11-08 19:44:14 | 闘病

        胃 癌 日 記 45

          -スキルス胃癌発見から1年(10月15日)の日々-

 (モルゲンロートの裏剣と仙人池)

 

 8月15日と16日は、連れ合い、次女、下の孫との4人で登山に挑戦。

 

 8月15日から16日にかけて、連れ合い、次女A、そして小学校4年生の孫Tの4人で、大峰山脈の主峰である、弥山・八経ヶ岳登山に挑んだ。私としては実は自分の山行の「まとめ」の一環として、今夏は西穂高岳から奥穂高岳へと縦走しできれば槍ヶ岳まで行きたいと考えていた。勿論登山は一生のものであり、どこかで「まとめる」という意味ではなく身体が動く限り続けたいと思っているが、それでもいわゆる「本番」と言うか、厳しくチャレンジフルな山行はそう何時までも出来るわけではない。そういった意味での「まとめ」の山行の一つとして春にその話を連れ合いにすると、にべも無く

 

 「だめ、金が無い。それに全身麻酔の胃癌の手術をして、胃を3分の2摘出して、半年やそこらで何を言ってるの。体力が、がたっと落ちているのに駄目にきまっているでしょ。」

 

 と言われ、決定的に駄目出しを食らった。それでは、ということで次女に入れ知恵をし、私でなく次女の提案として、今夏は弥山・八経ヶ岳に行こうと連れ合いを「攻略」することとした。以前連れ合いと次女との3人で2005年から2007年にかけて吉野から熊野本宮までの大峰奥駈縦走を達成している。但し第1回の吉野から洞川までは次女は参加しておらず、また女人禁制の結界は通らず迂回した為、山上ヶ岳は登頂していない。弥山・八経ヶ岳へは柏木の村からテントや水を担ぎ上げて登り前鬼まで縦走したときに登頂しており、大変充実した良い思い出を持っている山だ。それならばということで、連れ合いの許可も出た。

 

 このときの山行記録は別途『胃癌日記番外編パート1』として、アップする。

 (剣沢の長次郎谷出会い。柴崎、宇治長次郎らがこの沢を登り詰め

                     剣岳の頂上にいたった)

 

 ファミリーキャンプに始まった楽しい夏休みも、大峰山行で終わった。胃癌手術後8ヶ月過ぎたが、やはり体力の衰えを実感させられた結果となった。これは少なくともある程度は何とか回復したいと思っている。そんなことを思いながら8月の下旬は地方出張へと出かけた。

(続く)

 

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胃癌日記44

2012-11-07 18:21:30 | 闘病

        胃 癌 日 記 44

         -スキルス胃癌発見から1年(10月15日)までの日々-

 (モルゲンロートの裏剣の岩峰群)

 

2日目、朝5時からYと一緒にバス釣り。一旦テントに戻ってパン、ハム、コーヒーの朝食後上の孫の希望で近所の在所に有る雑貨屋さんに行く。目的は釣具も売っていると言うことで、リールの物色。歩いて5分ほどの雑貨屋さんは、年配のおばさんが店番をしていた。孫はリールを熱心に見ている。

 

 「何か欲しいものはあるか?リールは高いからあかんけど。」

 

 「そしたら、ワームを買うて。」

 

 「ワームてルアーの疑似餌か?」

 

 「そうや」

 

 とのことで、ワームを買う。テントへの帰りに話をする。リールは商売っ気がないのか家の近所の釣具屋から比べると、めちゃくちゃ安い、欲しかったとのこと。欲しいものは何でも買い与えてもいけないし上の孫もそのことは心得ているが、釣りの話をしているときは本当に活き活きしている。私も小・中学校の頃近所の淀川で、鮒、もろこやはす(はや)などを釣っていたが、はっきり言って釣りはあまり好きではない。道具も昔は手作りで、今の道具や釣り方たは全く異なっており、孫に参考になる話もできないのが少し心残り。

 

 昨夜と今朝の上の孫との『ふれあい』で、すこしコミュニケーションのきっかけは拡がった。

 

 昼ごはんは、インスタントラーメンと昨夜のバーべキューの残り、晩は結構本格的味わいで美味しかったインスタントカレー。上の孫の釣果はブルーギルほかで2匹。あまり大量には釣れないようだ。夜は浜辺で花火を楽しみ、満天の星の下就寝。ただ、夜中から明け方にかけて雨に降られた。

 

  (マキノ知内浜南浜のキャンプ場)

 

 3日目の朝は心配していた雨も上がり、晴れてきそうでどうやらテントも乾きそう。孫たちは朝から釣りと泳ぎ。やがて上の孫も泳ぎだす。下の孫と悪ふざけをして、ひやひやする。こちらも一緒に琵琶湖に浸かり、孫たちと遊ぶ。日も晴れてきてテントも乾いてきたようで、午前中に撤収して帰り支度。本日上の孫の釣果はブラックバス1匹で、3日間合計4匹。目標の5匹には1匹届かなかった。孫の話では『魚がすれていてあまり食いつき寄らん』とのこと。管理事務所の前で、カブトムシを1匹100円で売っており、下の孫につがいで買った。土をほじくるとつがいでなく、雄3匹、雌1匹が入っていた。雄同士は喧嘩して死んでしまうので、2匹は帰る前に逃した。そんなことでばたばたしながら、昼前には荷物も積み込み楽しかったキャンプも終了し、キャンプ場を後にした。帰りは渋滞も無く順調に走り、家族亭で遅めの昼食を食べ、ヒマラヤで下の孫の登山用の靴と上の孫の偏光サングラス(つり用)を買う。その後家に帰り着き、夏休み前半のイベントであるファミリーキャンプは終了。

 

  上の孫は13日に友達の家族に海釣りに連れて行ってもらった。その日は連れ合いと下の孫と3人で墓参りに行った。5時半ごろ上の孫が帰ってきて、釣果は小鯵が殆どで20匹位。早速小さい鯵を捌いて天婦羅にする。初めて孫の釣ってきた魚を食べさせてもらった。『格別な味』と言うわけではないが、美味しかった。                                                                                            (続く)

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胃癌日記43

2012-11-06 19:21:53 | 闘病

     胃 癌 日 記 43

   -スキルス胃癌発見から1年(10月15日)までの日々-

 (剱岳頂上から八ッ峰と源冶郎尾根上部)

 

 8月に入ると仕事のほうは『夏休み』モードに入ってくる。今年の夏休みのイベントは、前半がファミリーキャンプ、後半が胃癌の手術後初めての『本番』に近い登山。『本番に近い登山』というのは、実は以前から私のいわばチャレンジ登山のまとめとして、体が動けなくなるまでに西穂高岳から奥穂高岳までの縦走を目指していたのだが、流石に今年は全身麻酔でしかも胃の3分の2を切除した後7ヶ月やそこらで無理だろう、と言うことになり、それではということで近畿地方最高峰の八経ヶ岳、弥山に登山することになったということ。

 

 さて、キャンプのほうは8月4日から6日まで2泊3日で、ほぼ毎年行っている琵琶湖のマキノサニービーチに出かけた。今年のメンバーは連れ合いと中学3年、小学校4年の孫と私の4人。孫たちの母親である長女は仕事が休めず欠席となった。下の孫は大喜びで、魚採りや虫取りやらに期待を馳せていた。上の孫は受験もあり何かと難しい年頃ではあるが、魚釣が大の趣味で今回のキャンプはバス釣りに皮算用をしている様子。

 

 8月4日は朝6時半に起きて準備した荷物を車に運び込み8時15分に出発。いつものことだが湖西道路の雄琴ランプの渋滞に巻き込まれたが、11時35分にマキノ知内浜到着。本日マキノでは『ふるさと祭』や花火大会のイベントがあるとのことでキャンプ場は超満員だが、わがファミリーは予約してあったキャンプサイトに孫たちも力を出して皆でテントを設営した。うな丼の昼食を食べた後孫たちは早速バス釣に泳ぎに。

 

 (水が透き通る奥琵琶湖で遊ぶ)

 夕方まで遊んで17時ごろからバーべキューの準備を始め、18時15分にバーべキュースタート。日頃家ではできないバーべキューに孫たちは大いに堪能したことだろう。20時からは『ふるさと祭り』の花火大会も始まった。かなり近いところ、海津大崎の方向で花火を打ち上げているが松林越しになってよく見えない。連れ合いと下の孫は良く見えるところを探しに浜辺のほうに行ってしまい、テントサイトは上の孫のYと私だけ。

 

「Y。向うの方で夜店が出ているし、ちょっと行こうか?」

 

と、上の孫を誘った。中学3年生で受験も控えておりストレスもあって難しい年頃だ。私も最近は殆ど話しもせず、よくないなあと思いながら話す機会を作ろうとしていた。Yはお決まりの科白で、

 

「なんか買うてくれる?」

 

「何が欲しい?」

 

「土産になるグッズ」

 

といったやりとりで、花火の打ち上げ地点の方向にある夜店の屋台に2人で出かけた。知内川の橋を渡り超満員の北浜のキャンプ場を通り抜けYのことを思っていた。入院のときに見舞いに来てくれた時の所作や、胃癌で入院することを言ったときには「じいちゃん、死んでしまうのか?」と心配げに聞いていたとのことや、他人との関わりではいつも気を遣う心優しい孫であることを思いながらいろんな話をした。私の病気のこと、子育ての苦労話や楽しかったこと、私の中学校や高校時代のこと

 

、連れ合いとのことや母親(長女)との思い出話等など。花火の打ち上げ地点はこの先の海津大崎の『付け根』の辺りのようだ。

 

 やがて夜店の場所まで来て、欲しいものを尋ねると最初はグッズ系のものを言っていたが、欲しいものがないと言って、かき氷になった。かき氷を食べながらキャンプサイトへの帰路もいろんな話をしながら歩いた。彼女のこと、結婚のこと子育てや家庭を持つと言うことと私の体験など。余り孫は話しに乗ってこないので、余計なことに彼女はいるのかなどと聞いてしまった。答えは予想通り、

 

 「興味ない」

 

 とのこと。私の悪い癖だが、話を聞きだそうと思って話を振る時に自分のことを中心に喋りすぎてしまう。相手にとって見れば『なんだこの人、余計なお世話だ』ということになって、コミュニケーションが途切れてしまう。それもあって、もともと孫は家の中では無口なせいか、あまり喋らなかった。私も『男同士』の話をもっとしたかったし、孫も本当は言いたいことは一杯あったんだろうな、と思うと反省。

 

本日孫は粘りに粘って釣果ブラックバス1匹。

(海津大崎から朝日が昇る)  (花火大会、やっと写った一枚)

 そんなことで、キャンプ初日は終了。満点の星空の下で就寝。

                                   (続く)

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胃癌日記42

2012-11-05 19:20:56 | 闘病

          胃 癌 日 記 42

  (大峰山脈の弥山近くの 狼平山小屋)

 7月上旬には、若者の雇用状況を少しでも良くするために京都の経済団体・経営者団体への要請と懇談に参加した。この取り組みは幅広く労働組合が集まって行ったものだが、昨今の若者に対する、ハラスメントも有りの風当たりの強さが社会的・構造的にもなっている状況の中で、こういった取り組みは非常に大事なことだと思う。

 この懇談と要請に取組んで思ったことは、最近『若者の替わりはいくらでもいる』といった状況を背景に、若者の『使い捨て』『新卒切り』『内定辞退への追込み』『ハラスメント』などが横行しているが、実は『まともな会社』や『真面目な経営者』が大変多いということに大きな意味で安心感を持った。過労死やうつ病の発症をなくし、『何万人ものリストラ』をする企業が『決断』と言われ、もてはやされて株価が上がるような社会はおかしい。そう思っている会社や多くの経営者に触れて、良かったと思う。リストラによって『経費』が削減され利益が生じ配当が可能になる、だから株価が上昇するなどという、競馬の予想新聞の解説のようなロジックがまことしやかに言われるいわば退廃的な風潮に異議をとなえる、そういった企業や経営者の皆さんが、『哲学』や『理念』を持って日本経済の再構築に頑張っていただきたいと思う。

 (弥山山頂の弥山小屋玄関で、小学校4年の孫と)

 仕事のほうでは、私が呼びかけてケース・カンファレンスをスタートさせた。若手からベテランまで日頃の仕事を通じてのケーススタディをして、仕事のヒントを得たり自己研鑽に役立てばよいと思っている。これは私は退職まで続けようと、その後も誰かに引き継いでいって欲しいと思っている。

 7月上旬の終わりからは、例年のことだが仕事で地方の優良企業訪問がスタートした。この業務は私が担当責任であり、引き継いだ2年前からこの仕事の目的や成果検証、具体的には大いにメリットを生む仕組みづくりに取組んできた。今では多くの地方優良企業と相当深いネットワークを構築することに成功し、具体的な成果も挙げている。この業務・仕事も私の退職までには、より大きな成果を生み出せるような仕組みを作っておき、引き継いでいきたいと思っている。

 7月14日は、亡くなられた恩師のS先生の著作集出版記念の集い・シンポジウムを開催した。著作集の発刊には私も編集委員として参加し、S先生のゼミ卒業生で社会人としての視点から、いろんな意見や思いを述べさせていただき、少なくない部分で私の意見も取り入れられている。また、校正作業にも連れ合いの応援も得て参加し、私だけでなく福祉の現場の実践者、労働組合、ゼミ卒業生、S先生の理念や生きてきた姿に薫陶を受けた人たち、多くの学識者等々が本当に手作りで作ってきた著作集である。また、この集い・シンポジウムの開催に向けてホームページを更新し学部卒業生に広く呼びかけた。結果80名以上の参加があり、これに関わってきた人たちや、これから新自由主義に対置しS理論の今日的な実践を目指す若手等の確信になったと思う。

 7月28日は学会での長いお付き合いの有るY女史の『出版をお祝いする会』に出席する。Y女史は社会人として仕事の傍ら大学院に通い、修士を経て博士課程で研鑽を積んでいる。今回出版した本は、自らの研究の集大成を博士論文として纏め、それを出版されたということである。彼女の利発な聡明さと頑張りは、今後チャンスがあれば研究職の道を歩むのかどうか分からないが、この一作では終わることなく、更に世に出て行くのだろうと思う。その若さとバイタリティを少し羨ましく思う。

  (弥山山頂の弥山神社と、左は祠)

 7月にはもう1本映画を見た。『臨場』という映画で、鑑識で死体検案をする警察官がストーリーの主人公。凶悪殺人犯が精神障害と偽装して無罪になっている不条理に、犯罪者を私的に抹殺する法医学者と鑑識警察官との絡みのストーリーが面白く、また内野聖陽の泥臭い演技が良かった。

                                                         (続く)

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胃癌日記41

2012-11-02 20:05:35 | 闘病

                  胃 癌 日 記 41

 (近畿地方最高峰の八経ヶ岳から大峰山脈を望む)

 スキルス胃癌発見後1年目(2012年10月15日まで)

 まもなくスキルス胃癌発見から1年を迎える。2011年、薬剤ショックで逝った友人のSのお通夜の翌日、2011年10月15日が年に1回の胃カメラの定期健診だった。N先生の確かな慧眼で、ごく初期のスキルス胃癌を発見していただいて宣告され、私の人生は意識していたわけではないが、生きている営みが活発になり、生きている証を残そうと今までに無かった生き様を結果的にはしてきたようだ。これはある種、枯れ際に見事に花が咲くような「本能」のようなものかもしれない。

 「労旬」誌への寄稿と小論の掲載、高等学校綜合科での講演、「ネットワーク京都」誌での座談会での発言、2010年から継続している学会での2012年度の発表は、自分の問題意識を集大成したテーマで報告した。7月に入ると若者の就職状況の改善を目指して経営者・経済団体への申し入れと懇談を行い、職場ではケース・カンファレンスを取りまとめた。最近明らかに増えてきた読書量、結構充実したワーク・ライフ・バランス、等々が私の現況である。

 1年前スキルス胃癌を発見した10月15日から退院後半年の間にも、いろんなことがあった。

 7月1日には姉Hへの「陣中見舞」で鎌倉へ訪問した。6月30日22時大阪駅バスターミナル発横浜行きの夜行バスに乗る。明朝6時45分に横浜バスターミナル着で鎌倉へ。鎌倉の街を歩いてH宅へ向かう。途中ショッピングセンターで土産などを買い込み結局10時20分に到着。歴史を忍ばせる落ち着いた街を歩く結構な散歩でもあった。H宅では息子、つまり私の甥であるYとも合流し、久しぶりの再会に話が弾んだ。昼には鎌倉山近くにあるすばらしい庭を持つ料亭の檑亭(らいてい)にて3人でそば定食をいただく。姉宅から檑亭まではちょっとした山を越え、歩いて片道40分程度はかかる。結構な日差しの中、往復を歩いた姉は、年齢に比して脚は結構丈夫である。16時40分にまたの再会を約束して姉宅を後にした。途中甥宅に寄ってJR大船迄歩く。JR大船から横浜に戻り、再びバスターミナルから22時発の大阪BT行きの夜行バスに乗って帰路に着いた。結局この日は良く歩き回ったので、歩数計は28,821歩。

 7月2日は流石に長距離夜行バスでの朝帰りだったので仕事は休暇を取って、家に戻ってから小休止後午後には映画に出かけた。「一枚のめぐり合い」というアメリカ映画で、アフガンの戦場で一枚の写真を拾った兵士が、復員後PTSDに悩まされながらもその写真に写った女性を探す旅に出る・・・。ストーリーの背景の設定に戦争の悲惨さなど、メッセージを発信し丁寧に作ろうとする意図はわかるが、ストーリー特にエンディングが少し俗っぽくて物足りない気がした。これは私の感想。

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