"いそ"あらため、イソじいの’山’遍路’紀行’闘病、そしてファミリー

“いそ”のページは、若者のキャリア形成を、目一杯応援するためにも“いそ”改め“イソじい”でリニューアル。

胃癌日記89

2013-08-19 17:41:11 | 闘病

胃 癌 日 記 89

-スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月9日)までの日々-

 

 -スキルス胃癌手術1年半後のCT検査-

 

 5月10日はスキルス胃癌手術後のケアとして、年2回の腹部・胸部CT検査。今回で術後3回目となる。昼から年休を取って、15時過ぎにSI病院へ。予約であったので殆ど待つことなく検査開始となった。日常の生活は全く異常なしで快調だが、気のせいか年のせいか咳が出ることが時々ある。まあ、肺に転移かなどは全く気にすることも無いのだろうが、気休めのために今回は胸部の検査もお願いしている。

 

 名前を呼ばれて検査室に入り、上着だけを脱いでCTの機会に横たわる。すぐに撮影が始まり、終わるまで5分とかからなかった。なんの苦痛もなにも無くあっけないほど。10分ほど検査室の外で待っていると、CT撮影のデータをプリントアウトしたフィルムと所見を封入した封筒を預かり、会計を済ましてその足でかかりつけのNクリニックへ行く。

 

 NクリニックでN先生は、CTのフィルムを見てそして封筒を開封し所見を眺めていた。

 

 「Iさん。問題無しですね。」

 

 「先生。肺のほうも大丈夫ですか。」

 

 「全く問題無しです。」

 

 とのこと。手術後1年半。3回目のCT検査も、無事クリアーした。『予定通り』というホッとした気分なのだが、ほんの気持ちの片隅には、『本当に大丈夫なんだろうか』という気持ちが無くはない。後は25日の血液検査をクリアーするだけ。また、気持ちをリフレッシュをして、残された人生、ライフワークに頑張ろうといった気持ちになった。

 

 

 

 -学会参加で鎌倉も訪問。労働組合の大きなイベントで、パネルディスカッションのパネラーに-

 

 相変わらず忙しい日々で、その合間にNPO法人の設立に向けての準備も進める。ネットワーク作り、仲間作りを着々と進めている。毎週発行のパライソメッセージも軌道に乗ってきた。

 

 5月18日は、学会に参加。前日の夜行バスで出発し、早朝横浜駅着。学会は14時からなので、それまでの間鎌倉の姉宅を訪問することとした。

 

 鎌倉駅から歩いていくのだが、今回は違った道を散策がてら行くこととした。9時30分に鎌倉駅を出発して西口から暫く歩き、源氏山方面に立ち寄る。途中銭洗い弁天にお参りし、源氏山へ。100メートルもない低い山で頂上は公園になっていて、源頼朝の銅像なども有り、展望は無いのだが市民の憩いの場。源氏山から西に行くと葛原岡神社がある。由緒ある神社で、日野俊基を祀っているらしい。そこで参拝したあと参詣道を通り、広い通りに出て住宅街を通り山の上ロータリーへ。そこで道に迷ったが、歩き回っているうちにいつも通る道に出てきて、10時10分に姉宅着。1時間ぐらいの道のりだが、迷ったりぶらぶらしたこともあり1時間40分かかってしまった。

 

 姉宅で1時間ほどすごしてから退出し、東京の学会へと向かった。この日の学会は、障害者のキャリアデザインを考えるをテーマで開催された。講師は2名で、それぞれ現場で頑張っている方であり、日常の業務や、自分自身の問題意識にも関わることであり大変勉強になった。16時20分に学会が終了し、その後甥のYと合流し、コーヒーを飲み近況報告の交換をして、分かれる。17時50分の新幹線で帰阪。

 

  翌日の5月19日には、労働組合がみやこメッセで開催す『Union up 2013』というイベントで、パネルディスカッションのパネラーとして参加した。テーマは『ブラック企業について』であり、私はブラック企業とは、具体的にどんな例があるか、何故ブラック企業を告発するか、などについて25分間ほど報告した。ざっと200名以上の方が聞いておられたが、若者の参加も多く、最近の社会問題でもある『ブラック企業』への関心の高さが感じられた。報告するパネラーは私ともう一人NPO法人で労働問題や生活問題に実践的に取組んでいるK大学院生のK君。2人の報告を基調に、労働法の研究者N先生、新聞記者T氏がコメントを述べ、コーディネーター兼司会で大学職員のK氏がまとめるといった内容であった。

 パネルディスカッションは全体で1時間少し、会場からの質疑といった時間も無い短い間ではあったがかなり盛り上がったように思う。熱気が伝わってきた。それぞれのメンバーと名刺交換もし、これからの若者が主体的に自分のキャリアを形成し、実現できるようにわれわれはどのようなサポートが可能なのかなどを話し合い、私も構想しているNPO法人についての話をし、今後のネットワークとして情報交換等を続けようということになった。

(続く)

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胃癌日記88

2013-08-06 20:40:11 | 闘病

胃 癌 日 記 88

‐スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月9日)の日々‐

 

-5月に入ってメーデーやらハイキングやらを楽しむ-

 

そんなばたばたした4月も終わり、5月を迎える。スキルス胃癌の手術後1年半まで後1カ月。

 

 5月1日は、メーデー。私は若い頃からメーデーには参加している。一時期自営の時には不参加だったが、現職になってからは殆ど毎年参加しており、何よりも働くものが老若男女、和気藹々と集い、語らう雰囲気が大好きだ。たまには昔の仲間に出会うこともあるし、そんなときは近況報告や孫の話で盛り上がる。それにしても、以前はメーデーというと会社のほうも休業とか、参加については会社公認といった事業所も多く、かなり盛り上がったものだが、昨今の厳しい状況で、私もそうだが殆どの参加者は休暇を取っての参加となる。そのせいもあってか参加者数は年々寂しくなってくる。そんな中で、年金者組合の参加者だけは、年々賑やかになってきている。今年も年金者組合の集団の中にいた昔の職場の先輩に挨拶。

 

 中央集会が終わって、市中のデモ行進。これもひとつの楽しみ。昔は『闘うメーデー』なんて雰囲気もあって、けっこう入れ込んでデモ行進したものだが、もう昨今は『健康ウォーク』のようなもの。のんびりと二条城前から市役所前まで。丁度昼前にゴールへ到着し、後は楽しみのレストランでの懇親会となった。皆さん和気藹々とビールも入ってだんだんと盛り上がってきたが、私はアルコールは飲まなくなったので、なかなか盛り上がらないのだが、それでも今秋に立ち上げようと思っているNPO法人の構想や趣旨を聞いてもらい、意見も聴き、殆どが好意的な反応であってテンションは上った。

 

  5月3日の憲法記念日は、サークルのハイキングで京都北山の奥の院とでもいうような、朽木駒ケ岳へ行く。今回はファミリーハイキングも兼ねて、自宅から自家用車を駆って連れ合い、孫そして次女も合流しての参加となった。北山の奥の院なので公共交通機関の便も悪く、メンバーの車2台分乗しての山行となった。朝一番でちょっとしたアクシデントがあり、出発時間が遅れてしまったが、一路鯖街道を朽木に向けて走る。10時10分朽木の道の駅、くつき新本陣に一旦集合して、バイクと合流し連なって山へと向かう。山中の生活道路の県道を走り、下山口の木地山前に車を1台停めに行き、登山口の足谷口にも車1台を停める。10時55分登山開始。

 

 北山の奥の院らしく、野趣たっぷりの自然に溢れている。急登を登りやがて11時40分に池原山山頂(680m)。ここから高島トレイルと呼ばれる道に合流。暫く歩くと小さな池があり、12時40分にそこで昼食休憩とした。このお弁当スポットの池は、リーダーのAさんお勧めだけあって、尾根筋からほんの少し下がって、適当に木々に囲まれながら、ちょっとした公園のような広場にもなっている。池の水は適度に澄んでいてイモリがうじゃうじゃ。尾根筋という地形から見て湧水が溜まったものでは無く、多分雨水が溜まったものではないだろうか。日照りが続くと枯れるのではないかと思うが、その割にはイモリがうじゃうじゃと生息。

 

 昼食を終えて、13時20分発。再び高島トレイルを歩き、分岐を超え14時に朽木駒ケ岳頂上(780.1m)。途中のトレイルからの眺望はすばらしく、東には琵琶湖の湖北、琵琶湖を隔てた対岸には伊吹山、北へ転じると赤坂山の稜線、その向こうには若狭の敦賀方面、南西へ転じると900メーター峰の百里ヶ岳が遠望できる。山頂で暫く記念撮影などを楽しみ、14時30分に出発。分岐へ戻り、そこからひたすら忠実に尾根伝いに下山する。あまり人も入らず、踏み跡もはっきりしない北山らしい尾根筋を忠実に辿り、最後にやっと谷筋に合流。ちょっと歩いて下山地点の木地山前。そこは小さなバス停があり、綺麗なトイレも有る。バス停は生活道路の終点。木地山前から、登山口の足谷口へ車を取りに行き、木地山前まで戻って再び2台に分乗して出発。16時35分に朽木道の駅、くつき新本陣に戻り、各自思い思い土産を買ったりアイスクリームを食べたりして自由解散となった。

 わがファミリーはK氏を市内まで送った後、夕食。次女お勧めの100%自然素材で手作りのアットホームな、鞍馬口通りにある食堂でのファミリー晩餐。大変美味しかった。食後、温泉に未練を残す孫をなだめて、次女を送りそして自宅まで戻った。本日のハイキングはリーダーのAさんならではのコースで、満足度は申し分なかった。大変いいリフレッシュとなった。

(続く)

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胃癌日記87

2013-07-31 18:27:06 | 闘病

胃 癌 日 記 87

-スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月9日)の日々-

 

 そんな中で、4月20日にはまたまたサークルのハイキングで、京都北山の峰床山に行った。

 

 峰床山は標高970メートルで、京都府下で2番目に高い山。峰床山は山頂付近に八丁平という高層湿原を抱き、多様な動物や植生に恵まれた大変素敵な山域だ。未だ我が子が小学生であったときに、八丁平までだったがファミリーハイキングでも来たことがあるし、友人のMと来たり単独やらで合計4回来ており、よく知っている山なのだ。今回は25年位振りになるのか、5回目のハイキングだ。

 

 朝7時45分に出町柳発のバスに乗って、葛川校バス停で下車しそこから登山が始まる。最初30分程は林道を歩くが、25年前とは随分変わってしまった感じがする。当時はずっと川沿いの右岸に道が続いていたはずだが、林道は何回か橋を渡り右岸、左岸と辿っていく。林道終点からは川を渡り暫くは小さな沢沿いに左岸を辿り、途中で渡渉し尾根を辿るのは覚えているが、渡渉地点や道の様子は全く変わってしまっている。道そのものが変わってしまっているのだろう。これはベテランのAリーダーに全幅の信頼を寄せるのが正解だろうと思った。

 

 かつてはハイキングの人気コースで、道もはっきりと付いていたが、今はルートファインディングに結構気を遣う。暫く尾根筋に近い道を登り続けると、一登りしたかなあという感じで、中村乗越という展望の良い峠に出る。ここから振り返れば比良連山が正面に拡がる。蓬莱山から武奈が岳が一望。行く先のほうには八丁平が有る。八丁平は高層湿原で30年前は自然がたっぷりと残っていて、廻りには栗の木があり猿やリスが遊びマムシがうじゃうじゃといた。今は早春で標高も900メートルで、木々の新芽も未だ出ておらず、枯れ木のような殺風景な立木が群生している。マムシも未だ冬眠から覚めていないのか、『マムシに注意』の看板はあるが、全く見かけない。それよりも何よりも、肝心の湿原が渇水状態で細くなってしまっている。細い川の流れがあってその周辺が湿原状態。以前は京都の尾瀬沼かというほど立派な湿原に、動物やいろんな植生に覆われ、本当に自然一杯の素敵な所だったのだが、この渇水状態はもう10年以上前頃かららしい。

 

 ベンチの有る辻で少し休憩の後、八丁平を周回する道をたどり、峰床山へと向かう。同志社大学ワンゲル小屋跡を過ぎ、頂上へ繋がる尾根道に入る。尾根道に入るところが三叉路で、峰床山と反対に少し行くと展望ポイントがある。ここからは、京都北山の南部が一望。目の前の足尾谷を挟んだ向こう側、南には京都府最高峰972メートルの皆子山が対峙する。西のほうを臨むと花背方面に雲取山、もう少し西は送電鉄塔が目印の桟敷が岳、さらにはるか西は愛宕山に地蔵岳。向きを変えて東を見れば小さくリフトの鉄塔も見える蓬莱山、その左の北のほうには西南稜に続く武奈が岳。もう、山の景色満喫だ。

 

 暫く景色を堪能した後引き返し、尾根道を辿るとまもなく標高971.5メートル、京都府第2位の峰床山山頂に着いた。丁度昼前に頂上着で、昼食を食べひと時談笑。昼食後八丁平の周回道をぐるっと回って辻に戻り、登ってきた道を帰った。のんびり歩いてゆっくり戻ったが、3時には登り口の葛川校バス停に着き、3時50分発の近若バスで樫田へ。4時40分JR樫田駅着、ここで解散し、4時50分発のJRで帰路へとついた。

 

 

 4月27日の日曜日は、長い間モニターが着かなくなり壊れていた携帯電話を買い替え、ショップに行って新しい携帯電話にデータを移し変えた。久しぶりにすっきりした気分だが、機械が変わり使い慣れるまで一苦労しそうだ。月末30日は、職場の若手の異動で、壮行会を兼ねたカラオケパーティ。大いに盛り上がったのはいいが、私は酒を飲まないので、盛り上がりに合わせるのが大変だった。

(続く)

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胃癌日記86

2013-07-29 17:26:59 | 闘病

胃 癌 日 記 86

-スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月9日)の日々-

 -4月は仕事の合間を縫って、お花見・ハイキング三昧-

 2013年度の開始、4月に入ると暖かい日が続いた。

 4月5日は職場の若手を中心に、恒例の平野神社の夜桜見物に行くこととなった。若手8人とその他で総計11名。花見茶屋の囲いの中のゴザに陣取って、和気藹々と語り会い、日頃の鬱憤を晴らした。桜はすばらしく咲き乱れ申し分の無い花見のシチュエーションとなった。が、私は酒を一滴も飲まず、みんなのテンションがどんどん上がっていくのに取り残されて、少しづつ空しい思いにもなってくる。まあ、それでも賑やかな宴会が繰り広げられた。若手といっても全員女性なので、賑やかなことこの上ないが、罵詈罵声というわけではないので、楽しかった。午後10時前に散会。

 さて、2日後の4月7日の土曜日は、学生時代の同期の同志による恒例の花見会。昨年は鴨川河畔で花見をしたが、猛烈な寒の戻りに加えて雨までばらつきだして、散々な思いをしたこともあり、今年は最初から三条の料理屋集合とした。昨年10月の尾道旅行以来の再会でそれぞれの近況報告。まあ、殆どのメンバーが65歳絡みになってきて、ハッピーかアンハッピーかよくわからないが、リタイアがらみの話題が多かった。私は、胃癌のその後の経過や、術後にめげず月2回のハイキング、毎週のジム通い、読書のことやリタイア後のライフワークのことなどを話した。いつものように女性陣は元気溌剌で、人生何時だって前向きに生きているようだ。われわれが学生時代は男女比は9:1という感じだったが、活動的な学生は女子学生のほうが圧倒的に多く、本日の集いにしても8:3だが女性が目立つ。

 楽しい飲食と懇親の後花見本番で、まずは白川から切通しから祇園甲部、女紅場へ。現在大学教員をしていて京都の街や町衆に博識なM君の薀蓄を聞きながら逍遥。切通しでは、偶然M君の教え子の女子学生に出会い、しばしみんなで談笑後記念写真を写してもらう。祇園甲部から花見小路を抜け、場違いなJRAの祇園場外馬券売り場の前を通り建仁寺へ。ここでもM君の薀蓄を聞いた後、町屋の路地の間を通り東山安井神社へ。この神社は縁結びではなくて『縁切り』にご利益が有る。M君によると『縁切り』というのは『悪縁切り』で酒やタバコや博打などから『縁切り』で、その上で『良縁』が成就するそうだ。ご利益を期待してか、多くの人がお参りしていた。若い女性が圧倒的に多いが、絵馬を見ていると深刻な内容のものがいくつもあった。そこから東山通を横断し、石塀小路を通り北政所・ねねの寺といわれる高台寺に行き、円山公園に向かう。

 『清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 こよひ逢うひと みな美しき』

 と、与謝野晶子が詠んだのは、産寧坂(さんねんざか)から、この辺りの道だった。

 祇園の塔を過ぎ、学生時代に集会やらでよく来た円山音楽堂まで来た。時間も午後4時前となり、コーヒーでも飲もうということで、長楽館へ入る。長楽館は100年以上前の建造物で、当時タバコ王といわれた村田翁の建立とのこと。京都市有形文化財に指定されている。長楽館は予約制で格式も高く、普通は入られないらしいのだが、ここでもM君は『顔』が利き、何とか11名分の席を確保してもらった。ゆっくりと美味しいコーヒーを味わいながら、今秋の懇親会での再会を約束し、今年もまた楽しかったお花見の集いも終わった。

 12日夜には、学会の有志が集い、今般大阪の大学に副学長として赴任してきたF君の歓迎会があった。F君は私の大学時代の同期で以前には学会の会長も経験している。身近なところで活躍する仲間が増えて、大いに刺激になる。

 14日の日曜日は職場での春の遠足と称して、懇親ピクニック。コースは昨年と同じ銀閣寺門前集合大文字山から如意岳に登り東山を歩いて南禅寺で湯豆腐の昼食、その後哲学の道を歩き銀閣寺まで戻るコース。桜は大分散ってしまって、遅咲きの八重桜が咲き残っている。今年はI君と愛娘Mちゃんも含め、職場女子会をメーンに10名の参加。そして、今年は大文字山で豚汁を作って食べようということになった。仕事の分担は女子会が切った材料、I先生が鍋のコッフェルと乾杯用飲み物、私がガスバーナーと水2リットル×2本と箸等もろもろ。如意岳山頂の三角点の有るちょっとした広場で豚汁を作る。場所と道具をセットするのは私、豚汁を作るのは元シェフのI君、乾杯の段取はI先生と、男性陣はこまめに動き、ここでも主役は女子会。賑やかに乾杯をして、美味しい豚汁を全員が楽しんだ。

 奥丹で湯豆腐をいただいた後、I先生と子連れのI君は帰路に着き、残った女子会と私は哲学の道を銀閣寺へと戻った。今年も楽しい春の遠足だった。

 ぐっと昭和の雰囲気が漂う職場というか女子会は、温かみがあって私は好きだ。

  仕事は、最近は大阪勤務が多く学生と話す時間が多い。多くの若々しい新しい感性に触れ、勉強にも新しい課題発見にもなり、これからの仕事というか大げさに言えばライフワークに取組んでいくモチベーションに繋がり、気持ちが充実する。

(続く)

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胃癌日記85

2013-07-24 19:17:24 | 闘病

胃 癌 日 記 85

-スキルス胃癌手術から1年半の日々-

 -サークルでのポンポン山ハイキング・仕事・夜桜見物-

 3月23日は、サークルでのポンポン山ハイキング。今回のハイキングはサークルの定年退職者を送る企画の一環で、和気藹々と。

 朝8時30分東向日駅集合、8時42分のバスに乗って善峰寺、そこから杉谷集落を通り10時45分にポンポン山頂上。記念写真小休止後高槻方面へ。12時15分に本山寺で境内から少し離れたアスファルトの道端で昼食。13時50分神峯山寺。そこから舗装道路を歩き摂津峡に入り、摂津峡を抜けて15時20分に摂津峡温泉の翔風苑に到着、温泉入浴。まずは順調なハイキング。

 本日はその後サークルの定年退職者を送る会で、高槻市内の料理屋へと行き、17時過ぎから宴会開始。今回のゲストのHさんを労い、楽しい2時間あまりを過した。

 仕事のほうは相変わらず忙しい。大阪での仕事も多く、ばたばたしている。3月の20日から、「パライソメッセージ」を書き出した。その理由は、私も現役が来年の3月までとなり、ここにきて自分の存在の証を置いておきたい、といった思いになってきたことである。あと1年でフェードアウトしていくわけだが、自分としてはハッピィ・リタイアといった思いは無い。まだ遣り残したものの方がはるかに多い。そんな思いで次への展開のステップを刻む意味で、メッセージを残そうといったような思いで有る。「パライソメッセージ」は、週間にして、職場の皆さん、心を許す仲間たちや先輩諸氏にメールで配信し、ブログにもアップしていく。

 3月30日の土曜日には、お彼岸に行きそびれたお墓参りに行った。夕方からは連れ合いと長女と孫Tとの4人で、万博公園に夜桜見物。今年は温かい日が殆ど無かったが、ここ数日で急に桜が満開になってしまった。お弁当を仕入れて、夜桜を見物して、ライトアップされた桜の木の下でお弁当。

(続く)

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胃癌日記84

2013-07-23 17:40:30 | 闘病

胃 癌 日 記 84

-スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月9日)の日々-

 

 霊山寺を出て県道を走り、3時前に鳴門の大塚美術館に着いた。駐車場に着いた時には雨模様で、シャトルバスを待つ間に本降りになってきた。2時50分美術館着。大体駆け足で1時間ちょっとで見学ができると計画していた。

 大塚美術館は、バロックやルネッサンス期以降の世界の名画はほぼ全てといっていいほど、精密・精巧な陶板画に再生されており、見る前は『所詮レプリカ』と、実はたかをくぐっていた。ところが実際に見だすと陶板画の精密なことや、独特の光沢を持ってしかも色が焦ることなく、展示するシチュエーションの作りも半端でなく壮大で、一つ一つの陶板画のすばらしさもさることながら、展示空間の演出に大いに魅せられた。1時間ちょっとの見学時間かと思っていたが、結局閉館時間ぎりぎりの午後5時まで駆け足で、コーヒータイムもなくひたすら見学。それでももう少し時間が欲しかった。

 大塚美術館を出て、再び大鳴門橋をわたり淡路島へ。県道を走り午後5時40分に南淡路ロイヤルホテル着。南淡温泉にゆったりと浸り、おいしい和食を頂き、一日目は終了した。

 翌21日は朝から温泉に入り、朝食後早めに出発。一日目の淡路サービスエリアで貰ったスタンプラリーがあり、本日は予定の行動プラスオプションでスタンプラリー。

 朝一番に開館前の大鳴戸橋記念館に入り込み、スタンプをゲット。続いて、『たこせんべいの里』に立ち寄り、スタンプゲットと土産を仕入れる。続いて蓮華寺へ。蓮花寺へは入り口の道が分からず、県道から生活道路に入り込み、細い道を迷路のように走り、結局地元のおばあさんに道を尋ねて、やっと辿り着いた。真言宗の閑静なお寺で、そう大きくはないが五百羅漢を納めたお堂があり、鍵が開いていたので中に入りお参りした。

 蓮華寺を出て、一旦海沿いを走り慶野松原を過ぎて11時10分に五色町の、高田屋嘉兵衛記念館で資料見ていると、管理のおじさんが、われわれの為に、と言っても狭い記念館はわれわれ以外に客もいないが、ビデオを上映してくれた。続いてウェルネスパーク五色。ここにも高田屋嘉兵衛の記念館のような建物があった。五色町は高田屋嘉兵衛と『菜の花の沖』の町だった。続いて海岸沿いの道路を走り、淡路瓦や線香といった淡路島の特産品を製造する会社を通りすごし、群家から内陸に入り伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)へ。この神宮は由緒も深く、イザナギノミコとトイザナミノミコトの日本創造の地とのこと。閑静で重厚な神宮であった。そのあと売店のおばさんに勧められて、丘の上のラッパ水仙の栽培畑を見学。

 伊弉諾神宮を出て、再び海岸通に戻り北上し、野島断層記念館着。ここは1995年の阪神淡路大震災の震源地に建てられた記念館で、私は実は1996年にママチャリで淡路島一周をした時に一度訪れている。1995年は個人的には大きな転機の年で、思いは深い。

 今回は2度目の訪問で、連れ合いと一緒。また少し違った思いで再びの見学。遅めの昼食をレストハウスでした後、記念館を見学した。あの1995年の忌まわしい思いが甦ってきて複雑な思いがする。私は仕事もあり神戸へよく行ったが、一面焼け野原となってしまった青木や長田の駅前商店街を、何故だか「ごめんな、ごめんな・・・」と心の中でつぶやきながら、泣きながら通り過ぎて行ったのが、ついこの前のように思い出された。

 連れ合いともども少しウェットな気分になったが、約1時間の見学後再び海岸道路を北上し、暫く走って内陸に入り、15時に、淡路花さじきのフラワーランド着。山の上に展望台があり、大阪湾側の斜面は一面のお花畑。この季節は菜の花が群生し、一面黄色い絨毯。展望台の直ぐ下の花壇には菫が咲いていた。

 40分の見学の後、いよいよ帰路につく。1泊2日の鳴戸・淡路島の旅もこれでおしまいで、連れ合いともども余韻に少し浸りながら、海岸通をぐるっと周って淡路インターチェンジから高速淡路道に乗り、明石大橋をわたり瀬戸内道、中国道を経由して、17時40分に帰着。思い出に残る楽しい旅も終わった。

 この日は卒業式があり、帰着後再び外出で、卒業謝恩パーティに参加し若者たちの門出を祝った。

(続く) 

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胃癌日記83

2013-07-22 18:46:22 | 闘病

胃 癌 日 記 83

-スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月9日)までの日々-

 

 -学会研究集会への参加と、3月のファミリーハイキング-

 

 相変わらず多忙な日々が続く。3月16日は私が所属する日本CD学会の関西支部研究集会に参加した。研究集会では3本の発表があった。いずれもキャリアデザイン支援の実践からの報告で、真摯な取り組みであり改めてたくさんのことを学ばせていただいた。全ての報告に対して、意見や質問を積極的にして理解を深めた。ただ、報告の中でコーチングの手法にかなり違和感を持つものがあり、その旨発言し意見表明をした。

 翌3月17日はファミリーハイキング。朝5時50分に起床して準備し、7時40分に出発。家からは連れ合いと下の孫と私の3人。国際会館のバスターミナルで次女と合流し、本日のコースは岩倉から瓢箪崩山と金毘羅山の連続登山で、その後大原温泉に入浴する予定だ。

 

 バスターミナルから歩き出し岩倉の街中を行く。実は本日地図を忘れてきてしまった。そのため岩倉の街中の舗装道路を歩き続けるのだが、どうも登山口へのアプローチが分からない。何回か道を聞きやっとのことで登山口へのアプローチが分かり、10時15分に上り口である林道入り口に辿り着いた。約40分の遅れ。ファミリーのブーイングも高鳴りし、スタート早々前途が案じられることとなってしまった。

 

 この日はファミリーの体調が整わず、予定時間の回復どころかだんだんと遅れが出始め、やむなく行程途中で昼食とし、昼食後は後半の登山である金毘羅山を断念することとした。前回の雨天と道迷いといい、金毘羅山は縁が無いのかなあと、すこし残念な気持ちだ。

 

 結局、江文峠から江文神社へ、そこから再び舗装道路を寂光院まで歩き、大原の里温泉に浸かる。温泉は良いのだが、本日のファミリーハイキングは、地図で道迷い、体調整わず、長い舗装道路歩きでおおむねブーイングで不評だった。来月挽回しようと思う。

 

 

 

 -淡路島旅行-

 

 3月は年度替りの月で、成り行きで仕事は多忙になるし、さらに輪を加えて2月の企画のデータ集計やらアンケート集計。おまけに歓送迎会とやらで超多忙となる。この超多忙の隙を見つけて、連れ合いと1泊2日で淡路島に旅行に行くこととした。水仙も終わり、今特に淡路島での見所といったものは無いのだが、年度末の『けじめ』のようなものか。日程は3月20日と21日。

 

 20日朝車で出発。快調に高速道路を走り10時過ぎには明石大橋をわたり淡路島へ。ただし本日は更に走り、大鳴門橋を超えて四国鳴門市に行き観光してから淡路島に戻る計画。11時過ぎに大鳴門橋をわたり11時20分頃板野インターチェンジを降りた。そこから県道を少し戻り、四国八十八ヵ所第二番礼場極楽寺にお参り。休日だが閑静な寺で、本堂、太子堂にお参りし庭を散策する。極楽寺を出て再び県道を走り、ドイツ館に行く。ドイツ館は第一次世界大戦時のドイツ軍捕虜を収容した施設の跡地に、日独友好の記念に建立された。捕虜に対する人道的待遇や地元の住民との交流の記録が多く展示され、中でも捕虜がオーケストラを結成し、ベートーベンのシンフォニーを演奏していた記録が豊富で、大変興味深かった。ドイツ館で昼食のおにぎりを食べ、続いて第一番霊場霊山寺にお参りした。霊山寺にはこれで4回目のお参りで、第一番の霊場らしく、落ち着いた寺だが『さあ、行くぞ』といったような活気も感じさせる境内の雰囲気もある。霊山寺では、お遍路グッズを売っている売店にも立ち寄り、あれこれと連れ合いに説明しながら、1998年から始めた四国八十八ヵ所参りの時の発心の気持ちを思い出していた。

(続く)

 

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胃癌日記82

2013-07-18 17:17:09 | 闘病

胃 癌 日 記 82

-スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月9日)の日々-

 

 -映画「遺体~明日への10日間~」を見て-

 3月11日は、確定申告のために年休を取得した。もともとこの日の午前中に確定申告書を仕上げて、午後に提出の予定であったが、申告書がすでに出来上がっており、空いた午前中に映画に行くこととした。ちょうど2年前の今日、東日本大震災が勃発し、未曾有の悲劇・惨劇が起った。今上映中の映画「遺体~明日への10日間~」は石井光太氏のルポルタージュ「遺体-震災・津波の果てに」を映画化したもので、改めて記憶を風化させないためにも、悲劇・惨劇に向き合う気持ちの原点を忘れないためにも、見に行くことにした。

 映画は石井氏のルポルタージュを映像化したものであり、ストーリーは無く、東日本大震災・津波による犠牲者を収容する釜石市のある遺体安置所で繰り広げられる人間模様を著した原作を忠実に映像化している。西田敏行が一人の軸となる民生委員を演じ、釜石市役所職員、医師、歯科医師、歯科医師の助手、僧侶、犠牲になった子供の母親等々の人間模様を、尾形直人、柳葉敏郎、佐藤浩市、酒井若菜、國村隼らが演じている。

 私は石井氏の原作を読んでおり、活字を通してでも苦悶にゆがんだ表情、姿態の遺体、人間の尊厳を踏み潰すように傷んだ遺体、悲しみや絶望に突き落とされる子供の苦しみに歪み悶える遺体、収容しきれなくなるほど隙も無く並べられた遺体やその腐臭など、およそ言葉にできないほどの地獄絵図がイメージとして心の中に焼き付いていた。果たしてこの映画はどれほどのリアリティで地獄絵図を映像化しているのか、映画を見る前はある種恐怖心のようなものを持っていた。

 映画は、無駄な描写やPTSDを起こすような津波の映像とかは一切無い。原作に忠実に映像は展開していくが、遺体の表情や姿態、寒々とした遺体安置所の中での人物描写や葛藤など淡々と映像化され、涙なしにはとても見られないのだが、直視できないような残酷でグロテスクな映像は一切出てこない節度のある画面であった。

 見終わった後で、私はこの映画に関わった製作者、スタッフ、出演者たちのメッセージは何だったんだろうと考えた。残酷な事実を節度ある画面で映像化し表現することに、私は逆に強いメッセージを感じた。この映画が問いかけるものは、自虐や過去の教訓に学ばないことへの戒め、自然に対する諌めや教訓でもない気がする。そういったモラルへの問いかけではないだろう。ましてや原発等も出てこず、告発や怒りでもない。私は、この悲劇・惨劇に対して目を背けるとか、この事実を忌避するのではなく、これからもこの事実に向き合わなければならないのだ、というメッセージをこの映画は発しているのではないだろうかと感じた。

(続く)

 

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2013-07-17 17:35:27 | 闘病

 

胃 癌 日 記 81

-スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月90日)までの日々-

 

-友と先生の死-

 日常の仕事は、相変わらず多忙だ。私が責任であった企画は終わったが、アンケート集計のためにワークシートを作成したり、入力やグラフ作成の派遣職員との打合せ、作成中のアンケート集計やグラフのチェック、アンケート講評等の文書を纏めた会議資料の作成などばたばたとしている。そんな日々を過しているうちに3月に入り訃報を知った。

 昨年11月に経済成長をこれから遂げていこうとする時期の中国の写真展を開催していたK君が、癌が脳に転移し、癌との闘いも及ばず逝ってしまった。K君の写真は、中国の庶民の目線で庶民・農民を徹底的に写したもので、中国の実相がリアルに伝わってくる。私が写真展に訪れたのは、雨が降る11月11日。前日まで写真展会場にK君は来ており来訪の旧知たちと存分に語り合っていたのだが、急に体調が悪化したとのことで再入院したため、奥さんと積もる話をした。奥さんの話によると、まだまだ気力も充実しており、残された時間に精一杯生きてきた証を残そうと頑張っていたとのこと。

 おそらく遺作になるであろう写真集は、1966年以降の学園紛争の記録を残した写真集で、当時も今日もほとんどのマスコミによって学生運動の代名詞課のようにもてはやされ、大学の「解体」などという無責任で刹那的な破壊活動に狂奔した『全共闘』の記録ではなく、当時の文部省や大学の非民主的管理支配を打ち破り、真に大学の民主化を目指す学生、教職員達の記録であった。

 2月28日に新聞紙上でK君の死去を知り、別離の覚悟はしていたものの、空しくも残念な思いがした。3月2日に通夜に参列し、その時に遺作の写真集の解説を担当しているGさんと話をした。26日の編集会議には奥さんに支えられながらも出版社で行った編集会議に参加しており、翌27日には体調の悪化を訴えて安静にしていたが、そのまま帰らぬ人となったとのこと。編集会議は最終のゲラの校正で、棺の中にはゲラ刷りの原稿を入れるとのこと。享年65歳。

 3月7日には、A先生の訃報を知った。

 A先生は一貫して『平和と民主主義』を貫き通し、学生を思い、大変真面目な研究者・教育者の道を歩んでこられた。一見近づきがたそうな雰囲気が無きにしも非ずだが、実は大変心配りをされる優しい先生だった。私は、国際分野で活躍を目指す大学院生や学生の進路先とのネットワーク構築の際にA先生と連絡し、協働させていただいた。

 3月8日のお通夜への出席は適わず、9日の告別式に出席しお見送りをさせて頂いた。その時にご子息から伺った。A先生は、忙中に奥様との旅行を計画され楽しみにしておられたが、体調が悪くなり病院で受信されたところ、癌が発見されたとのこと。原発性の膵臓癌が全身に転移しており、手術は不可能で余命6ヶ月と宣告された。それでも授業があるといって大学へ行っておられる。抗癌剤治療等の闘病中も、学生や教え子のことを随分気にしておられ、学生たちとマルクスやエンゲルスの話しをされるときは大変嬉しそうだったとのこと。余命6ヶ月と宣告されながらも8ヶ月間頑張られて、ついに帰らぬ人となられたとのことだった。私はお別れにお棺の中に眠るA先生に花を捧げさせて頂き、そしてお見送りした。享年69歳。

 

 K君、A先生と二人のかけがいの無い人を立て続けに失ったことは痛恨のことだ。しかもお二人とも癌に倒れた。憎むべき病である。私自身が1年4ヶ月前にはスキルス胃癌と闘った。幸い転移も無く順調に回復し、今では以前にもまして、そして意識して充実した生き方を突き進んでいる。何か以前よりも、フェードアウトするまでに『生きている証を刻んでおきたい』といった気持ちが強くなっているように思う。私自身のスキルス胃癌体験は、無事生還できたのだけれど、残された人生を確かに歩いていかなければ、かけがえの無いほどの損失を蒙る。自分のラッキーに感謝しつつ、残された人生を、大事に、丁寧に過ごしていこう、そんな思いが実感として沸々とこみ上げてくる。

(続く)

 

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2013-07-16 17:50:10 | 闘病

      胃 癌 日 記 80

-スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月9日)までの日々-

-忙しい日々の仕事をこなし、CD学会へ

 仕事のほうは、私が担当する企画がいよいよ本番で、私自身も15日施設Kで開催された、ダイバーシティの学生支援勉強会に引き続き、16日から18日にかけて金沢への出張、ここでは私が責任者として張り付き企画を采配した。帰阪の翌19日は京都での業務と忙しさもピークの状態である。その一山を超えると今度は22日D大学で開催された、やはりダイバーシティ学生のサポート研修会。続く23日は仕事ではなく個人であるが、市ヶ谷のH大学で開催されたCD学会に参加。学会は16時からの開催なので、22日の研修終了後夜行の高速バスで横浜まで移動し、午前中に鎌倉の姉Hを表敬訪問した。

 23日は朝7時20分横浜バスターミナル着で、モーニングサービスを食べた後鎌倉へ。8時50分鎌倉着。鎌倉駅から暫くは、次回の鎌倉土産を仕入れる予定である老舗の菓子屋の本店を確認し、確認後姉宅へ歩いて向かう。駅からは5Km強の距離がある。夜行バス旅の疲れを癒すには丁度良い距離だ。  

 10時15分に姉宅着、挨拶と近況報告を交わす。暫く家族のことや仕事のこと等を話し、11時過ぎに、一緒に昼食をと思い誘ったが、少し脚の調子が悪く、ちょっと歩くのが億劫そうだったので、本日は一緒の昼食は断念。いろんな話をして、12時25分に退出。姉宅の最寄のモノレールの駅から大船に向かい、大船駅で昼食のそばを食べ、甥のYと待ち合わせている飯田橋へと向かった。

 飯田橋でYと合流し、喫茶店でコーヒープラススィーツ。Yとはもっぱら仕事の話や、日本人は何故グローバル人材が育たないかといった話。日本人が外国人とコミュニケーションやディペートをできないのは、語学力が低いとか日本人がシャイで謙虚だからではない。日本人の多くは主張すべき理念やポリシー、いわば哲学がないからだと私が言うと、Yは哲学はリーダーだけでよいと言う。私は更に、益川先生はノーベル賞の受賞記念講演を日本語でやったけれど大変な感銘を与えた、と言うと、それでも英語は出来ないよりできるほうが良いと返してくる。まあ、トイック400点の私が国連英語級、外国の賓客の対応もしているYに言うのだから負け惜しみのようではあるが、私はいたって本気である。何やかんやと他愛もない話もしながら、全く質は違うけれど、お互いの超多忙さに生きている実感に充実感を感じたり、ばかばかしさを恨んだりのYとの一時であった。

 16時からはH大学で開催されたCD学会に参加した。

 本日の学会は、「ブラック企業」についてのK氏の講演。K氏は現役の大学院博士課程に在学中で、若者の労働相談や生活・貧困に関わる相談、東日本大震災の被災者への復興支援やボランティアに取り組んでいる大学院生、学生が主体となったNPO法人の代表である。最近「ブラック企業-日本を食いつぶす妖怪-」という本を著し話題になっている。

 講演の内容は本に沿った報告である。「ブラック企業」という言葉は若者たちの間で2010年ごろから広まっているネットスラングであるが、ブラック企業を3つのパターンに分類し、ブラック企業の見分け方等、新しい実践的視点から分析し論じている。ブラック企業は法の網をかいくぐり、過酷な労働条件を強要したり、あれこれと理由をこじつけての超過勤務手当ての不払いといった違法行為やハラスメントによって若者の精神・肉体を破壊し、挙句の果てにはメンタル面で病んでしまうほどに追込んだり、自殺に追い込んだりする。これらを社会問題であると論じているのは、重要な論点である。すなわち個別企業の問題にとどまらず、いわゆる「ホワイト企業」がいつブラック化するかもしれない世の中の風潮を止めさせ、更にはブラック企業を社会から退場していただくためには、社会問題としてブラック企業を位置づけ、社会全体としての共通理解とすることが重要であると思う。

 K氏の講演に対しての質疑応答で、2点についてのコメントをした。第1には、「ブラック企業」というのは最近のネットスラングではあるが、実際にはかなり以前から存在していた。暴力団のフロント企業やら、詐欺商法やねずみ講といった反社会的行為を生業とする企業、あるいは以前存在した「日栄」といった中小企業金融会社は、債務返済でトラブルがあると『腎臓を売って借金を返せ』と執拗に脅迫的に迫り、ついには刑事事件に発展し幹部の逮捕、結果会社解散の至ったような例は、以前からある「ブラック企業」であること。K氏が提起する2010年頃からのネットスラングの「ブラック企業」はいわば「新型ブラック企業」ではないかということ。何故「新型ブラック企業」と区別するかといえば、以前から労働問題やキャリア形成支援に関わってきた人たちには、「ブラック企業」と言うと、非合法とか反社会的行為、暴力・恐喝・脅迫といった行為を生業とするといったある種のイメージを持っている人がかなりいる。一方「新型ブラック企業」は法の網をくぐり抜け、あるいはハラスメントを日常的に行うことによって、若者の身体、精神そして人格をも破壊するといった、結果的には日本の社会を蝕む存在であり、その点の認識を共有しておくほうが、ブラック企業を告発し社会から退場願うトレンドの構築にとってより有効と思えるからだ。

 私のコメントの2点目は、「新型ブラック企業」を社会問題と論述したことは重要な指摘であるということ。何故なら社会問題であると言うことを、若者のみならず広範な世代に広く認識を広めることにより、ブラック企業が藩社会的存在であるということを共通理解とする、ひいては社会から退場願うということである。あわせてブラック企業に寄生する弁護士や社会保険労務士などの「ブラック士業」にも退場願い、就職率アップのために無批判にブラック企業を受け入れる大学の「ブラックキャリアセンター」にも頭を冷やして頂きたい。といったことを述べた。

 以降のコメント、質疑応答は大変活発に行われ、コメンテーターのU先生の的確なまとめもあり、大変有意義なCD学会であった。

(続く)

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胃癌日記79

2013-03-14 19:00:31 | 闘病

   胃 癌 日 記 79

   ‐スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月9日)までの日々‐

 

-超多忙な仕事の中で-

 2月に入り、私が担当する企画が目前となり、いよいよ多忙な日々に追いかけられる。とはいえそんな中でも、職場の若手の発声で『歴史研究会』が発足し、私が会長ということになって2月5日に第1回目の研究会を開催。当日は急遽報告予定者が所要の為私が代理報告。取り急ぎ『持ちネタ』でレジュメを纏めた。『1.自己主張できない日本人のDNA』『2.何故日本人は自己主張(ディベート)できないのか』『3.何故円高なのにドル(アメリカ国債)買いなのか』といった少し歴史とは離れているかもしれないテーマだが、とにかく日本神話等も引っ張り出し歴史的考察ということでアプローチを試みることとした。『研究会』とはいっても火曜日の仕事の後の放課後に30分ほどフリーで議論しあうという事だけれど、何よりも私よりもっと忙しくしている若手が、自発的に行動してくれているのが素晴らしい。私はいつも『ご意見番』のような役回りで声が掛かってくるが、これもやはり『充実した人生』の一端だろうか。

 -2月のハイキングは里山へ-

 仕事のほうは益々忙しく、いよいよ私が担当している企画が、2月11日に東京会場から始まった。おりしもその11日当日は、組合のサークルのハイキングで、東京のほうは担当のスタッフにお任せして、私はハイキングに参加した。このところ月1のハイキングと週1のジム通い、そして以前から引き続く通勤での毎日10kmの歩きが、体調維持のための習慣となっている。

 さて、2月11日は朝8時35分に集合場所の上桂駅着。9時集合なので未だ誰も来ていない。先日来寒波で山のほうは雪が降っていたとのことだが、当日は底冷えだったが天候のほうは晴れ時々曇り。全員集合となって9時5分に出発。本日のコースは愛宕山・保津峡の南、桂坂の北に位置する洛西の里山稜線を西に辿り、沓掛山、三杉山を越え亀岡の馬堀に至る通称、唐櫃越(カラトこえ)と呼ばれるコース。

 上桂から西に住宅街を通り過ぎるとやがて山道に入っていく。いきなり急登といった感じだが、山道に入ると竹薮の中の道となり癒される。少し登って京都市内を振り返ると、山科方面の山がもうもうと煙を上げていた。誰かが『分厚い雲がかぶさっている』と言っていたが、あれは雲ではなく、山科の花山で、ある宗教団体が全国の信者を集めて大護摩行をしている煙だ、と説明した。山道はやがて京都大学桂キャンパス北側の山の稜線となり、桂坂の自然観察公園の周回道の一部と合流し再び山道となる。時々雪が舞う天気になってきて、相変わらず寒いがメンバー全員元気を出して歩き続けた。

 11時過ぎに沓掛山(415m)を過ぎ、山陰線トンネル工事のときの旧作業用の舗装道を歩き、終点の広場になった作業場跡で12時前に昼食。その頃は雪も本格的になってきて、屋根もなく吹きさらしの広場のアスファルトの上に皆が適当に座り込んで、少し辛い状態での昼食休憩となった。昼食はそれぞれ行動食で、さっさと食べて再び山道に入り、14時前に頂上に送電鉄塔が設置されている(430三杉山(430m)頂上着。雪も止んで三杉山からは、北に愛宕山と西北に連なる地蔵山が、下のほうには保津川が流れる保津峡が良く見える。北側と東側は伐採されて展望があるが、南・西方面は殆ど展望がなかった。

 暫く景観を楽しみ、記念撮影後山道を下る。やがて寺院の裏手に出て、馬堀の町へと出てきた。アスリートとして鍛錬をしているI君はここから山道へと引き返し、自然観察公園の周回道まで戻り、桂坂にある自宅へと戻っていった。私も上桂まで戻ろうかなあなどと思ったが、冷静に考えるといかに順調に歩いたとしても、ヘッドランプを持参しているとはいえ、あまりよろしくない天候の中、山中で日が暮れるというのも良くないし、他人に迷惑をかけてしまうかもしれないので、止めた。街中を歩き14時45分にJR馬堀駅、そして14時59分発のJR電車で帰路に着いた。

 今回のハイキングは男5名女4名の9名パーティで1名の30歳代以外は60歳以上の団塊およびオーバー団塊世代。それぞれ山好きで健康を楽しんでいる、まさに楽山。私にとっては健康維持もさることながら、こういった仲間たちとの交流は、気持ちが癒される。

 JR山陰線で二条まで、先輩のGさんと一緒に戻り、Gさんはそこから大宮に出て帰路へ、私は三条通から途中イノダ本店の美味しいコーヒーを飲んで、新京極まで出て阪急河原町まで歩き、帰路へと着いた。本日歩行は27,013歩。

(続く・・・しばらく間が空きます。その間「パライソ」などを配信予定)

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胃癌日記78

2013-03-12 18:24:14 | 闘病

   胃 癌 日 記 78

   -スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月9日)までの日々-

-映画「東京家族」を見て-

 日頃の業務はいよいよ多忙で、2月3日の日曜日も大阪での名刺交換会で日帰り出張だった。日曜出勤の代休で4日は休み。絶好のチャンスとばかり映画「東京家族」を見に行く。連れ合いも一緒に行こうと誘ったら、もう既に見たとのつれない返事。仕方がないので一人で行った。

 瀬戸内の小島に住む学校の教員をリタイアした老夫婦が、亡くなったかつての同僚への弔問と併せて東京に住む3人の子供を訪問する。両親を迎える長男、長女、末っ子の次男と初老の親との家族の絆とそれぞれの思いが、実に細やかに丁寧に描かれ、山田洋次監督の『小津安二郎監督にささげる』というメッセージにあるように、監督の自分にとっての集大成の作品の一つにしようと言った思い入れが伝わってくる映画だった。日常のさりげない景色だが、美しい瀬戸内を丁寧に撮影し、景色そのものがメッセージを伝えてくるような画面にも監督の思いが伝わってくる。ただ、美しい瀬戸内の風景の中に見える、祝島の対岸に原子力発電所が計画されているのだが、家族の絆や瀬戸内の小島に住む人と人との暖かい心の触れ合いの対極にある原発に対するネガティブメッセージも、山田監督は発しているのだろうか。

 主演の橋爪功は、昭和の高度成長期を生き家族の絆やしがらみを包含し、自分の人生を眺める初老の役が最近は多い。彼のことで強く印象に残っているのは、私が中学・高校の頃にテレビドラマや後に映画にもなった、『若者たち』で次男の役をしたときのことだ。両親を無くし協力し支えあって生きていく4人の兄弟妹の生き様を描いた作品で、長男が田中邦衛、次男が橋爪功、三男が山本圭、長女は佐藤オリエが演じた。時代は高度成長期の真最中で、長男の田中邦衛は自分には学が無くなんとしても三男の山本圭には大学を卒業させようと思って我を忘れて頑張る現業労働者の兄を強烈な個性で演じていた。次男の橋爪功は、高度成長期に企業戦士として真面目で一生懸命に働く現業労働者を、三男の山本圭は知的で情熱的な学生役を演じ、ドラマの中で社会の矛盾や不正義をいつも告発していた。長女の佐藤オリエは、冷静で強く優しく兄たちの母親のような存在であった。私は、自分の実生活や丁度思春期で感受性の強かった頃であったが、自分の感性の琴線に触れるようなリアリティのあるメッセージに大いに心が洗われたことを覚えている。

 『東京家族』での橋爪功は『若者たち』の時の次男が、教員としてそのまま年輪を積み上げてきたような思いに重なってくる。演技は朴訥として達観したかのような個性を好演していた。笠智衆に重なるようなイメージが随所にあったが、特にわざとらしいわけでもなく自然的であり、山田監督のクリエイティビティなのか、橋爪功の脚本理解と表現なのだろう。

 何よりもたいへん綺麗な、山田監督らしい、押し付けでなくそっと控えめに、ごく自然に差し出すメッセージに心が洗われる映画らしい映画であった。

(続く)

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胃癌日記77

2013-03-07 18:08:40 | 闘病

   胃 癌 日 記 77

   -スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月9日)までの日々-

 

-薬の服用を止めて1ヶ月半。再び肝機能の検査-

 1月25日は大学学部の校友会の新年度の役員会で夕方から会議の後懇親会。私は学部校友会の役員も兼務している。学部校友会では当面の活動計画と何と言っても2015年に50周年を迎える学部の校友会企画をどうするかである。私は「半世紀のS学部の築いた地平」を焦点に私なりの企画イメージを持っているが、近々プレゼンに向けての準備を始めようと思っている。会議の後は新年度役員顔合わせということもあって、料理屋で懇親会。周りから酒を勧められるが全く酒を飲まない、というのにもすっかり慣れてきた。この日は遅くまで懇親。

 翌1月26日はやはり学部の1~4期生の学生生活の苦楽や志を一にした先輩や仲間たちとの「集い」があった。夕方5時に京都二条木屋町の料理屋に集い旧交を温めあった。私は4期生で集いの中では最年少。先輩達は、すでにリタイアした人、継続雇用や嘱託で仕事を続ける先輩、定年を過ぎても現役時代の卓抜した能力を請われて社会福祉の最前線で頑張る先輩、現役の地方議員、自営業等多士済々の先輩達だが、それぞれに能力や感性が優れており勉強になる話を沢山聞かせていただいた。80歳を過ぎ、未だに平和へのメッセージを発し続けておられるS先生を囲み、益々のご活躍とご健勝への祈念が、この集いを脈々と繋げている大きな柱の一つでもあり、今年もS先生の魂の叫びを聞かせていただいた。「集い」では8時過ぎまで旧交を深め合い、年末の再開を約束して散会となった。

  2月に入って仕事は益々忙しい。忙中ではあるが2月1日には仕事の帰りにジムに寄りトレーニング。この日は130回分登ったのと、体幹トレーニング。

 2月2日はN先生の受診日。朝はゆっくり起きて殆ど昼前にクリニックに行く。

 「先生。水虫の薬を止めて6週間ですので、肝機能検査をお願いできますか。」

 「そうやね、そしたら肝機能検査と電解質、あと検尿をしましょう。」

 と言うことで検査となった。さて、2週間後にはどんな結果が出てくるやら。おそらくノー・プロブレムだろうと思うが、2週間後のお楽しみ。

(続く)

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胃癌日記76

2013-03-06 19:31:28 | 闘病

   胃 癌 日 記 76

   スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月9日)までの日々

-思うところがあってトレーニングジムへ-

 年度末に向けて仕事は大いに忙しくて連日残業続き。私は、「好きなことには頑張るが、そうでないことには頑張らない」生き方が大事だと思っている。仕事でも好きな仕事は頑張るが、そうでない仕事は頑張らない。何でもかんでも仕事だからと言って、真面目にひたすら頑張っても疲れるだけだし、人によってはメンタルな病気を患うこともある。真面目であればあるほどそのリスクも高い。本当に嫌な仕事でも頑張らなければならないことも世の中にはある。私は若いときには会社経営者の経験をした。やりがいのある楽しい仕事も多かったが、正直そのときは資金繰りやら得意先が強要してくる無理な納期に間に合わせる為に相当な苦労をした。職人の労務管理やら本当に逃げ出したくなるような嫌な仕事をやらざるを得なかった。そして実際に胃潰瘍を患ったし、自分が責任を持つ会社であるのに出勤するのが嫌でエスケープしたくなることが少なくなかった。

 「好きなことには頑張るが、そうでないことには頑張らない」生き方が大事だと実感しだしたのは、2006年3月の未破裂脳動脈瘤クリッピング手術の後からそんな思いが出てきて、そしてスキルス胃癌の手術後、無事生還させていただいてから本当に実感として思うようになってきた。職場の真面目に一生懸命頑張っている若手にも、日々、

 「頑張るなよ」

 「頑張らなくて良いんだよ」

 などと、平社員の分際でえらそうに言っている。

 さて、そんな中で登山には頑張る、生きていた証となるメモリアル登山としてこの夏は西穂高から奥穂高への縦走を実現する思いは強い。そのため日々のトレーニングを兼ねてサークルでの山行はできるだけ参加しようと思うし、それだけでは物足りずトレーニングジムへ行くこととした。昨年の11月上旬にそのことを計画し、Tスポーツの法人会員として登録を済ませた。

 1月18日は残業も30分で切り上げ、職場近くのスーパーでトレーニングウェアを買い、自宅近くのTスポーツへと向かった。ジムではまずトレーニングメニューの作成とマシンの使い方などを教えてもらう為にトレーナーと相談。メニューを作成する前にトレーニングナビと言う機械で体の測定。所定の位置に裸足で立ってグリップを握り身体の測定をした。私の場合、体重は理想体重範囲内で体脂肪率も理想値、筋肉量は右腕と右足は多く、体幹、左足、左腕は平均量で右半身が強くバランスが少し良くない、とのこと。1年前に胃癌の開腹手術をしたことも言った上で、登山をするための足の持久力を強化することと身体のバランスを良くするためのトレーニングをどうするかを相談した。結果、バランスを良くするのに体幹を鍛える為、胸筋と背筋を増量するマシンでのトレーニングと、持久力特に山に登る為の筋肉と持久力を鍛える為のステップのマシンでのトレーニングをコーチしてもらった。

 18日はあまり時間も無く、機械を覚える程度でステップのマシンも40分、フロアーにして100階分を少し負荷をかけて登った。

 いよいよ仕事で多忙になってはきたが、好きなことには頑張るということで、翌週24日に再度ジム通い。雰囲気にも慣れたので、ストレッチと、腹筋、胸筋、背筋はマシンで結構一杯に負荷をかけてそれぞれワンセットこなす。ステップのマシンではこの日は少し負荷をかけて1時間15分で200階を登った。1階あたり4~5mとして、大体800~1000m登った計算になる。翌25日は仕事だったけれど、なるほど500~800mは登った後の心地よい疲れを感じた。ジム通いで楽しみがひとつ増えた。

(続く)

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胃癌日記75

2013-03-04 18:34:18 | 闘病

   胃 癌 日 記 75

   -スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月9日)までの日々-

-2013年も多忙な仕事始めの合間を縫ってハイキング-

 まだ冬期休暇中の1月5日には、ダイバーシティの就労支援講習会に、7日からの御用始は私が担当するフォーラムの企画の業務でいきなり大忙し。私のモットーである『マイペース』を崩さぬようにとはいえ残業続き。とはいえ1月10日は仕事からの帰りには、恵比寿神社に寄り、柄にもなくスキルス胃癌術後の順調な回復を感謝し、健康とファミリーの無事と、運が良くなるように祈願した。

 そんな合間を縫って、1月12日の土曜日は組合のサークルのハイキング、鞍馬から薬王坂を越えて八瀬大原の静原から瓢箪崩山、そしてリタイアしている先輩のT氏への表敬訪問に参加。T氏は昨年99歳の母親を亡くし、岩倉で一人暮らしをしている。

 8時5分の電車に乗って45分河原町着、そこから賀茂川の河川敷を歩いて出町柳へ、まずは準備運動代わりに軽くウォーキング。9時30分発の叡電に乗ると、本日のメンバーであるA氏と出遭った。A氏は登山のベテランで北山は知り尽くしているし、日本国中の山々を歩き回っている。私の職場の先輩で現在70歳だがまだまだ元気で、組合とは別に身近な山のサークルのリーダー的メンバーとしても活動している。2008年の夏、偶然にも大峰奥駈途中の玉置神社で再会したのがA氏である。叡電で山の話や職場の話をしているうちに、集合時間の10時丁度に鞍馬駅に着いた。

 他のメンバーを待って、10時20分出発。薬王坂を越えて静原に出て江文峠に12時着。昼食後12時30分に瓢箪崩山の登りにとり付く。峠からはいきなり急登で直ぐに尾根に出た。山らしい良い尾根道だ。枯葉が一杯積もり、猪が掘り返した跡があちこちにある。地中のミミズや、カブトムシ、クワガタなどの幼虫を食べる為に掘り返している。そんな道を歩きながらやがて寒谷峠を超えて、13時50分に瓢箪崩山頂上。頂上は標高532.4mで三等三角点があった。メンバーは皆健脚だ。順調なハイキング。頂上で記念撮影と小休止後寒谷峠に戻り、左の道を降り岩倉に向かった。暫く山道を降りて岩倉の住宅街に出、手作りのベーカリーに立ち寄ったり、ぶらぶら歩きながらT氏宅に到着。

 T氏は、6人で賑やかに押し寄せたのだが、本当に嬉しそうに大歓待をしてくれた。出前のお寿司を頂いて、次から次へと嬉しそうに懐かしそうに、若いときからの登山の写真を見せてくれた。今は故人となった先輩諸兄、諸姉の写真も沢山あり、随分と懐かしい思いをさせていただいた。T氏は一人暮らしとはいえ、少々メタボ気味であること以外は、頭も気持ちもしっかりしており、おじいちゃん思いの素敵な孫たちもよく訪問してきて、昨年なくなられたお母さんも眠るように99歳の天寿を全うされたとのことで、別離をちゃんと受け留め、現在平穏に暮らしておられる。

 「元気でね」

 と言って、18時過ぎにT氏宅を後にした。

(続く)

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