"いそ"あらため、イソじいの’山’遍路’紀行’闘病、そしてファミリー

“いそ”のページは、若者のキャリア形成を、目一杯応援するためにも“いそ”改め“イソじい”でリニューアル。

胃癌日記26

2012-06-29 20:28:31 | 闘病

                      胃 癌 日 記 26

 (仙人池と裏剣 夕景)

12月21日(水)

 朝6時30分に看護師さんに起こされて目が覚め、そのまま採血。7時40分朝食5分粥220g。8時40分に当直の先生の回診で、経過良好とのことで服帯を外す。50分にはY先生の回診で、手術瘡を見て腹部触診し、

 「まあいいでしょう。」

 とのこと。

 9時5分に20分ウォーク。40分に売店にポカリスエットを買いに行く。10時10分朝の間食でプレーンヨーグルト。本日は午前中にと思い、10時30分に予約したシャワーを浴びる。11時25分2本目の20分ウォーク。

 午後12時に昼食、5分粥220g。最近はK氏とよく話すが、大概はお互いの病気のことだが家族のことなども話すようになってきた。2時に連れ合いがやってきた。昨日から今日にかけての回復のことや、食事を抑えるように言われたこと、K氏の家族のことなど、結構溜まった話をする。3時30分に昼の間食で、いつものようにコーンスープ味の高カロリー飲料。4時に3本目の20分ウォーク。5時に連れ合いが帰った。身軽になった私は、連れ合いを送り、その足で売店に行きポカリスエットを買う。6時10分夕食。

 (モルゲンロートの裏剣 その1)

 8時にY先生が回診にやってきた。

 「順調に回復してきてはいるんですが、血液検査でカリウムの値が高いのです。カリウムイオン値が高いと言うことは、致死性の不整脈が起きます。」

 カリウムの値が高いなどとは始めて言われることだし、いきなり致死性だなどと言われ、せっかく順調な回復に気をよくしているのに、気がめげてしまう。

 「カリウムの値が高いというのは、よくあるケースとしては腎機能が良くないときに出てきます。ただ【いそ】さんの場合は腎機能は正常ですので、少し経過を見てみましょう。」

 「先生。手術の影響と言うことでしょうか。」

 「それはありません。とりあえず、カリウムイオンを下げるゼリーを摂ってください。普通は腎臓疾患の患者さんに服用していただく薬ですが、摂ってみてください。」

 と言われた。やれやれ、大したことはないと自分では思いつつも、入院が長引くのか。ひょっとすうと年内には退院できずに、病院で年を越さなければならないのか。

 夜の間食は衛生ボーロとアップルジュース。8時35分に4本目の20分ウォーク。

 本日の歩き10,880歩。(16周×4回)

 (モルゲンロートの裏剣 その2)

(続く)

 

 

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胃癌日記25

2012-06-28 18:15:12 | 闘病

                         胃 癌 日 記 25

 (剣沢 長治郎谷出合い 手前右は八ッ峰の取り付き)

 12月20日(火)

 朝6時40分目覚める。7時に看護師さんがやって来て採血。7時25分に朝食。本日も3分粥220gとおかず1品。昨夜T先生に全部食べたら駄目と言われ、朝のお粥は7割程度食べて、3割程度は残した。朝食時K氏と話す。

 「昨夜、T先生に『食事は全部食べたらあかん。縫合不良を起こしたら元も子もない。』と言われました。」

 「僕は腸の手術のせいか、全く言われません。やはり胃の手術は大変なんですね。」

 「それにしても、もう少し早く言ってもらわないと、こちらは栄養を充分摂らないといけないと思っていたもんですから。」

 とやりとり。K氏は、本日から5分粥から普通食になっている。また『回復の差』を付けられた。

 8時40分、Y先生の回診。腹部触診のあと膵液ドレーンの先を見て、

 「まあ、いいでしょう。もう大丈夫だからチューブを外しましょう。」

 と言って膵液ドレーンを抜いた。お腹の中のほうのどこか内臓や筋肉に触れながら、ヌルッといった感じで、体内から抜けていった。そして17日から1日2本に減っていた点滴も終わりとなり、点滴針を抜き、手術前日の8日以来13日ぶりに体中からドレーンやチューブが外され、フリーの身体になった。爽快な開放感。

 (剣沢 三の窓雪渓出合い 三の窓は最近氷河と分かった)

 「今日からシャワーも入っていいですよ。」

 「傷はお湯がかかっても大丈夫ですか。?」

 「暫くは擦らないようにしてください。お湯がかかるのは大丈夫です。」

 「先生。ところで昨夜T先生に食事は全部食べないほうが良い、と言われました。」

 「まあ、あまりお腹一杯は食べないほうが良いでしょう。手術後だから。もう少し辛抱してください。」

 と言われる。しかし、開放感に気持ちも軽くなって、9時45分には売店まで買い物に出かけ、金正日関係の記事が満載の新聞とポカリスエットを買ってきた。

 10時丁度に間食のカスタードプリン。11時15分に20分ウォーク。

 午後12時に昼食。昼食からは5分粥になった。5分粥220gとおかず3品。お粥は少し残しておく。

1時ごろ少し午睡。暫くするとシーツ交換のために起こされて、その間20分ウォーク。3時には手術後初めてのシャワーを浴びた。手術の前日のシャワー以来で、手術以降は清拭ばかりだったのだが、陰部などもきれいに洗い流してすっきりした。もっとも腹部の手術瘡にはまだテープが張られたままだ。シャワー後3時30分に間食で、いつものようにコーンスープ味の高カロリー飲料。5時20分に3本目の20分ウォーク。そのまま売店に行き、ポカリスエットとチョコレートを買う。

 6時50分夕食。5分粥220g。7時35分4本目の20分ウォーク。8時には夜の間食で『赤ちゃんえびせん』とアップルジュース。これからの人生に重たい思いを抱きながらも、着実な回復に少し気持ちが晴れた一日で、今日は話すことが沢山あったのに、連れ合いは用事で来られなかった。

 相変わらず、金正日や後継者やと同じ画面と解説を繰り返すテレビに辟易としながら、11時就寝。

 本日歩き10,260歩。(16周×3回)

 (仙人新道から三の窓雪渓(氷河)と裏剣)

(続く)

 

 

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胃癌日記24

2012-06-27 18:26:31 | 闘病

                       胃 癌 日 記 24

 (剣沢を下る 平蔵谷出会いから剣本峰を望む)

 12月19日(月)

 朝6時30分目覚める。7時30分朝食。3分粥220gとおかず。8時55分Y先生回診。傷跡を見て、腹部を触診、膵液を出すチューブの先のガーゼを診て、

 「まあいいでしょう。」

 とのこと。昨夜から、北朝鮮の金正日が17日に死去したとのニュースが流れてきている。どうなることやら。テレビはそのことばかり報道している。限られた情報で止むを得ない事もあるだろうが、同じ画面と解説ばかりがすべての放送局から流れてくる。

 10時20分清拭。40分間食で本日はプレーンヨーグルト。50分には20分ウォーク。11時15分に実習生がシャンプーをしてくれた。ちょっとぎこちなくて、あまり快適になったとは言いがたい。

 午後12時5分昼食。相変わらず3分粥220gおかず付き。1時45分連れ合いがやってくる。3時間食で、昨日と同じコーンスープ味の高カロリー飲料。4時10分に、本日は孫を学童保育に迎えに行くとのことで連れ合いが帰る。明日は来られないとのこと。4時30分20分ウォーク。その後職場に電話する。全身麻酔の挿管の後遺症で声がガラガラで出にくい。職場のW、K、S課長と仕事のことやら病気の経過について話す。Wが『Yが見舞いに行くと言っている』とのことだが、

 「だめ。来るな。」

 と返す。その後売店に行ってポカリスエットを買う。

 (平蔵谷の全景)

 6時10分夕食。3分粥220gとおかず1品。最近はK氏と一緒に食べて、家族のことやら仕事のことやら話している。しかしプライバシーにはお互い深くは立ち入らない思いで、会社名やらそんなことは話していない。

 7時45分、20分ウォーク。8時10分間食。本日はベビークッキーとアップルジュース。夜9時過ぎにT先生が回診にやって来て、

 「○○ちゃん、どうや?」

 「先生。頑張っています。毎日かなり歩いてますし、昨日からは20分ウォークを始め、これから1日に何本かやろうと思っています。今日は約10,000歩。食欲もあってご飯も残さず食べられています。」

 「ご飯全部食べてるの? 全部食べんでいいよ。無理して食べて手術瘡の接合不全になったら元も子もないよ。残したらいい。その替わり溶けるもんなら食べえもいい。アイスクリームやチョコレート、飴もちゃんと口の中で溶けるまで舐めてたらかめへんよ。もうちょっと辛抱し。」

 とのこと。わたしは早い回復を目指して頑張っており、身体も動かし、栄養も摂って、褒めてもらおうと思っていったのに、何たることだ。心の中で『先生。もっと早よ言うてえな。』とつぶやいた。

テレビはどこを見ても、金太郎飴のように、同じ企画と内容・解説の金正日死去や後継者は誰か、北朝鮮の今後などの特番の洪水。日本のマスコミの底の浅さをつくづく嘆きつつ、しかし自分の残された人生の空しさを考えたら、かなり覚めた目でそれを見ていて、結局就寝は11時。

 本日歩き9,180歩。(12周、13周、14周、15周各1回)

 (剣沢をさらに下り 長次郎谷出会いから 頂上稜線を望む)

(続く)

 

 

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胃癌日記23

2012-06-26 18:33:04 | 闘病

                       胃 癌 日 記 23

 (剱岳頂上から立山連峰 はるか奥には槍ヶ岳が遠望)

 12月18日(日) 誕生日

 本日63回目の誕生日。予期しなかったシチュエーションだ。こんな日に自分の残された人生を思わなければならなくなってしまった。

 朝6時35分目覚める。7時35分には放送があって朝食を談話ロビーに食べに行く。朝食といっても重湯100gなのだが、それでも待ち遠しくて、嬉しい。9時5分に清拭。15分には当直の先生の回診があった。その後売店にポカリスエットを買いにいく。

11時25分に20分ウォーク。今日からは、何週というより20分歩きを1本とすることとした。

「よく歩くように、運動するように。そうすれば血行が良くなり、傷の回復も早くなる。」

と言う先生の指示を、忠実に守っている。

 (剣山荘でのご来迎前)

 午後12時15分に昼ごはんの準備が出来たとの放送。談話ロビーに行くと重湯が卒業で、3部粥220gになっていた。しかもおかず付き。至福の幸せだ。私より3日遅く手術した同室のKさんは、胃は何とも無かったためすでに5分粥で少し羨ましいが、それでも粥とはいえ米粒を食べられることがなんと幸せなことかとつくづく実感した。

 2時50分には間食で、本日からはコーンスープ味の高カロリー飲料。3時に2回目の20分ウォーク。4時10分には連れ合いが来る。今日から3部粥になったこと、美味しくて全部食べたことなど話す。6時5分に夕食の準備が出来たとの放送で、連れ合いと一緒に談話ロビーに行く。3分粥220gとおかずを連れ合いに見せた。

 7時に連れ合いが帰る。8時の間食は、昨日までのジュースにベビー用の衛生ボーロが付いた。10時30分就寝。

 本日歩き5,950歩。(13周、12周、10周各1回)

 (後立山の鹿島槍ヶ岳からのサンライズ)

(続く)

 

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胃癌日記22

2012-06-25 18:49:56 | 闘病

                       胃 癌 日 記 22

 (剱岳頂上から八ツ峰を望む)

 

 12月17日(土)

 朝6時35分目覚める。

 8時45分、病棟の当直の先生の回診があり、切開部の下半分の跋鈎をしてくれた。8時45分Y先生が回診。傷口を見たり胃腸を触診して、

 「いいでしょう。今日の昼から食事も摂って良いです。」

 とのこと。いよいよ食事だ。回復に向かっていることを実感し、気持ちが軽くなる。これからの残された人生の重苦しさをひと時忘れる思いだ。たかだか重湯という『食べ物』に期待一杯だ。

 10時半頃吸入。45分実習生による清拭。

 午後12時15分アナウンスが流され、昼食の用意できたとのことで、談話ホールへ行く。私は自分の食事を貰ってテーブルに座り、手術後初めての食事を術後8日目に、術前の絶食日を入れると9日ぶりにいよいよ口にするのである。向かい側に座っているK氏は5分粥である。しかもおかずも3品付いている。羨ましいやら、自分のほうが回復が遅いのが悔しいやらの思いだが、私はおかずも無い重湯100gの一口目をスプーンですくって、口へ持って行った。そして恐る恐る飲み込んだ。

 「美味い!!」

 少し悲しいけど、本当に100gの重湯が美味かった。昨日のポカリスエットも美味かったが、この重湯はもっと違った美味さである。命の継続を実感させる美味さである。よく味わって昼食の重湯100gを頂いた。

 (八ツ峰と源次郎尾根にはさまれる長次郎谷)

 1時20分連れ合い来る。2時に兄も来て、釧路にいる3女の話などをしていると、2時15分には長女も本日午後休みとのことで見舞いにやってきた。千客万来の様子。2時45分に兄が帰る。3時20分には間食の重湯100gが出された。胃を3分の2切り取っているので1回あたりの食事量が少なく、その分回数を分けて食べることになる。当分1日6分食だ。間食の間連れ合いとMはコーヒーを飲みに行った。

 本日から、昨日までの生命の水であった点滴が1日2本に減ることになった。夕方には点滴を一旦外すことになった。点滴の針は刺したままだがチューブを外し、動くのにスタンドをゴロゴロ押していかなくても良くなった。また少し気が晴れた。

 6時15分夕食で、談話ホールで重湯100gを連れ合いの『看視』のもとに頂いた。7時連れ合い帰る。7時35分吸入、間食でジュースが出た。痰はすっかり楽になってきたので、明日からは吸入を止めようと思う。10時30分就寝。

 絶食は10日で解禁。本日歩き6,460歩。(8周×1、10周×3)

 (剱岳頂上から 源次郎尾根を見下ろす)

(続く)

 

 

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胃癌日記21

2012-06-22 18:39:09 | 闘病

                        胃 癌 日 記 21

 (ご来迎前の後立山連峰 手前は剣沢最上部)

 12月14日(水)

 朝6時35分目覚める。

 本日も8時40分にはT先生、Y先生の回診。痰のことを聞かれて、少しは楽になったが、どうしても吸い上げられないことなど話す。

 午前11時過ぎに、本日年休の長女Mが着替え等の荷物を届けに来て、直ぐに出て行く。

 午後2時半、連れ合いとMが一緒に病室へやってくる。3時過ぎに吸入。4時35分孫の迎えやらでMが先に帰る。5時過ぎには連れ合いも帰る。8時に吸入。

 夜、大分楽になってきた。今晩は痰が絡まず、夜中に目覚めることも無くよく寝られた。

 絶飲食7日目。本日歩き2,040歩。(3周×4)

  (早朝の剱岳と剣沢雪渓最上部)

 12月15日(木)

 朝6時30分目が覚める。40分にトイレに行き、頑張ったら、手術後初めて少しだけ大便が出た。先生や看護師さんからしょっちゅう『出たか、出たか』と聞かれており、少し安心。腸が機能している証となるのだろう。

10時25分清拭。11時過ぎ吸入。本日は連れ合いは来れないとのこと。気が抜けたようで少し寂しいが、子供でもないし、致し方ない。

同室のN氏が、午後に退院した。鼠径ヘルニアで手術はそんなに大きな手術ではなかったようだ。午後3時吸入。9時35分にも吸入。その後トイレに行ったが、本日2度目の大便が出た。殆ど液状の中に、塊がポツポツと。絶飲食なのに何なんだろう。本日の夜中は、痰のほうは少し楽になってきた。水分が飲めるようになると、多分、痰のほうも楽になるのだろうと思う。

絶飲食8日目。本日歩き2,720歩。(2周×1、4周×2、6周×1)

  (一服剣から、剣沢最上部、剣御前を振返る)

 12月16日(金)

 朝7時に目覚める。本日で手術から1週間。手術前の何ともいえぬ緊張感や自分の残された人生への閉塞した思い込みから、少しずつ気持ちがリラックスしてきて、余裕が出てきているような感じがする。

 8時過ぎにトイレに行き少し頑張ると大便が出た。やはり少しの固形物混じりの水様便。8時40分T先生回診後、56分Y先生の回診。Y先生の口癖の

 「まあ、いいでしょう。」

の後、今日は水を1日500ml飲んで良いという許可が出て、Nクリニックで貰っていた高血圧等の薬の再開も許可となった。更には、手術の腹部切開部の上部を跋鈎することとなった。跋鈎はチクチクする程度で痛くも無いし、たとえ上半分とはいえ、むしろ気持ちが軽くなり『快感』でさえある。

早速売店に行き、ポカリスエットを仕入れてきて、一口『恐る恐る』飲んでみた。『美味い!!』至福の味だ。何ともいえない。これで痰との戦いも終息する・・・。この調子なら、まもなく外出許可か、と期待する。同室のK氏は術後1週間たたずに本日跋鈎をした。水、重湯も昨日から摂っていて、私は少し焦ってはいたが何とか追いついた。やはり腸の手術のほうが、胃と比べて多少回復が早いのか。

午後12時40分連れ合いが来る。水がOKになったこと、上半分を跋鈎したことなどを話す。2時10分本日の歩きはフロア10周だ。3時吸入。吸入の後、手術後初めてのシャンプーを看護師さんにしてもらった。今日は4時15分、孫の迎えとかで、早めに連れ合いは帰った。

10時20分就寝。痰のほうは随分楽になったが、まだ引っかかってくる。

絶飲は9日で解禁。引続き絶食9日目。本日歩き5,100歩。(10周×3)

 (目の前にそびえる、前剣からの剣岳の雄姿)

(続く)

 

 

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胃癌日記20

2012-06-21 18:11:43 | 闘病

                        胃 癌 日 記 20

 (雷鳥沢から振返る 立山連峰)

12月13日(火)

 6時30分目が覚める。

 8時40分にはT先生、Y先生が回診に来て、背中から挿管してある麻酔のチューブを抜く。麻酔のチューブを抜いても、「痛み」を別段感じるわけでも無かった。

 「痰がつらい。痰との闘いです。」

 と先生に言うと、吸入をしてみようとのこと。ただ、吸入をしたからといって痰が止まるとか、楽に吸出せるというわけではないとのこと。カチカチの痰が柔らかくなるので少し楽になるかと言うことらしい。

 10時過ぎには同室のK氏が結腸癌の手術をおえ、一晩の回復室から歩いて病室に戻ってきた。辛いだろうと気を遣い、話しかけることは無かった。やがて奥さんがやってきた。

10時30分頃看護師さんが実習生とともにやってきて清拭。本日をもって尿の管も抜管した。これからはおしっこもトイレで出来る。すっきりとして気持ちが晴れ晴れとした。まだ膵液を出すチューブと点滴はつけたままだが、それでも少しずつの回復の幸せ感が膨らんでくる。

 (ついに剣御前から、剱岳の雄姿を望む)

清拭が終わると再び実習生が2人でやって来て、本日もヒアリング。本日のヒアリングは、課題が課せられているのか、緊張している様子で一生懸命だが空回りして、通り一遍のことしか聞けてない。私のほうから、山や家族のこと、遍路のこと、自分の脳動脈瘤クリッピング手術から最近の社会保障や若者の雇用状況の話、私のブログの話などしてあげた。

 午後2時過ぎに連れ合いが来る。抜管もして少し気が晴れたこと、実習生とのヒアリングで冗談も入れていろんな話をしてあげたことなどを話ながら、手術前の緊張や自分のこれからの残された人生への「立ち向かい」のことなど、自覚はしてなかったけれどずっしりと気持ちの上にのしかかっていた鉛のような「重し」から、少しずつ開放されてきているのかな、と、ふと思った。

 5時前に吸入。6時に連れ合い帰る。9時前に2度目の吸入。

 吸入のおかげか、夜中の痰は少し楽になってきた。しかし、吐き出すことが出来ない。相変わらず、一生懸命口まで吸い上げようとするが、嘔吐反応でオエーッとなり、そのときには傷口が痛い。この夜も、一晩でティッシュペーパー1箱以上が空になった。

 絶飲食6日目。本日歩き1,530歩(2周×1、3周×1、4周×1)

 (剣御前たから、富山平野へのサンセットを見る)

(続く)

 

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胃癌日記19

2012-06-20 18:59:18 | 闘病

                       胃 癌 日 記 19

 (富山地方鉄道 富山駅発立山行きに乗って)

 

12月12日(月)

 6時頃目覚める。目覚めるといっても昨夜同様、2時間に1度くらい目覚めて、さらには腰や背中の痺れや痛さ、身体を動かせば傷口の疼痛で、辛い。しかし、何とか頑張って7時20分には歩いてフロアを2周。

 ベッドに戻り寝転んでいると8時50分にY先生の回診。Y先生は月曜日午前中は外来を担当されているから、外来前の回診。

 「まあいいでしょう。ウリスロドレナージも止めましょう。」

 と言った。ウリスロドレナージとは抗生剤か?身体は辛くても少しでも回復に繋がっていくことは、励みになる。

 10時40分、今日の清拭は本日から実習に入って、私を担当する2名の看護学生。N高等看護学校の2年生でKさんとMさん。実習の練習台になるのは一向に構わないが、陰部の清拭などは自分でした。その後11時過ぎには2人一緒に部屋にやって来て、実習の一環として私のことをヒアリング。

 午後1時20分連れ合いがやってきた。暫くして、兄夫婦も見舞いにやってきた。兄は、病室に辿り着くまであちこちと経路に迷ったとのこと。

「何も悪いことしてへんのに、えらい目におおたわ。」

「昔は悪いことしてたから、罰が当たったんや。」

など、取り留めの無い話をしていたが、

「今は癌の手術いうても、昔で言う盲腸の手術みたいなもんや。」

とか言って、気持ちを休めてくれる。いろいろ話しているうちに、だんだんと痰が絡んでくるようになってきた。全身麻酔の呼吸管の挿管の後遺症に、飲まず食わずで体中、呼吸器系も乾燥し痰が硬くなって出にくく、自分で吐き出せない。1時間30分位いろんな話をして、兄夫婦は帰った。6時30分連れ合いも帰る。連れ合いが帰る少し前に、手術後始めてガスが少し出た。

  (地鉄の車窓から 常願寺川源流を見下ろす)

  (室道へ向かう高原バスの窓から ソーメン滝を望む)

 やがて夜になってくると痰が絡んで大変になってきた。咳やえずきで猛烈に苦しい。喉の奥のほうに固い痰があり、出そうと思って咳をすると傷口に直接響いてきて、疼痛を通り越して激痛に近い。それでも傷口を両側から押さえて咳をし、痰を少しでも上に出そうとする。喉の奥に出てきて吐き出そうとすると、えずいて嘔吐反応でオエーッとなり、それがまた傷口に猛烈に響いてきて、その痛さで涙が出てくる。少しずつ痰の「カケラ」をティッシュペーパーで拭っていると、一晩で一箱以上ペーパーを使ってしまった。ペーパーをごみ入れに捨てるのに身体を反転する。これがまた痛い。術後3日目にして、猛烈な『痰との闘い』になってきた。

絶飲食5日目。本日歩き1,360歩(フロア2周2回+4周1回)

 (室道ターミナルから望む 薄雲のかかる立山連峰)

(続く)

 

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胃癌日記18

2012-06-19 16:53:41 | 闘病

                        胃 癌 日 記 18

 (いよいよ結願の寺 四国88箇所 第88番霊場 大窪寺の山門)

1210日(土)

 手術翌日。朝8時50分にY先生の回診。様子を聞かれ殆ど寝れなかったことを言う。但し、人のこと(非難)は一切言わず。痛いこと、喉がガラガラのことのみ。9時45分に再度Y先生回診。どうやら先生の口癖のようだが『まあいいでしょう。』と言われる。10時15分に歩いて病室の803号室に戻る。

NさんKさんに挨拶。

 「どんどん歩くように。動いて血行が良くなれば術後の回復にも良い。」

 と先生に言われ、歩くように心がける。

 午後2時頃連れ合い、次女が来る。その後長女も来て、いろいろ話す。3時30分頃長女帰る。7時30分頃には連れ合い、次女も帰る。その後午後9時20分T先生回診。

 「○○ちゃん。全部きれいに取ったからな。ちゃんと仕事にも戻れるよ。」

 と言って励ましてくれる。今日は土曜日だ。『先生こそいつ休んでるんですか。身体に気をつけてください。』と言いたかった。

 Nさんがイヤホーンなしでテレビをつけていて、『うるさいなあ』と思っていたら、Kさんが

「テレビを消してください。」

と、注意をした。

絶飲食3日目。本日歩き680歩(フロア1周170歩×4周)。

 (88番霊場 大窪寺 本堂)

12月11日(日)

 朝6時に目が覚める。2時間に1度くらいで目が覚めてはいろんな思いが駆け巡り、一晩中良く寝られなかった。朝8時50分Y先生が回診。その後10時40分にT先生も回診にやってきた。今日は日曜日だ。T先生もY先生も、その熱心さには頭が下がり、尊敬する。

 T先生の回診の後、看護師さんがやって来て、身体を清拭してくれた。手術後初めての清拭で、温かくて気持ちが良かった。

 じっとしていると、腰や背中、臀部など体中が痺れてきてやがて痛くなってくる。かといって寝返りをうったり、起き上がろうとしたりすると手術の傷にピリピリと響き、思わず身体が防御反応を起こす。うっとおしくて節々が痛く、だるくて辛い。入院前には沢山本を読もうと思っていたが、とても本など読む気にならない。テレビのニュースかワイドショーを見るのがせきのやま。

 ベッドの上で悶々としていたら午後2時20分頃、連れ合いがやってきた。いろいろ喋ったりまどろんだりして時間を過す。私は飲めず食えずだから、しんどい。命の元の栄養は、1日6本の点滴。6時40分頃、連れ合いは家へと返った。

 絶飲食4日目。本日歩き1020歩。(フロア2周×3回・1周170歩)

 (造田駅まで戻り、高徳線で1番霊場 霊山寺へと向かう)

 (1番霊場 霊山寺に お礼参り で戻り、遍路の旅は終了)

(続く・・・次回から写真が「山」に変わります)

 

 

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胃癌日記17

2012-06-18 18:21:34 | 闘病

                        胃 癌 日 記 17

  (四国88ヶ所 第85番霊場 五剣山八栗寺 の登山口にて)

 いよいよ手術の日 3

 回復室は術後の患者が私を含めて3人だったが、そこでの一晩は大変だった。かつて2006年3月に脳外科手術をした日のICUも大変だった。その時年配の男性患者は一晩中、

 「痛い、痛い、何とかしてくれ。」

と叫び、挙句自分で傷口を接合している勾を抜き出したり、もう一人の年配の女性も

 「痛い、ヒーッヒーッ、」

 と叫び続け、看護師さんの様子や口ぶりでは、着ている物を脱ぎだしたり大騒ぎで、結局私は一睡も出来なかった。私も頭が割れるほど痛かったのだが、『手術して実際に頭が割れているから仕方が無い』などと自分に言い聞かせ我慢していた。もっともその時は術後に軽い脳出血をしていたようで、連れ合いの話によると我慢してはいけないのだそうだ。

 そんな経験もあり、今回も覚悟していたが、やはり大変だった。

 (八栗寺本堂)

 (第86番霊場 志度寺の立派な五重塔)

 私の右隣の年配の男性は、胆石で胆嚢を取ったらしい。最初のうち家族や親族の方と話していたときは、見舞いの方が『石や、といって見せてもらったが、パチンコの玉みたいのが2個やった。記念に持って返ってと言われた。胆嚢は卵みたいなもんやった。胆石なんて病気の内にはいれへん。』などの話に調子を合わせていたが、見舞いの人たちが返るとまもなく、

 「痛い、痛い。痛み止めの注射をしてくれ、痛み止めの薬をくれ。」

とうるさいことうるさいこと。それが一晩中続いた。左隣の患者さんは大腸の一部を切除した様子。一晩中、

 「痛い、痛い。わしはもう病院変わる。N市民病院へ帰るから先生に紹介状を書いてもらってくれ。痛いからN市民病院へ行く。救急車を呼べ。」

 などと叫び続ける。看護師さんも慣れてはいるだろうが、一生懸命なだめている。私は『やかましい!痛いのはおっさんらだけと違う。ちょっとは我慢しろ!だまっとれ!』とよっぽど言いたかったが、痛みとともに我慢した。身体を動かすと傷口が痛い。じっとしてると腰や節々がだるく、痛くなってくる。喉はがらがらで水が飲みたい。おまけに回りはわがままな『おっさん』ばかり。まるで拷問で、今回もやっぱりまどろむだけで一睡も出来なかった。 

 (いよいよ結願前の 第87番霊場 長尾寺の本堂)

(続く)

 

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胃癌日記16

2012-06-17 13:04:19 | 闘病

                        胃 癌 日 記 16

 (四国88箇所 第83番霊場 一宮寺は高松の市街地に)

 いよいよ手術の日 2

「【いそ】さん。終わりましたよ。」

Y先生に起こされた。

「手術は終わりましたよ。全部きれいに取りましたよ。」

「ありがとうございました。」

自分でも分かるほど、呂律が回らないしわがれた声で返事した。柱の時計を見ると午後4時30分だった。少し遅い。思ったより難しいことになっていたのか。胃以外にも切り進んだのか、何故予定より2時間以上も費やしたのか、良くないことばかりが頭に浮かんできた。やがて、看護師さんが、

「【いそ】さん。部屋に戻りましょうね。」

「部屋といっても回復室ですね。」

「そうです。今晩一晩は、回復室です。明日できれば午前中に病室に戻ります。」

北棟8階の病室が有るフロアのナースステーションの奥にある回復室に午後5時に『運ばれて』来ると、手術の間中ずっと待っていた連れ合いと、仕事が午前中で昼からやってきて待っていた長女がまもなく回復室に入ってきた。手術時間が長引いたことについては、お互い気にしつつも何も言わず。

「どう。痛い?」

「じっとしてると痛くないけれど、動くと痛いわ。」

「仕方ないわ。」

などと話している。全身麻酔で挿管されていた為、喉がいらつき水気を飲みたいが、術後の為絶飲食。辛い。5時30分頃、孫の世話の為長女は返った後でY先生がやってきて手術の説明。

 (早朝、高松のビジネスホテルから、屋島寺を目指す)

「お疲れ様でした。手術はたいへんでした。」

何が大変だったのか聞きたい。

「内臓が癒着していて、それを剥がすのに2時間以上、午前中一杯かかりました。盲腸は以前に手術していて癒着もあるのですが、まるでいろんな内臓手術をした人みたいに癒着していました。T先生も『こんなん、初めてや』と言っておられました。それで手間取り大変でした。」

「そうですか。癒着てそんなに大変ですか。」

「胃を切って、腸に繋げるのに引っ張ってこられないです。また、内臓に癒着があると腸閉塞とかの通過障害を併発し易いのですよ。」

との説明だった。しかし、私は素直に額面どおりの説明とは思えなかった。どこかに転移があって切り拡げていったのではないだろうか、きっとそうだろう。そう思った。

いろんな話をしているうちに、午後7時30分次女が仕事を終えて回復室へ駆けつけた。私は身体を動かすと痛いのでなるべく同じ姿勢のまま、連れ合い、次女と今日一日のことを話していた。やがて8時15分、

「頑張ってね。」

といって連れ合いと次女は帰っていった。

 (第84番霊場 屋島寺は、屋島の山頂にある)

(続く)

 

 

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胃癌日記15

2012-06-14 19:23:40 | 闘病

                        胃 癌 日 記 15

 (四国88箇所 第75番霊場 善通寺境内の賑わい)

12月8日(木)

 朝5時半目覚め。手術前日。マニュアル通りというか、朝から看護師のKさんがやってきて、下毛剃り、臍掃除の後シャワーを浴びる。

やがて空きベッドに入院患者がやってきた。簡単に挨拶、Kさんという。どうやら結腸部の大腸癌ということらしいが、詳しいことは分からない。結構大部なハードカバーの本も数冊持参され大変紳士然とした方で、後ほど奥さんも来られたが、奥さんもしっかりした感じの方であった。

午後から麻酔科の女性ドクターの麻酔についての説明、手術室ナースの説明、最中に連れ合いが来る。夕方から点滴が始まり、午後7時連れ合いは帰った。午後8時過ぎにNさんが手術を終えて病室に帰ってきた。回復室に行かないのは、比較的軽い手術であったのか。10時就寝。

 淡々とした一日で、さりとて集中できず本も読めず、活字を眺めるだけ。

 (第79番霊場 天皇寺は、街中だが恨めしい雰囲気のする寺) 

12月9日(金) いよいよ手術の日 1

 いよいよ手術日を迎えた。昨夜は少しまどろんでは目が覚めたりの繰り返しで、殆ど眠れなかった。およそ「不眠」には縁がない私だが、家族との楽しかった思い出、次女と連れ合いと一緒に行った登山、特に剱岳や大峰奥駆け達成の充実感と家族の絆が深まったこと、しんどくても楽しかった子育てのこと、子供たちひとりひとりのことやこれからの生活、孫のこと、悪戯盛りと生意気盛りの孫たちのこれからのことなどが走馬灯のように頭の中を駆け巡っていた。少しまどろんではまた目覚め、今度は私の生活のこと、K高校の入試に失敗したこと、K大学の入試に失敗したこと、就職では大阪市上級職公務員試験の最終試験まで進んだのに、受験者の中で唯一人最終で「落とされた」こと、会社を倒産させて自己破産したこと、そしてサラリーマンを経験したいへん厳しい会社で企画営業でトップの成績を残した後、一年奮起し現職に就いたことなどなど。またまどろんでは目覚め、連れ合いとの出会いと結婚、結婚後お互いの厳しい状況の中で、離婚の危機に陥ったことや別居のこと、そんな波乱万丈を乗り越えながら今では「生まれ変わることがもしあるなら、また連れ合いと一緒になりたい」と思っている。

 不思議と仕事のことはあまり思い浮かばなかったように思う。12月中締切りの労働法関係専門誌の原稿の締切りと校正のこと以外は、今私が担当している大型イベントの準備が進んでいるのだが、そのことで目覚めると言うことは無かったように思う。すっかり課長にまかせきってしまっているのか、仕事と自分の生命の事を考えたら、仕事のことはフェードアウトしてしまうのか。そのうちに朝6時になり、看護師さんがやってきて、トイレに行き浣腸をした。

 朝8時に、執刀のT先生続いて担当のY先生が部屋に来て、

 「いよいよやなあ。頑張ろうな。良く寝れたか?」

 と、激励してくれた。私は、良く寝ました。頑張りますので徹底的に癌を取ってください。癌をやっつけてください、と言いたかったが、とても言えず、蚊の鳴くような声で、

 「頑張ります。よろしくお願いします。」

 と、言ったように思う。

  (第81番霊場 白峰寺には天皇の陵墓があり、うっそうとした雰囲気)

 8時55分、病室を出発し、看護師さんとともに歩いて中棟6階の手術室に向かう。やがて手術室に入り手術台に横たわり、横向けに寝て脊柱への間接麻酔を行った。この麻酔は術後も苦痛を和らげるために脊柱の間にチューブを差し込んだままで体外の麻酔薬と繋ぐ麻酔。間接麻酔自体はたいした苦痛も無く施術が終わり柱の時計を見れば9時20分であった。

私は、手術の時間を気にしていた。余りに短時間で過ぎると、全身に転移していて『手遅れで手術の仕様が無かった』とか、余りに時間がかかると『周りのリンパや臓器に転移しており、そちらのほうも切除していった』ということを聞いており、手術前後の時間を覚えておくようにした。事前の説明で手術は9時からで、午後2時頃には終わると言われていた。全身麻酔の薬を点滴の中に入れてたのが9時30分。ほぼ瞬間に意識は無くなっていった。

 (第82番霊場 根香寺門前にある、牛鬼の石像)

(続く)

 

 

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胃癌日記14

2012-06-11 19:07:01 | 闘病

                      胃 癌 日 記 14

 (早朝の 四国88箇所 第68番霊場 神恵院と 69番霊場 観音寺 は観音寺市内で、同じ場所にある)

12月7日(水) いよいよ入院

 

 いよいよ今日が入院の日。手術の結果がどうであれ自分で納得して手術に臨んだつもりであったが、朝目が覚めてから、今更ながら本当に自分の生命、運や人生をS病院やT先生に委ねてしまってよかたのだろうか、K大学病院、O大学病院かF大学病院に行ったほうが良かったのでは、などという気持ちがジワーッと、沸々としてきた。

 

 何か悶々とした気持ちを引きずりながら、朝連れ合いと一緒に、暫く行けない千里山の姉H宅に訪問。Hには癌ことは何も言っていない。あまりショックなことは彼女には言わないほうが良い。そのあと近所の「靴専門店」に行き、入院中使用するスリッパを買いに行った。入院に必要な印鑑、身の回り品、検査等の同意書などは殆ど連れ合いが準備してくれているとはいえ、入院当日の朝にしては忙しい。しかし、かえって思いに耽る余裕もなく、淡々と時間が過ぎて、そして迫ってくる。

 

 12時30分に連れ合いとともに出発し、病院へと向かう。1時過ぎに梅田に着き、連れ合いが、

 

 「何か食べる?」

 

 「うん、腹減った。何でもいいけど暫し食えなくなるので、最後のご馳走を食いたい。」

 

 などと言い、店を物色。暫く探して茶屋町のイタリア風レストランに入り、ランチとしては少し豪華なセットメニューを食べた。ランチはなかなか美味しかった。癌の手術後は絶食絶飲で暫く何も食べられないし、食べることが出来るようになっても厳しい制限食が続き、そして体重が1割以上減ってしまうらしい。最悪の場合再び美味しいものが食べられなくなることもある。そんなことを考えながら、美味しいけれど複雑な思いで、「最後のご馳走」をいただいた。

 

 (第70番霊場 本山寺 では歩き遍路がサムルノリを演奏して奉納していた)

 (第74番霊場 甲山寺の本道へは500段以上の会談を登る)

 2時10分にS病院に入り、入院受付けを済ます。病室は803号室の3人部屋。相部屋の人はNさんで、挨拶をする。Nさんは今日の夕方から手術とのことで、後で分かったのだが『鼠径ヘルニア』とのこと。もうひとつのベッドは現在空きで明日一人入院とのこと。看護師さんのガイダンスと荷物整理をした後、売店にさらしやT字帯(ふんどし)、腹帯等を買いに行った。

 

 買い物から戻り、暫く連れ合いと話をしていたが、看護師さんがやってきた。

 

 「【いそ】さん。私は担当の看護師で、Mといいます。担当の先生はY先生です。よろしくお願いします。」

 

 「こちらこそよろしくお願いします。」

 

 「私は、明日は休みでこれないのですが、替わりのものがお世話いたします。」

 

 とのこと。Mさんは少し小柄で、美人だった。

 

やがて8階の小さなカンファレンスルームで5時45分からインフォームドコンセントを聞いた。未だ40歳前と思われるY先生で私の今後の担当主治医となられるとのことで、話は私と連れ合いと一緒に聞く。

 

 私の癌がスキルス胃癌であること、胃切除のやり方は全摘、さらに十二指腸の一部までの摘出、上部又は下部の3分の2から大部分の摘出など、食道と腸への直接の接合、あるいは残胃と食道又は腸への接合等があり、開腹して状況を見ながら決定する。私の場合リンパ節が腫れていて、それが転移かどうか分からないので、念のため胃の周辺のリンパ腺を切除する、その際胃から胆嚢へ指示を発する神経も切除され、そのため胆汁が分泌されなくなり溜まって胆泥ができ2・3年後には胆石が出来るのでこの際胆嚢も取ってしまう、そのことによって消化障害や通過障害が起こることも有る。腸閉塞となれば再手術もありうる。手術時のショック、麻酔のショック等で死ぬ場合も有る等々、手術のリスクについてこれでもかこれでもかというほど延々と話された。その上で手術の承諾書を渡され、押印しておくようにとのこと。患者に安心させてばかりというのも考え物だが、私はまたふと「この病院でよかったのかな」という思いがこみ上げてきた。念のために、

 

 「執刀はY先生ですか」

 

 と聞くと、

 

 「私もしますが、T先生が主にされます。」

 

 とのこと。すこし、ホッとした。

 

 (第75番霊場 善通寺の境内は大変な賑わい)

 インフォームドコンセントが30分。その後6時30分から入院食の夕食。昼のランチには及ばないが、それでも手術前日からということで明日朝からは暫くは拷問のような絶飲食。そのことを思うと、これこそ「最後の晩餐」か。

 

 連れ合いは夕食を確かめてから、家へと帰った。

 午後10時就寝。

 (第76番霊場 金蔵寺 本堂と黙々と祈る修験者達)

(続く)

 

 

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胃癌日記13

2012-06-11 18:44:22 | 闘病

                       胃 癌 日 記 13

  (四国88箇所 第35番霊場 三角寺 の山門は釣り鐘が吊るされている)

 12月2日(金)

 本日急遽休暇を取る。やはり長兄には話しておかねばならないので、長兄の家に自転車で行く。長兄は心配し過ぎるかと思い、今まで何も言わなかった。

 「実は、胃癌やねん。あんまりよくない癌や。」

 「胃癌か・・・」

 長兄は瞬間暗い感じになったが、その後、

 「いまどきの胃癌の手術は、昔の盲腸の手術みたいなものや。心配せんでええよ。」

 と、逆に励ましてくれた。そのあと中央図書館に行き12日締切りの本の原稿を一気に書き上げた。後は推敲だけにして。

  (遥か雲辺寺への尾根道の両側は、高原野菜)

12月3日(土)

 恩師のS先生の7回忌でもあり、先生を偲ぶゼミ同窓会の集いで、京都に集まる。S先生も肺癌を克服後、食道癌に冒され、亡くなっている。久しぶりに先輩たちや旧友と会う。

12月4日(日)

 朝一番で姉H宅にケアで訪問。今日は「一万人の第九」に参加の為連れ合いは来ず、一人で自転車で。家から千里ニュータウンまで自転車で行くのはなかなか大変だ。

 昼からは、S先生の著作集の編集出版の打合せで天王寺へ。昨日と同じメンバーもちらほら。予定より1時間早く終わり、私は甥が入所している「Sセンター」へと行く。午後4時半過ぎに着き甥のMと久々の談笑。Mも頑張っている。サポートできることは何でもしてやらねばと思う。

私は連れ合いと待ち合わせの梅田阪急オフィスタワーへと向かう。7時00分オフィスタワー着、時間があるのでコーヒーを飲み。30分に待ち合わせ場所へ。連れ合いはすでに来ていた。

 「何食べる?」

 「名残に、ワインバーでワインを飲んでチーズフォンデュ。昔のデートを思い出して。」

 「ワインはあかん。」

 「そしたらノンアルコールビール。」

 と言うことで話がまとまる。手術前のメモリアル・ディナー。ゆっくりと楽しんだ。

  (雲辺寺への道で。弁当スポット)

12月5日(月)・6日(火)

 仕事。滞留させないように、大忙し。6日の朝礼で、皆に

 「明日から1週間から10日くらい休みます。」

 と言う。すでに課長が検査入院すると言ってくれているが、仲間が次々と心配やら「激励」で声をかけてくる。仕事は面談など難しいケースばかり。

一通り仕事を済ませ、6日夕方にはさあ頑張るぞの気持ちで職場を後にする。

 (第65番霊場 雲辺寺本堂は四国88箇所の最高地にある)

                                        
(続く)

 

 

 

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胃癌日記12

2012-06-08 19:41:28 | 闘病

                        胃 癌 日 記 12

  (横峰寺へ登っていく遍路道の道しるべ)

11月25日(金)

 本日はAドクターの診察を受けて、手術前の胃透視の予約。本日も仕事を休み、若手のT君やAさんは、大丈夫ですかと心配してくれている。

 朝9時5分に病院で受付を済ませ、待合で本を読みながら待っていると、1時間後の10時5分に呼ばれた。Aドクターに手術の予定など聞かれたが、12月中旬頃でまだ決まっていないと言う。胃透視のほうは、11月30日に決定。検査はどんどん進めてくれているが、手術日が決まらなく、気が落ち着かない。

11月26日(土)

 本日はラグビーの試合の観戦。対戦相手はS大学。S大学は、メンタル的なまとまりが強いというか、特に人気のある名門チームに対しては闘志をむき出しにして挑戦してくる。昨年の最終戦も戦力的には明らかに有利であったのに、いざ試合が始まるとS大の圧倒的な闘志に押しまくられ、「惨敗」してしまった。今年もいやな予感がしていた。

 さて、試合が始まった。今年も戦力的には有利と周りも認めている。しかし、不安は当たってしまった。試合開始から「受けて立って」しまって、「言い訳」のような「まったりした」試合で、負けてしまった。

11月27日・28日(日)(月)

 27日(日)アメリカンフットボール、K大学戦観戦。完敗。

 28日(月)仕事。

 (早朝の東予港から石鎚山を遠望)

  (四国88箇所 第61番霊場 香園寺 は近代的な本堂・大師堂)

11月29日(火) 3回目の胃カメラ

 本日は胃カメラ。手術前の検査。9時30分からA先生が直接検査してくれる。今回は残渣もなくきれいに撮れたとのこと。癌の周辺の組織も穿刺して、胃の切除の範囲を判断するのだろう。執刀のT先生は、どうも広範囲に切除されそうな感じがする。

 胃カメラの後、外科受診。連れ合いと待ち合わせ、外科待合に行くと連れ合いが待っていた。明日の30日は、やはり術前の検査で、心臓のエコーと胃透視の検査が入っている。外科外来受付で、今日の午後は仕事が入っている旨を言い、何とか10時10分過ぎに診察をしていただいた。T先生の診察で、γGPTが非常に高いとか、循環器内科の検査前の受診をすること、負荷心電図と場合によってはカテーテルでの検査とか、気の滅入るような話も聞く。さらに、12月1日には循環器内科の診察を受けることを指示された。しかし10時50分には診察も精算も終わり、大阪の事務所行き仕事を始めた。昼からは「特定子会社見学会」で、大阪BPに向かう。

11月30日(水) 心臓エコー検査と胃透視

 本日は午前中時間年休で、検査。8時に病院着だが検査室の受付けも誰も居らず、本を読みながら待つ。8時50分に「心エコー」の検査開始。手術に耐えられるかの心機能の検査だろうと思う。約30分の検査が終了し、次は胃透視。9時20分に受付けを済ませ待たされて10時10分に胃透視開始。

透視のドクターが、

 「水か何か飲みましたか。」

 と盛んに聞いて、看護師さんや検査技士さんに盛んに私の腹部を揺らさせる。最初はよく分からなかったけれど、私もモニターを見ていて、どうも胃の底の大彎の「盛り上がり」が気になっているのかなと思った。「それが癌と違うの。」と思ったが、ドクターはカルテを見直して、やがて何も言わず、透視の撮影を続けた。

 11時前には透視も終わり、急いで仕事に戻る。

 12月1日(木) 負荷心電図

 3日続けての検査と診察。本日は時差勤務で何とか誤魔化している。今日は循環器内科S先生の診察。外科のT先生の指示の診察で、循環器内科受付けで待つ。8時50分にやっと受付け。しかし診察は早く9時過ぎには診察室に呼ばれ、説明を受け、そのまま検査へ。検査は負荷心電図。負荷は2段の階段を38回上り下りして、その経過の心電図を見るというもの。私にとっては38×2=72段の「階段上り」は「負荷」でもなかった。

 検査後Sドクターの診察で、

 「特に問題はありません。回復も早いです。」

 とのこと。本日はそこまでなので、急いで職場へと向かう。

 12時10分職場着。本日は時差出勤。仕事をしていると12時50分頃にS病院から電話が入った。ちょっとのタイミングで出ることが出来ず、電話留保のまま。

 やはり気になるので、14時10分にこちらから電話をコールバック。S病院の総合受付が出て、外科に繋いでもらう。やがて看護師さんが電話に出て、

 「【いそ】さんですね。入院が7日の水曜日に決まりました。」

 「そうですか。分かりました。ところで手術は何時になるのでしょうか。」

 「少し待ってください・・・。手術は9日ですね。」

 とのこと。いよいよ決まった。さあ頑張るぞ、の思いが湧いてきた。電話の後職場に戻り、S課長に入院日を言い、それまでの私の準備と仕事の日程調整をして、課長に申し入れた。

 (第60番霊場 横峰寺 は山の中、石鎚山を構える修験道の寺)

                                            (続く)

 

 

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