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家族の第2の原風景、満州・文官屯(ブンカントン)を訪ねて③

2006-06-21 21:57:27 | ファミリー
 本日は、満州・文官屯での家族の原風景をたどる、第3回目の話です。

 ‘いそ’の家族の満州・文官屯追想のメモ
(家族の文官屯追想メモ)
母 (明治四三年・千九百十年三月生) の「満州」文官屯にまつわる記憶は、釜山から「奉天」への汽車の車中に始まる。車窓の田園地帯には当時日本では見られなかった、黒い豚の群れが放牧されていた。二~三日後に「奉天」に到着、そのまま「文官屯」へ向かい、昼過ぎに到着後隣家の山田さんに簡単な飲食物を頂き一息ついたこと。翌日、共栄会へ日用品や食物等の配給物資を買い出しに行き、家族の「満州」生活がスタートした。「満州」では子育てに忙殺されつつ、現地でTを妊娠出産した。父親は「南満砲兵工廠」で第四位にランクされる技術者で、それなりの高額所得であった。軍属であり長靴を履き長剣を拝刀していた。「将校」クラスの軍人に付き、よく軍馬の後から着いて歩いていた。仕事では、満州中を駆け回っていた。母は、夫と家族の無事を祈って毎日近所の「藤見神社」へお百度参りをしていた。敗戦後父と同時に発疹チフスを発症、入院していた病院は、ソ連軍の侵攻とともに爆破されたが、父とともにリヤカーで避難した。その後ソ連軍の略奪行為等の難をのがれ、子供たちを守りながら、一九四六年六月に何とか「引き揚げ」に辿り着くことができた。「引き揚げ」のときは、「奉天駅」の公衆便所前の瓦礫化したレンガ囲いの中で、二日間雑魚寝して汽車を待った。汽車といっても無蓋貨物車であり、雨に降られ病気でぐったりとし、動けなかった当時小学校一年生の兄Jの耳の中に雨水が溜まっていたのを見て、情けなく、悲しかったことを昨日のように思い出す。姉H、兄Hは母親とともに毛布や布団、当座の着替え、干飯などを小学生ながら持てるだけ持って「引き揚げ」て来たというのに、父は自分のそろばん、計算尺、書類入れ、硯、筆等、それに「お金」と称して新聞紙を切ったものを箱に詰めて大事に持ち、家族の共有物は何一つ持っていなかった。もともと、自分勝手な性癖はあったが、敗戦のショックで一時期精神のバランスを崩していたようだ。
「引き揚げ」のとき、兄Jが腸チフス、当時「満州チフス」と言われた病気を発症した。あの、大変な腕白の兄が、四十度以上の高熱と血便に、泣く元気すらなく、ぐったりとして母の膝に顔を埋めていた。「引き揚げ船」の中で病気等で亡くなった人たちは、「戸板」に載せて日本海へ流し、水葬に付したのだが、母は「Jを決して海に流さない」と、「引き揚げ船中」片時も兄を放さず抱いていたのである。

姉H (一九三五年六月生 )の記憶は、「すずらん」や「女郎花」等が咲き乱れる地平線まで続く一面の草原。官舎の裏にはとてもきれいな小川が流れており、魚や川海老が泳いでいた。国民学校の遠足は歩いて日露戦争の記念館へ行った。家族で歩いて奉天の競馬場へ競馬見物にもいった。「文官屯駅」からは、「南満砲兵工廠」の方面に向かって「戦車」が何列も縦隊になって行進できる、まるでパリの凱旋門通りのように広い道が続いており、その左側の歩いて十分ほど奥まったところに「藤見神社」とその斜め向かいに「国民学校」があった。官舎はそのまだ奥にあった。敗戦後ソ連兵が侵攻し、略奪、暴行行為が繰り返された。母も姉も頭髪を丸刈りにし、男に扮し難を逃れた。父は、ロシア語が少しできたので、ソ連兵が侵攻してきた折に「案内人」として刈り出された。本人は非常に「嫌」であったが、やむなく「旧関東軍の憲兵隊」の家等に「案内」し「通訳」をしたが、ソ連兵が向かう方向には予め知らせ、避難するように連絡していた。「引き揚げ」は「満鉄」を乗り継ぎ「葫芦島(コロトウ)」から海路舞鶴へ向かった。七日間かけて舞鶴に到着したが、「引揚者には虱がわいている」といわれ、二日間待機させられ、「虱」駆除のため頭からDDTを散布されたことや、舞鶴到着後風呂に入れたが、「入れ」の号令後すぐ「上がれ」と言われ、浸かるひまも無かったことなどを記憶している。なお、「葫芦島」は現在では中国の海軍基地がある。
                            (続く)


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「葫芦島」 瀋陽「文官屯」 (加藤正宏)
2021-03-05 11:47:51
グーグルに移転した「加藤正宏の中国史跡探訪」の「瀋陽史跡探訪」に関わりの内容を書いています。ご覧ください。
1 関東軍第九0兵器工廠の大劇場
18 文官屯に残る鳥居
“イソじい”のブログを引用さえてもらっています。
24 葫蘆島(葫芦島)に行く
(中国新聞記事追加)
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