"いそ"あらため、イソじいの’山’遍路’紀行’闘病、そしてファミリー

“いそ”のページは、若者のキャリア形成を、目一杯応援するためにも“いそ”改め“イソじい”でリニューアル。

胃癌日記87

2013-07-31 18:27:06 | 闘病

胃 癌 日 記 87

-スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月9日)の日々-

 

 そんな中で、4月20日にはまたまたサークルのハイキングで、京都北山の峰床山に行った。

 

 峰床山は標高970メートルで、京都府下で2番目に高い山。峰床山は山頂付近に八丁平という高層湿原を抱き、多様な動物や植生に恵まれた大変素敵な山域だ。未だ我が子が小学生であったときに、八丁平までだったがファミリーハイキングでも来たことがあるし、友人のMと来たり単独やらで合計4回来ており、よく知っている山なのだ。今回は25年位振りになるのか、5回目のハイキングだ。

 

 朝7時45分に出町柳発のバスに乗って、葛川校バス停で下車しそこから登山が始まる。最初30分程は林道を歩くが、25年前とは随分変わってしまった感じがする。当時はずっと川沿いの右岸に道が続いていたはずだが、林道は何回か橋を渡り右岸、左岸と辿っていく。林道終点からは川を渡り暫くは小さな沢沿いに左岸を辿り、途中で渡渉し尾根を辿るのは覚えているが、渡渉地点や道の様子は全く変わってしまっている。道そのものが変わってしまっているのだろう。これはベテランのAリーダーに全幅の信頼を寄せるのが正解だろうと思った。

 

 かつてはハイキングの人気コースで、道もはっきりと付いていたが、今はルートファインディングに結構気を遣う。暫く尾根筋に近い道を登り続けると、一登りしたかなあという感じで、中村乗越という展望の良い峠に出る。ここから振り返れば比良連山が正面に拡がる。蓬莱山から武奈が岳が一望。行く先のほうには八丁平が有る。八丁平は高層湿原で30年前は自然がたっぷりと残っていて、廻りには栗の木があり猿やリスが遊びマムシがうじゃうじゃといた。今は早春で標高も900メートルで、木々の新芽も未だ出ておらず、枯れ木のような殺風景な立木が群生している。マムシも未だ冬眠から覚めていないのか、『マムシに注意』の看板はあるが、全く見かけない。それよりも何よりも、肝心の湿原が渇水状態で細くなってしまっている。細い川の流れがあってその周辺が湿原状態。以前は京都の尾瀬沼かというほど立派な湿原に、動物やいろんな植生に覆われ、本当に自然一杯の素敵な所だったのだが、この渇水状態はもう10年以上前頃かららしい。

 

 ベンチの有る辻で少し休憩の後、八丁平を周回する道をたどり、峰床山へと向かう。同志社大学ワンゲル小屋跡を過ぎ、頂上へ繋がる尾根道に入る。尾根道に入るところが三叉路で、峰床山と反対に少し行くと展望ポイントがある。ここからは、京都北山の南部が一望。目の前の足尾谷を挟んだ向こう側、南には京都府最高峰972メートルの皆子山が対峙する。西のほうを臨むと花背方面に雲取山、もう少し西は送電鉄塔が目印の桟敷が岳、さらにはるか西は愛宕山に地蔵岳。向きを変えて東を見れば小さくリフトの鉄塔も見える蓬莱山、その左の北のほうには西南稜に続く武奈が岳。もう、山の景色満喫だ。

 

 暫く景色を堪能した後引き返し、尾根道を辿るとまもなく標高971.5メートル、京都府第2位の峰床山山頂に着いた。丁度昼前に頂上着で、昼食を食べひと時談笑。昼食後八丁平の周回道をぐるっと回って辻に戻り、登ってきた道を帰った。のんびり歩いてゆっくり戻ったが、3時には登り口の葛川校バス停に着き、3時50分発の近若バスで樫田へ。4時40分JR樫田駅着、ここで解散し、4時50分発のJRで帰路へとついた。

 

 

 4月27日の日曜日は、長い間モニターが着かなくなり壊れていた携帯電話を買い替え、ショップに行って新しい携帯電話にデータを移し変えた。久しぶりにすっきりした気分だが、機械が変わり使い慣れるまで一苦労しそうだ。月末30日は、職場の若手の異動で、壮行会を兼ねたカラオケパーティ。大いに盛り上がったのはいいが、私は酒を飲まないので、盛り上がりに合わせるのが大変だった。

(続く)

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胃癌日記86

2013-07-29 17:26:59 | 闘病

胃 癌 日 記 86

-スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月9日)の日々-

 -4月は仕事の合間を縫って、お花見・ハイキング三昧-

 2013年度の開始、4月に入ると暖かい日が続いた。

 4月5日は職場の若手を中心に、恒例の平野神社の夜桜見物に行くこととなった。若手8人とその他で総計11名。花見茶屋の囲いの中のゴザに陣取って、和気藹々と語り会い、日頃の鬱憤を晴らした。桜はすばらしく咲き乱れ申し分の無い花見のシチュエーションとなった。が、私は酒を一滴も飲まず、みんなのテンションがどんどん上がっていくのに取り残されて、少しづつ空しい思いにもなってくる。まあ、それでも賑やかな宴会が繰り広げられた。若手といっても全員女性なので、賑やかなことこの上ないが、罵詈罵声というわけではないので、楽しかった。午後10時前に散会。

 さて、2日後の4月7日の土曜日は、学生時代の同期の同志による恒例の花見会。昨年は鴨川河畔で花見をしたが、猛烈な寒の戻りに加えて雨までばらつきだして、散々な思いをしたこともあり、今年は最初から三条の料理屋集合とした。昨年10月の尾道旅行以来の再会でそれぞれの近況報告。まあ、殆どのメンバーが65歳絡みになってきて、ハッピーかアンハッピーかよくわからないが、リタイアがらみの話題が多かった。私は、胃癌のその後の経過や、術後にめげず月2回のハイキング、毎週のジム通い、読書のことやリタイア後のライフワークのことなどを話した。いつものように女性陣は元気溌剌で、人生何時だって前向きに生きているようだ。われわれが学生時代は男女比は9:1という感じだったが、活動的な学生は女子学生のほうが圧倒的に多く、本日の集いにしても8:3だが女性が目立つ。

 楽しい飲食と懇親の後花見本番で、まずは白川から切通しから祇園甲部、女紅場へ。現在大学教員をしていて京都の街や町衆に博識なM君の薀蓄を聞きながら逍遥。切通しでは、偶然M君の教え子の女子学生に出会い、しばしみんなで談笑後記念写真を写してもらう。祇園甲部から花見小路を抜け、場違いなJRAの祇園場外馬券売り場の前を通り建仁寺へ。ここでもM君の薀蓄を聞いた後、町屋の路地の間を通り東山安井神社へ。この神社は縁結びではなくて『縁切り』にご利益が有る。M君によると『縁切り』というのは『悪縁切り』で酒やタバコや博打などから『縁切り』で、その上で『良縁』が成就するそうだ。ご利益を期待してか、多くの人がお参りしていた。若い女性が圧倒的に多いが、絵馬を見ていると深刻な内容のものがいくつもあった。そこから東山通を横断し、石塀小路を通り北政所・ねねの寺といわれる高台寺に行き、円山公園に向かう。

 『清水へ 祇園をよぎる 桜月夜 こよひ逢うひと みな美しき』

 と、与謝野晶子が詠んだのは、産寧坂(さんねんざか)から、この辺りの道だった。

 祇園の塔を過ぎ、学生時代に集会やらでよく来た円山音楽堂まで来た。時間も午後4時前となり、コーヒーでも飲もうということで、長楽館へ入る。長楽館は100年以上前の建造物で、当時タバコ王といわれた村田翁の建立とのこと。京都市有形文化財に指定されている。長楽館は予約制で格式も高く、普通は入られないらしいのだが、ここでもM君は『顔』が利き、何とか11名分の席を確保してもらった。ゆっくりと美味しいコーヒーを味わいながら、今秋の懇親会での再会を約束し、今年もまた楽しかったお花見の集いも終わった。

 12日夜には、学会の有志が集い、今般大阪の大学に副学長として赴任してきたF君の歓迎会があった。F君は私の大学時代の同期で以前には学会の会長も経験している。身近なところで活躍する仲間が増えて、大いに刺激になる。

 14日の日曜日は職場での春の遠足と称して、懇親ピクニック。コースは昨年と同じ銀閣寺門前集合大文字山から如意岳に登り東山を歩いて南禅寺で湯豆腐の昼食、その後哲学の道を歩き銀閣寺まで戻るコース。桜は大分散ってしまって、遅咲きの八重桜が咲き残っている。今年はI君と愛娘Mちゃんも含め、職場女子会をメーンに10名の参加。そして、今年は大文字山で豚汁を作って食べようということになった。仕事の分担は女子会が切った材料、I先生が鍋のコッフェルと乾杯用飲み物、私がガスバーナーと水2リットル×2本と箸等もろもろ。如意岳山頂の三角点の有るちょっとした広場で豚汁を作る。場所と道具をセットするのは私、豚汁を作るのは元シェフのI君、乾杯の段取はI先生と、男性陣はこまめに動き、ここでも主役は女子会。賑やかに乾杯をして、美味しい豚汁を全員が楽しんだ。

 奥丹で湯豆腐をいただいた後、I先生と子連れのI君は帰路に着き、残った女子会と私は哲学の道を銀閣寺へと戻った。今年も楽しい春の遠足だった。

 ぐっと昭和の雰囲気が漂う職場というか女子会は、温かみがあって私は好きだ。

  仕事は、最近は大阪勤務が多く学生と話す時間が多い。多くの若々しい新しい感性に触れ、勉強にも新しい課題発見にもなり、これからの仕事というか大げさに言えばライフワークに取組んでいくモチベーションに繋がり、気持ちが充実する。

(続く)

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パライソメッセージ20130726 No.21

2013-07-26 18:19:23 | メッセージ

パライソメッセージ20130726 No.21

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パライソメッセージ 2013.07.26 N0.21

 Mail : isokawas@goo.jp

     Blog : http://blog.goo.ne.jp/isokawas

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 「パライソメッセージ20130726 No.21」を送ります。「不要だ」「余計なお世話だ」といわれる方は、お手数ですがその旨ご連絡お願いします。

【主張・意見・コメントのページ】

テーマ:何故日本は『壊滅的な』状況になってしまったのか⑤ 

 『壊滅的』な状況から、日本のサステイナビリティ・ディベロップメント(Sustainability Development:持続可能な発展)はどうあるべきなのか。私は、その骨格となるのは平和外交と新自由由主義からの脱却であると思う。

 外交について言うと、日本には平和憲法があり憲法9条がある。しかし世界の国々は平和憲法があるにもかかわらずイラクへのPKO派遣などを行っている日本に対して、いぶかしい思いを持ち、少なからぬ不信を抱いているのが現状だろう。先進工業国も途上国、紛争当事者の国も、日本への評価はアメリカの強固な同盟国といった見方であろう。同盟というのは国際的には軍事同盟のことであって、平和『同盟』という概念は存在しない。平和の場合は友好条約や協定であり、対等平等の関係の具体的約束となる。日米軍事同盟における双方の権利・義務は具体的には日米安全保障条約で規定される。しかし、それは決して対等平等ではなく、日米地位協定に見られるように片務的、屈辱的軍事同盟である。

 日米地位協定とは安全保障条約つまり軍事同盟の前提となる協定で、米軍は日本の国土の『好きな場所を自由に』(第6条)『日本の負担で』(思いやり予算)『自由気ままに』(治外法権)使用することが出来る、というものである。協定を根拠にして在日米軍基地があり、沖縄の基地があり、断罪されない治外法権の米兵による犯罪行為が過去から重ねられてきた。  

 一方、現在アジアの23カ国の中で、アメリカと軍事同盟を結んでいるのは日本と韓国だけである。冷戦時代のアジアには、SEATO(東南アジア条約機構)といった反共軍事同盟が存在し、多くの国が参加していた。しかし1990年代の旧ソ連の崩壊後冷戦が終息し、SEATOも実質的に機能しなくなり消滅していく。ASEANは、当初反共同盟的色合いで、ベトナム戦争に派兵したフィリピンが当初の加盟国であったりして、長い間大きな進展は無かった。しかし今日では当のベトナムも参加し、新聞でも報道されるように10カ国が加盟し、東南アジアの地域統合体としての役割を果たし、その政治力・経済力は国際的にも大きな影響を持っている。ASEAN全体のGDPは日本のそれの40%くらい、人口はEU全体よりも多い。ASEAN諸国ではフィリッピンをはじめ全ての国から米軍は撤退し、中立的な連合体として周辺地域に影響を広げ、ドル経済圏、EUに続く第3世界としての存在感を増している。

 日本はASEANの発足当初から関係は深かったが、2000年前後から中国、韓国が加わりASEAN+3、2000年以降はオーストラリア、ニュージーランド、インド等も加わり経済連携が進められているが、自由貿易協定は中国が先行した。日本はアメリカの対中国政策に配慮したのかここでも中国に遅れをとり、逆転されてしまった。

 さて、日米軍事同盟だが、肯定論者は中国、北朝鮮の脅威に対抗する抑止力として必要と論じている。日本と韓国だけがアジアでアメリカと軍事同盟を結んでいるが、片務的、屈辱的軍事同盟は日本だけである。世界でも顰蹙を買っている屈辱的、片務的軍事同盟を解消するのは2つの道しかない。つまり憲法9条を改訂し自主独立の軍隊を持ち、韓国のようにアメリカとは形式上『対等の』関係で軍事同盟を締結するのか、それとも軍事同盟そのものを廃棄するのか、である。当然のことだが、独立国が自衛権を有するのは当然のことであり、そのことは否定しない。

 私は、軍事同盟そのものを廃棄し、自主独立の日本を希求することが日本のこれから生きるべき道であると確信する。理由は3点。

 第一に、戦後の日本が世界の中で評価され、大きな経済成長を達成してきたのは、日本が憲法9条を持ち戦争をしない国であるということが世界の、わけても途上国での信頼を得る大きなバックグラウンドであったいうことである。今日本の世界からの信頼は大きく揺らいできている。イラクへの継続的派遣、安部自民党による憲法改悪の企て、中国の領土問題を巡る大義の無い振る舞いや北朝鮮の動向を煽り立てたり、橋下の慰安婦問題本音発言に絡め歴史を捏造しようとしたりで、安物のナショナリズムを煽り立てることによって、周辺国のみならず世界の国々から大きな懸念と顰蹙をかっている。先日、テレビ討論で自民党の石破幹事長は『軍法会議』に言及した。現在の自衛隊は『軍隊』ではなく、法的には通常の法体系で律せられる。それでは駄目なので、軍に関する規則や命令への服務を律する『軍法会議』が必要で、命令に背いたり脱走、離脱等の場合最高刑で処分する、つまり死刑ということである。このことは安倍首相も思いを共有しているのだろう。テレビ討論以降、弁明も否定も一切行っていない。これには一部の報道で、現職自衛官でさえ『われわれは専守防衛を宣誓して自衛官になった』と言い、大いなる懸念を表明しているとのこと。

 こういった日本の右傾化、ナショナリズムの鼓舞、戦争が出来る国への転換が、外国からどう見られるのか。憲法改悪、再軍備にうつつを言っている間に、ASEANにおける経済協定は中国に持っていかれている。そのアメリカが日本を飛び越えて中国と同盟を結ばない保証は何も無い。そのほうがアメリカにとっては明らかにメリットがあるだろう。片務的・屈辱的日米軍事同盟は破棄することが、世界の中で日本が生き延びていくこと、日本再生にとって重要であると思う。

 第二、第三の理由は次回以降。

(続く)

 

「一押しBook」

 

 

書名:知の逆転

著者:吉成真由美インタビュー編、MIT卒業、ハーバード大学院修士(脳科学専攻)、NHKディレクターからサイエンスライター

出版社:NHK出版、2012年12月初版、903円(税込み)

内容:

 この本は、吉成氏が6名のアメリカの叡智にインタビューしたものを編集している。ジャレド・ダイアモンドは科学と宗教を脳科学から分析、ノーム・チョムスキーは資本主義、権力をアメリカ社会批判から延べ、科学の可能性に論述。オリバー・サックスは脳、音楽、教育と遺伝子などを論じ、マービン・ミンスキーはロボット工学、人工知能の可能性を『なぜ福島にロボットを送れなかったか』という問いかけから述べている。トム・レイトンは数学者が数学を武器に前人未到のサイバーワールドを展開し、アカマイを設立しスティーブ・ジョブズから賞賛される。DNAの二重らせん構造を発見したジェームズ・ワトソンは科学研究の将来の可能性、ダーウィンと神の関係、真実、教育、尊厳死を語る。

 現代の世界には哲学が無いと、私は嘆いている。新自由主義は、資本主義・自由主義からの後退的・退廃的反動へまっしぐらである。その様相はブラック企業に象徴的なように、封建制、いや奴隷制への逆戻りさえ思わせる。そんな世界的な殺伐とした刹那的トレンドの中で6名の叡智は、大変貴重で筋の通った『哲学』を語っており、これは人類に対するサジェッションに値すると思う。是非お勧めの一冊。

イソの評価:★★★★★

蔵書:イソ蔵書(貸し出し随時)

(続く)

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胃癌日記85

2013-07-24 19:17:24 | 闘病

胃 癌 日 記 85

-スキルス胃癌手術から1年半の日々-

 -サークルでのポンポン山ハイキング・仕事・夜桜見物-

 3月23日は、サークルでのポンポン山ハイキング。今回のハイキングはサークルの定年退職者を送る企画の一環で、和気藹々と。

 朝8時30分東向日駅集合、8時42分のバスに乗って善峰寺、そこから杉谷集落を通り10時45分にポンポン山頂上。記念写真小休止後高槻方面へ。12時15分に本山寺で境内から少し離れたアスファルトの道端で昼食。13時50分神峯山寺。そこから舗装道路を歩き摂津峡に入り、摂津峡を抜けて15時20分に摂津峡温泉の翔風苑に到着、温泉入浴。まずは順調なハイキング。

 本日はその後サークルの定年退職者を送る会で、高槻市内の料理屋へと行き、17時過ぎから宴会開始。今回のゲストのHさんを労い、楽しい2時間あまりを過した。

 仕事のほうは相変わらず忙しい。大阪での仕事も多く、ばたばたしている。3月の20日から、「パライソメッセージ」を書き出した。その理由は、私も現役が来年の3月までとなり、ここにきて自分の存在の証を置いておきたい、といった思いになってきたことである。あと1年でフェードアウトしていくわけだが、自分としてはハッピィ・リタイアといった思いは無い。まだ遣り残したものの方がはるかに多い。そんな思いで次への展開のステップを刻む意味で、メッセージを残そうといったような思いで有る。「パライソメッセージ」は、週間にして、職場の皆さん、心を許す仲間たちや先輩諸氏にメールで配信し、ブログにもアップしていく。

 3月30日の土曜日には、お彼岸に行きそびれたお墓参りに行った。夕方からは連れ合いと長女と孫Tとの4人で、万博公園に夜桜見物。今年は温かい日が殆ど無かったが、ここ数日で急に桜が満開になってしまった。お弁当を仕入れて、夜桜を見物して、ライトアップされた桜の木の下でお弁当。

(続く)

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胃癌日記84

2013-07-23 17:40:30 | 闘病

胃 癌 日 記 84

-スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月9日)の日々-

 

 霊山寺を出て県道を走り、3時前に鳴門の大塚美術館に着いた。駐車場に着いた時には雨模様で、シャトルバスを待つ間に本降りになってきた。2時50分美術館着。大体駆け足で1時間ちょっとで見学ができると計画していた。

 大塚美術館は、バロックやルネッサンス期以降の世界の名画はほぼ全てといっていいほど、精密・精巧な陶板画に再生されており、見る前は『所詮レプリカ』と、実はたかをくぐっていた。ところが実際に見だすと陶板画の精密なことや、独特の光沢を持ってしかも色が焦ることなく、展示するシチュエーションの作りも半端でなく壮大で、一つ一つの陶板画のすばらしさもさることながら、展示空間の演出に大いに魅せられた。1時間ちょっとの見学時間かと思っていたが、結局閉館時間ぎりぎりの午後5時まで駆け足で、コーヒータイムもなくひたすら見学。それでももう少し時間が欲しかった。

 大塚美術館を出て、再び大鳴門橋をわたり淡路島へ。県道を走り午後5時40分に南淡路ロイヤルホテル着。南淡温泉にゆったりと浸り、おいしい和食を頂き、一日目は終了した。

 翌21日は朝から温泉に入り、朝食後早めに出発。一日目の淡路サービスエリアで貰ったスタンプラリーがあり、本日は予定の行動プラスオプションでスタンプラリー。

 朝一番に開館前の大鳴戸橋記念館に入り込み、スタンプをゲット。続いて、『たこせんべいの里』に立ち寄り、スタンプゲットと土産を仕入れる。続いて蓮華寺へ。蓮花寺へは入り口の道が分からず、県道から生活道路に入り込み、細い道を迷路のように走り、結局地元のおばあさんに道を尋ねて、やっと辿り着いた。真言宗の閑静なお寺で、そう大きくはないが五百羅漢を納めたお堂があり、鍵が開いていたので中に入りお参りした。

 蓮華寺を出て、一旦海沿いを走り慶野松原を過ぎて11時10分に五色町の、高田屋嘉兵衛記念館で資料見ていると、管理のおじさんが、われわれの為に、と言っても狭い記念館はわれわれ以外に客もいないが、ビデオを上映してくれた。続いてウェルネスパーク五色。ここにも高田屋嘉兵衛の記念館のような建物があった。五色町は高田屋嘉兵衛と『菜の花の沖』の町だった。続いて海岸沿いの道路を走り、淡路瓦や線香といった淡路島の特産品を製造する会社を通りすごし、群家から内陸に入り伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)へ。この神宮は由緒も深く、イザナギノミコとトイザナミノミコトの日本創造の地とのこと。閑静で重厚な神宮であった。そのあと売店のおばさんに勧められて、丘の上のラッパ水仙の栽培畑を見学。

 伊弉諾神宮を出て、再び海岸通に戻り北上し、野島断層記念館着。ここは1995年の阪神淡路大震災の震源地に建てられた記念館で、私は実は1996年にママチャリで淡路島一周をした時に一度訪れている。1995年は個人的には大きな転機の年で、思いは深い。

 今回は2度目の訪問で、連れ合いと一緒。また少し違った思いで再びの見学。遅めの昼食をレストハウスでした後、記念館を見学した。あの1995年の忌まわしい思いが甦ってきて複雑な思いがする。私は仕事もあり神戸へよく行ったが、一面焼け野原となってしまった青木や長田の駅前商店街を、何故だか「ごめんな、ごめんな・・・」と心の中でつぶやきながら、泣きながら通り過ぎて行ったのが、ついこの前のように思い出された。

 連れ合いともども少しウェットな気分になったが、約1時間の見学後再び海岸道路を北上し、暫く走って内陸に入り、15時に、淡路花さじきのフラワーランド着。山の上に展望台があり、大阪湾側の斜面は一面のお花畑。この季節は菜の花が群生し、一面黄色い絨毯。展望台の直ぐ下の花壇には菫が咲いていた。

 40分の見学の後、いよいよ帰路につく。1泊2日の鳴戸・淡路島の旅もこれでおしまいで、連れ合いともども余韻に少し浸りながら、海岸通をぐるっと周って淡路インターチェンジから高速淡路道に乗り、明石大橋をわたり瀬戸内道、中国道を経由して、17時40分に帰着。思い出に残る楽しい旅も終わった。

 この日は卒業式があり、帰着後再び外出で、卒業謝恩パーティに参加し若者たちの門出を祝った。

(続く) 

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胃癌日記83

2013-07-22 18:46:22 | 闘病

胃 癌 日 記 83

-スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月9日)までの日々-

 

 -学会研究集会への参加と、3月のファミリーハイキング-

 

 相変わらず多忙な日々が続く。3月16日は私が所属する日本CD学会の関西支部研究集会に参加した。研究集会では3本の発表があった。いずれもキャリアデザイン支援の実践からの報告で、真摯な取り組みであり改めてたくさんのことを学ばせていただいた。全ての報告に対して、意見や質問を積極的にして理解を深めた。ただ、報告の中でコーチングの手法にかなり違和感を持つものがあり、その旨発言し意見表明をした。

 翌3月17日はファミリーハイキング。朝5時50分に起床して準備し、7時40分に出発。家からは連れ合いと下の孫と私の3人。国際会館のバスターミナルで次女と合流し、本日のコースは岩倉から瓢箪崩山と金毘羅山の連続登山で、その後大原温泉に入浴する予定だ。

 

 バスターミナルから歩き出し岩倉の街中を行く。実は本日地図を忘れてきてしまった。そのため岩倉の街中の舗装道路を歩き続けるのだが、どうも登山口へのアプローチが分からない。何回か道を聞きやっとのことで登山口へのアプローチが分かり、10時15分に上り口である林道入り口に辿り着いた。約40分の遅れ。ファミリーのブーイングも高鳴りし、スタート早々前途が案じられることとなってしまった。

 

 この日はファミリーの体調が整わず、予定時間の回復どころかだんだんと遅れが出始め、やむなく行程途中で昼食とし、昼食後は後半の登山である金毘羅山を断念することとした。前回の雨天と道迷いといい、金毘羅山は縁が無いのかなあと、すこし残念な気持ちだ。

 

 結局、江文峠から江文神社へ、そこから再び舗装道路を寂光院まで歩き、大原の里温泉に浸かる。温泉は良いのだが、本日のファミリーハイキングは、地図で道迷い、体調整わず、長い舗装道路歩きでおおむねブーイングで不評だった。来月挽回しようと思う。

 

 

 

 -淡路島旅行-

 

 3月は年度替りの月で、成り行きで仕事は多忙になるし、さらに輪を加えて2月の企画のデータ集計やらアンケート集計。おまけに歓送迎会とやらで超多忙となる。この超多忙の隙を見つけて、連れ合いと1泊2日で淡路島に旅行に行くこととした。水仙も終わり、今特に淡路島での見所といったものは無いのだが、年度末の『けじめ』のようなものか。日程は3月20日と21日。

 

 20日朝車で出発。快調に高速道路を走り10時過ぎには明石大橋をわたり淡路島へ。ただし本日は更に走り、大鳴門橋を超えて四国鳴門市に行き観光してから淡路島に戻る計画。11時過ぎに大鳴門橋をわたり11時20分頃板野インターチェンジを降りた。そこから県道を少し戻り、四国八十八ヵ所第二番礼場極楽寺にお参り。休日だが閑静な寺で、本堂、太子堂にお参りし庭を散策する。極楽寺を出て再び県道を走り、ドイツ館に行く。ドイツ館は第一次世界大戦時のドイツ軍捕虜を収容した施設の跡地に、日独友好の記念に建立された。捕虜に対する人道的待遇や地元の住民との交流の記録が多く展示され、中でも捕虜がオーケストラを結成し、ベートーベンのシンフォニーを演奏していた記録が豊富で、大変興味深かった。ドイツ館で昼食のおにぎりを食べ、続いて第一番霊場霊山寺にお参りした。霊山寺にはこれで4回目のお参りで、第一番の霊場らしく、落ち着いた寺だが『さあ、行くぞ』といったような活気も感じさせる境内の雰囲気もある。霊山寺では、お遍路グッズを売っている売店にも立ち寄り、あれこれと連れ合いに説明しながら、1998年から始めた四国八十八ヵ所参りの時の発心の気持ちを思い出していた。

(続く)

 

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パライソメッセージ20130719 No.20

2013-07-19 18:27:59 | メッセージ

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パライソメッセージ 2013.07.19 N0.20

    Mail : isokawas@goo.jp

     Blog : http://blog.goo.ne.jp/isokawas

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  「パライソメッセージ20130719 No.20」を送ります。「不要だ」「余計なお世話だ」といわれる方は、お手数ですがその旨ご連絡お願いします。

 【主張・意見・コメントのページ】

テーマ:何故日本は『壊滅的な』状況になってしまったのか④ 

 BIS規制は1988年、国際決済銀行(Bank of International Settlement)による取り決めで、バーゼル合意とも言う。この規制(合意)とは、国際業務を行う銀行の自己資本比率を8%とする、という内容である。その背景は、1980年以降国際金融市場が飛躍的に拡大し、その一方ではデリバティブ商品(金融派生商品)のリスク管理などの懸念ということである。8%という根拠も定かではない。ちなみに最近バーゼル3規制が合意されたという記事が掲載されていた(2013年7月12日 日経新聞)。バーゼル3では、経済のファンダメンタルの堅さから、3+2の5%の自己資本比率と書かれていたが、詳細な記事ではないので、後日検討。

 当時日本ではバブルの真っ只中で15行あった都市銀行は、絶好調の極みだった。世界の銀行の資産残高のトップ10のうち、日本の都市銀行が6行を占めるといった具合だった。当時は日本中の不動産が投機対象となり、やがて飽和状態になり海外にも進出するといった状態であった。マンハッタンやウォール街の多くのビルは、三菱地所、野村不動産、森ビルや今では民事再生会社となった日本総合地所などが買収するといった状態になった。なお、日本総合地所はその後民事再生法の適用をうけ、再生会社となり、当然新卒採用もゼロというのに、なぜか未だにトップ150にリストアップされている。

 熱狂的なお祭り騒ぎに浮かれるのはトップクラスのディベロッパーだけでなく、庶民・大衆も大いにバブルに踊る。普通の大衆が不動産投機に走り、物件を購入するとそれを担保に銀行は湯水のごとく追加融資を実行し、さらに不動産を買い足していく。頃合を見て物件を売り、そのときには購入時の数倍から10数倍といった値段がつく。土地ころがし、不動産ころがしで資産が何倍にも何10倍にも膨れ上がる。当時私は、会社といっても街工場の社長であったが、銀行からは融資話が良く持ちかけられた。私は性に会わないのと、本業が赤字であったのとでバブルに浮かれなかったが、同業の社長などは、

 「イソさん。わしは死ぬまでに10億円を残すことが出来る。」

 と豪語し、日経新聞などに不動産広告が出ると、やれ博多や岡山や高松やなどと、完成もしていない物件を電話一本で売買していた。その社長は飛ぶ鳥を落とす勢いであったが、バブルがはじけて暫くすると、破産も出来ず夜逃げしてしまった。

 そんな狂気じみた世の中を煽り、演出してきたのが銀行だ。金融の超緩和で溢れる資金をジャブジャブと貸し付け、融資残高は膨大に膨れ上がり、分積み・両建てで預金も膨れ上がる。当然資産残高も膨れ上がり、世界トップ10のうち6行が日本の都市銀行といった凄いことになったのだ。一方でマンハッタンやウォール街のビルをどんどんと買収されることは、アメリカとアメリカ国民の愛国心を痛く傷つけることとなったのみならず、アメリカに日本脅威論が大いに高まる。バブルに狂奔する『行け行け』の日本はアメリカのみならず、EU諸国にとっても大いに危機意識を煽った。そこで出てきたのがBIS規制(バーゼル合意)である。

 自己資本は総資産に占める自己資本の割合だ。当時の日本の都市銀行は、分母となる総資産が貸付資産の膨れ上がりで膨大になり、つまり自己資本比率が小さくなっていた。自己資本比率を上げるためには分子の自己資本を大きくするか、分母の総資産を小さくするしかない。自己資本は剰余利益の蓄積であるから、増やすのに一定の時間を要する。分母の総資産は、手っ取り早く減らそうとすれば貸付資産を減らせばよい。そのため都市銀行は『貸し渋り』『貸剥がし』を強引に進めた。そのターゲットはリスク資産と見做された中小企業であった。

 もうひとつ、バブル崩壊の原因は金融緩和による資金の超飽和状態が基本的な原因であるのだろうが、日本経済を壊滅的にしたのは、都市銀行による『貸し剥がし』『貸し渋り』による中小企業への大打撃だろう。

 BIS規制によって、北海道拓殖銀行つまり都市銀行の倒産という資本主義にとっては大恐慌に匹敵する事態が発生した。それまで15行あった都市銀行は4行のメガバンクに再編される。すべてのメガバンクに1,000億円単位で公的資金が注入され、新生銀行に至っては未だに完済されておらず、実態は国による管理銀行である。かつて、世界の預金量ベスト10に6行の都市銀行がランクインしていたのだが、現在では1行のみがベスト10である。

 銀行の『貸し渋り』『貸し剥がし』は現在も続いており、冒頭のように世界的にはバーゼル3が合意されたとのこと。アベノミクスで『異次元の金融緩和』と喧騒してもごく一部でバブルを演出しているが、BIS規制やバーゼル3の枠組の内で、日本経済が好循環に転じるとは、とても思えない。

 それにしても、日本のマスコミは、アベノミクスと囃し立てるが、全く信用していない研究者・知識人は沢山おられる。外国人の経済アナリストはもっと辛らつである。そういった世論が無視される一方、参議院選挙がらみか無批判にアベノミクスを礼賛する日本マスコミの退廃には辟易とする。

 次回のパライソメッセージは、日本はどう生きていけばよいのかについての私論を述べたい。

(続く)

 

「一押しBook」

 POSSE VOL.19...

書名:POSSE Vol.19

著者:NPO法人POSSEの定期雑誌

出版社:NPO法人 POSSE あまり市販していないが、大手書店には販売しているところも有る

内容:

 NPO法人POSSEは若者の労働問題や貧困問題に取り組み、その解決を目指して実践することを目的に、大学院生、学生、若手社会人らで設立され、実践している団体。代表の今野晴貴氏はいま話題のベストセラー「ブラック企業~日本を食いつぶす妖怪~」の著者。

 6月発行の本号は、特集で「ブラック企業の共犯者たち」を組み、ブラック企業に加担のみならず自らの『商売』の為ブラック企業をも食い物にする悪徳ブラック士業(弁護士・社会保険労務士等)の告発や、児美川先生他のキャリア教育のあり方論、麓幸子さんの「親に出来る対策」、出版物紹介など、多視点からの論が載せられている。特集「アベノミクスは雇用を救うのか」では3人の経済学者の論が紹介されているが、現代経済学者・左派経済学者をバランスよくチョイスしたのだろうけれど、いささか評論的。ブラック企業大賞に選ばれたワタミの社長を、参議院選挙の比例候補に担ぎ出す安倍自民党なのだから、テーマに沿った論点を絞り込んだほうが良かったのではないかと思う。

 もうひとつの特集である「各政党に聞くブラック企業対策」は参議院選挙中でもあり、タイムリーで良い企画だと思う。対策が大変明確な政党もあれば、歯に衣を着せた煮え切らない政党も有る。ただ、参議院選挙目当てなのだろうが、各政党ともブラック企業について社会問題として取組まなければならないといったことについては、共通して述べている。運動の到達点なのだろう。

 小冊子ではあるが、内容が大変豊富でバランス感覚もよく、お勧めの一冊。

イソの評価:★★★★☆

蔵書:キャリアセンター就職資料にあり。

(続く)

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胃癌日記82

2013-07-18 17:17:09 | 闘病

胃 癌 日 記 82

-スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月9日)の日々-

 

 -映画「遺体~明日への10日間~」を見て-

 3月11日は、確定申告のために年休を取得した。もともとこの日の午前中に確定申告書を仕上げて、午後に提出の予定であったが、申告書がすでに出来上がっており、空いた午前中に映画に行くこととした。ちょうど2年前の今日、東日本大震災が勃発し、未曾有の悲劇・惨劇が起った。今上映中の映画「遺体~明日への10日間~」は石井光太氏のルポルタージュ「遺体-震災・津波の果てに」を映画化したもので、改めて記憶を風化させないためにも、悲劇・惨劇に向き合う気持ちの原点を忘れないためにも、見に行くことにした。

 映画は石井氏のルポルタージュを映像化したものであり、ストーリーは無く、東日本大震災・津波による犠牲者を収容する釜石市のある遺体安置所で繰り広げられる人間模様を著した原作を忠実に映像化している。西田敏行が一人の軸となる民生委員を演じ、釜石市役所職員、医師、歯科医師、歯科医師の助手、僧侶、犠牲になった子供の母親等々の人間模様を、尾形直人、柳葉敏郎、佐藤浩市、酒井若菜、國村隼らが演じている。

 私は石井氏の原作を読んでおり、活字を通してでも苦悶にゆがんだ表情、姿態の遺体、人間の尊厳を踏み潰すように傷んだ遺体、悲しみや絶望に突き落とされる子供の苦しみに歪み悶える遺体、収容しきれなくなるほど隙も無く並べられた遺体やその腐臭など、およそ言葉にできないほどの地獄絵図がイメージとして心の中に焼き付いていた。果たしてこの映画はどれほどのリアリティで地獄絵図を映像化しているのか、映画を見る前はある種恐怖心のようなものを持っていた。

 映画は、無駄な描写やPTSDを起こすような津波の映像とかは一切無い。原作に忠実に映像は展開していくが、遺体の表情や姿態、寒々とした遺体安置所の中での人物描写や葛藤など淡々と映像化され、涙なしにはとても見られないのだが、直視できないような残酷でグロテスクな映像は一切出てこない節度のある画面であった。

 見終わった後で、私はこの映画に関わった製作者、スタッフ、出演者たちのメッセージは何だったんだろうと考えた。残酷な事実を節度ある画面で映像化し表現することに、私は逆に強いメッセージを感じた。この映画が問いかけるものは、自虐や過去の教訓に学ばないことへの戒め、自然に対する諌めや教訓でもない気がする。そういったモラルへの問いかけではないだろう。ましてや原発等も出てこず、告発や怒りでもない。私は、この悲劇・惨劇に対して目を背けるとか、この事実を忌避するのではなく、これからもこの事実に向き合わなければならないのだ、というメッセージをこの映画は発しているのではないだろうかと感じた。

(続く)

 

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2013-07-17 17:35:27 | 闘病

 

胃 癌 日 記 81

-スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月90日)までの日々-

 

-友と先生の死-

 日常の仕事は、相変わらず多忙だ。私が責任であった企画は終わったが、アンケート集計のためにワークシートを作成したり、入力やグラフ作成の派遣職員との打合せ、作成中のアンケート集計やグラフのチェック、アンケート講評等の文書を纏めた会議資料の作成などばたばたとしている。そんな日々を過しているうちに3月に入り訃報を知った。

 昨年11月に経済成長をこれから遂げていこうとする時期の中国の写真展を開催していたK君が、癌が脳に転移し、癌との闘いも及ばず逝ってしまった。K君の写真は、中国の庶民の目線で庶民・農民を徹底的に写したもので、中国の実相がリアルに伝わってくる。私が写真展に訪れたのは、雨が降る11月11日。前日まで写真展会場にK君は来ており来訪の旧知たちと存分に語り合っていたのだが、急に体調が悪化したとのことで再入院したため、奥さんと積もる話をした。奥さんの話によると、まだまだ気力も充実しており、残された時間に精一杯生きてきた証を残そうと頑張っていたとのこと。

 おそらく遺作になるであろう写真集は、1966年以降の学園紛争の記録を残した写真集で、当時も今日もほとんどのマスコミによって学生運動の代名詞課のようにもてはやされ、大学の「解体」などという無責任で刹那的な破壊活動に狂奔した『全共闘』の記録ではなく、当時の文部省や大学の非民主的管理支配を打ち破り、真に大学の民主化を目指す学生、教職員達の記録であった。

 2月28日に新聞紙上でK君の死去を知り、別離の覚悟はしていたものの、空しくも残念な思いがした。3月2日に通夜に参列し、その時に遺作の写真集の解説を担当しているGさんと話をした。26日の編集会議には奥さんに支えられながらも出版社で行った編集会議に参加しており、翌27日には体調の悪化を訴えて安静にしていたが、そのまま帰らぬ人となったとのこと。編集会議は最終のゲラの校正で、棺の中にはゲラ刷りの原稿を入れるとのこと。享年65歳。

 3月7日には、A先生の訃報を知った。

 A先生は一貫して『平和と民主主義』を貫き通し、学生を思い、大変真面目な研究者・教育者の道を歩んでこられた。一見近づきがたそうな雰囲気が無きにしも非ずだが、実は大変心配りをされる優しい先生だった。私は、国際分野で活躍を目指す大学院生や学生の進路先とのネットワーク構築の際にA先生と連絡し、協働させていただいた。

 3月8日のお通夜への出席は適わず、9日の告別式に出席しお見送りをさせて頂いた。その時にご子息から伺った。A先生は、忙中に奥様との旅行を計画され楽しみにしておられたが、体調が悪くなり病院で受信されたところ、癌が発見されたとのこと。原発性の膵臓癌が全身に転移しており、手術は不可能で余命6ヶ月と宣告された。それでも授業があるといって大学へ行っておられる。抗癌剤治療等の闘病中も、学生や教え子のことを随分気にしておられ、学生たちとマルクスやエンゲルスの話しをされるときは大変嬉しそうだったとのこと。余命6ヶ月と宣告されながらも8ヶ月間頑張られて、ついに帰らぬ人となられたとのことだった。私はお別れにお棺の中に眠るA先生に花を捧げさせて頂き、そしてお見送りした。享年69歳。

 

 K君、A先生と二人のかけがいの無い人を立て続けに失ったことは痛恨のことだ。しかもお二人とも癌に倒れた。憎むべき病である。私自身が1年4ヶ月前にはスキルス胃癌と闘った。幸い転移も無く順調に回復し、今では以前にもまして、そして意識して充実した生き方を突き進んでいる。何か以前よりも、フェードアウトするまでに『生きている証を刻んでおきたい』といった気持ちが強くなっているように思う。私自身のスキルス胃癌体験は、無事生還できたのだけれど、残された人生を確かに歩いていかなければ、かけがえの無いほどの損失を蒙る。自分のラッキーに感謝しつつ、残された人生を、大事に、丁寧に過ごしていこう、そんな思いが実感として沸々とこみ上げてくる。

(続く)

 

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2013-07-16 17:50:10 | 闘病

      胃 癌 日 記 80

-スキルス胃癌手術から1年半(2013年6月9日)までの日々-

-忙しい日々の仕事をこなし、CD学会へ

 仕事のほうは、私が担当する企画がいよいよ本番で、私自身も15日施設Kで開催された、ダイバーシティの学生支援勉強会に引き続き、16日から18日にかけて金沢への出張、ここでは私が責任者として張り付き企画を采配した。帰阪の翌19日は京都での業務と忙しさもピークの状態である。その一山を超えると今度は22日D大学で開催された、やはりダイバーシティ学生のサポート研修会。続く23日は仕事ではなく個人であるが、市ヶ谷のH大学で開催されたCD学会に参加。学会は16時からの開催なので、22日の研修終了後夜行の高速バスで横浜まで移動し、午前中に鎌倉の姉Hを表敬訪問した。

 23日は朝7時20分横浜バスターミナル着で、モーニングサービスを食べた後鎌倉へ。8時50分鎌倉着。鎌倉駅から暫くは、次回の鎌倉土産を仕入れる予定である老舗の菓子屋の本店を確認し、確認後姉宅へ歩いて向かう。駅からは5Km強の距離がある。夜行バス旅の疲れを癒すには丁度良い距離だ。  

 10時15分に姉宅着、挨拶と近況報告を交わす。暫く家族のことや仕事のこと等を話し、11時過ぎに、一緒に昼食をと思い誘ったが、少し脚の調子が悪く、ちょっと歩くのが億劫そうだったので、本日は一緒の昼食は断念。いろんな話をして、12時25分に退出。姉宅の最寄のモノレールの駅から大船に向かい、大船駅で昼食のそばを食べ、甥のYと待ち合わせている飯田橋へと向かった。

 飯田橋でYと合流し、喫茶店でコーヒープラススィーツ。Yとはもっぱら仕事の話や、日本人は何故グローバル人材が育たないかといった話。日本人が外国人とコミュニケーションやディペートをできないのは、語学力が低いとか日本人がシャイで謙虚だからではない。日本人の多くは主張すべき理念やポリシー、いわば哲学がないからだと私が言うと、Yは哲学はリーダーだけでよいと言う。私は更に、益川先生はノーベル賞の受賞記念講演を日本語でやったけれど大変な感銘を与えた、と言うと、それでも英語は出来ないよりできるほうが良いと返してくる。まあ、トイック400点の私が国連英語級、外国の賓客の対応もしているYに言うのだから負け惜しみのようではあるが、私はいたって本気である。何やかんやと他愛もない話もしながら、全く質は違うけれど、お互いの超多忙さに生きている実感に充実感を感じたり、ばかばかしさを恨んだりのYとの一時であった。

 16時からはH大学で開催されたCD学会に参加した。

 本日の学会は、「ブラック企業」についてのK氏の講演。K氏は現役の大学院博士課程に在学中で、若者の労働相談や生活・貧困に関わる相談、東日本大震災の被災者への復興支援やボランティアに取り組んでいる大学院生、学生が主体となったNPO法人の代表である。最近「ブラック企業-日本を食いつぶす妖怪-」という本を著し話題になっている。

 講演の内容は本に沿った報告である。「ブラック企業」という言葉は若者たちの間で2010年ごろから広まっているネットスラングであるが、ブラック企業を3つのパターンに分類し、ブラック企業の見分け方等、新しい実践的視点から分析し論じている。ブラック企業は法の網をかいくぐり、過酷な労働条件を強要したり、あれこれと理由をこじつけての超過勤務手当ての不払いといった違法行為やハラスメントによって若者の精神・肉体を破壊し、挙句の果てにはメンタル面で病んでしまうほどに追込んだり、自殺に追い込んだりする。これらを社会問題であると論じているのは、重要な論点である。すなわち個別企業の問題にとどまらず、いわゆる「ホワイト企業」がいつブラック化するかもしれない世の中の風潮を止めさせ、更にはブラック企業を社会から退場していただくためには、社会問題としてブラック企業を位置づけ、社会全体としての共通理解とすることが重要であると思う。

 K氏の講演に対しての質疑応答で、2点についてのコメントをした。第1には、「ブラック企業」というのは最近のネットスラングではあるが、実際にはかなり以前から存在していた。暴力団のフロント企業やら、詐欺商法やねずみ講といった反社会的行為を生業とする企業、あるいは以前存在した「日栄」といった中小企業金融会社は、債務返済でトラブルがあると『腎臓を売って借金を返せ』と執拗に脅迫的に迫り、ついには刑事事件に発展し幹部の逮捕、結果会社解散の至ったような例は、以前からある「ブラック企業」であること。K氏が提起する2010年頃からのネットスラングの「ブラック企業」はいわば「新型ブラック企業」ではないかということ。何故「新型ブラック企業」と区別するかといえば、以前から労働問題やキャリア形成支援に関わってきた人たちには、「ブラック企業」と言うと、非合法とか反社会的行為、暴力・恐喝・脅迫といった行為を生業とするといったある種のイメージを持っている人がかなりいる。一方「新型ブラック企業」は法の網をくぐり抜け、あるいはハラスメントを日常的に行うことによって、若者の身体、精神そして人格をも破壊するといった、結果的には日本の社会を蝕む存在であり、その点の認識を共有しておくほうが、ブラック企業を告発し社会から退場願うトレンドの構築にとってより有効と思えるからだ。

 私のコメントの2点目は、「新型ブラック企業」を社会問題と論述したことは重要な指摘であるということ。何故なら社会問題であると言うことを、若者のみならず広範な世代に広く認識を広めることにより、ブラック企業が藩社会的存在であるということを共通理解とする、ひいては社会から退場願うということである。あわせてブラック企業に寄生する弁護士や社会保険労務士などの「ブラック士業」にも退場願い、就職率アップのために無批判にブラック企業を受け入れる大学の「ブラックキャリアセンター」にも頭を冷やして頂きたい。といったことを述べた。

 以降のコメント、質疑応答は大変活発に行われ、コメンテーターのU先生の的確なまとめもあり、大変有意義なCD学会であった。

(続く)

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パライソメッセージ20130712 No.19

2013-07-11 18:14:26 | メッセージ

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パライソメッセージ 2013.07.12 No.19

        Mail : isokawas@goo.jp

     Blog : http://blog.goo.ne.jp/isokawas

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 「パライソメッセージ20130712 No.19」を送ります。「不要だ」「余計なお世話だ」といわれる方は、お手数ですがその旨ご連絡お願いします。

 【主張・意見・コメントのページ】

テーマ:何故日本は『壊滅的な』状況になってしまったのか③ 

 プラザ合意は、1985年ニューヨークのプラザホテルで開催されたので、プラザ合意と言われている。G5で行われた合意で、為替レートの安定化ということであるが、実際は当時1ドル230円位だったと思うが、円に対する徹底的なバッシングである。つまり貿易赤字の苦しむアメリカが、その原因を実態からかけ離れた円安であるとし、徹底的に円高に誘導し、自国の輸出圧力を強めようとしたことである。更には、円高誘導だけでなく、ドルの国際通用性を維持する為に日本がアメリカ国債を買い支えるといった『構造的に歪んだ』為替に関する合意であり、円のいわゆる『独歩高』といった状況が、『日本への制裁』といった国際世論を鼓舞する中で強引に進められた。

 円の独歩高はアメリカの貿易収支を改善させただけではなく、それによって勢い付いたのが韓国、中国、台湾といった新興工業国で、現代、サムスン、ハイアールや鴻海といった企業が対円の自国通貨安を梃子に急激に成長していった。それに対抗して日本企業、特に自動車、家電といったメーカーは製造拠点の海外移転を進めて行く。当初は部品製造を海外に移転し、国内でアッセンブリをしていたがやがて部品製造子会社、下請け会社の海外移転、海外で最終製品製造・販売と国内産業の空洞化がどんどんと進められた。国内産業の空洞化を進める日本企業の危機対応力は『すばらしく』、そういった状況の中でも最高利益を更新し続け、戦後最長といわれるイザナギ景気が実現する。巨大企業は内部留保を蓄え続け、260兆円もの蓄積、GDI(GDPではない。海外での利益も算入したもので、最近選挙目当てに安部首相が150万円の個人所得増などと、欺瞞的なプロパガンダの根拠になっている数値指標)の市場最高値の更新に連動している。しかし、実質賃金は20年来下がり続け、大企業の企業利益は最高値を更新するのに、生活実感は全く良くならない現象が定着する。

 しかし、日本企業の『奮闘』空しく、強烈な円の独歩高は新商品の新たな国際競争を全く無力にしてしまう。地デジへの電波の強制変更による液晶テレビの買換え需要によって空前の好況をバネにシャープやパナソニック、ソニー等は巨大規模の生産設備投資を行う。シャープの亀山工場、堺工場、パナソニックの尼崎工場等々。これらは世界戦略も視野に入れた巨大設備投資であったが、薄型TV、液晶TV、プラズマディスプレー等々はサムスンとの国際競争に木っ端微塵に敗れる。太陽光発電、スマートフォン、スマートフォンも悉く韓国、中国、台湾のメーカーに破れ、もの作り日本を支える精巧・緻密な部品メーカーが、部品を供給するだけの構図となった。自動車メーカーの没落も惨憺たる状況となったのは公知のことである。

 これらは何も日本のメーカーの技術力が劣化したからではない。正確に言うと、リストラやヘッドハンティング等の内的・外的要因による人材の流出、特にサムスンや現代の韓国企業への人材流出が大きな要因とはなってはいるが、高度成長期の日本がそうであったように、技術はいずれキャッチアップされるのは不可避である。日本企業の製品が国際競争において惨憺たる状況に陥った最大かつ決定的要因は日本パッシングによる極端な円の独歩高であろう。円はプラザ合意以降わずか1年で、1ドル230円から100円に高騰する。海外での日本製品の価格が倍以上に値上がりし、貿易による利益が一気に半分以下まで下落したのである。

 それでも利益を維持しようとする巨大企業は、猛烈なコストカットに踏み込む。原材料費の買い叩き、下請けの徹底的な締め付け、正社員の非正規社員への置き換え、季節工の解雇等あらゆる手段を講じて利益を確保し、内部留保を増やし続け、逆に表面的には戦後最長のイザナギ景気となった。あの好景気は、働くものや下請けを収奪することによって作られてきた「景気」であって、手段を選ばず利益を追求する『株主資本主義』の本性を露にしたものであった。新自由主義者が言う、徹底的に企業利潤を最大限にすることによって、やがて労働者も潤うということなどには全くならず、逆に企業は極限以上の下請けの締め付け、人件費をコストとして大幅なカット等によって利潤の追求を進め、挙句260兆円もの内部留保を蓄えた。共産党などは内部留保の1%を取り崩し、人件費に充足せよと提言しているが、全く正論だと思う。

 プラザ合意による円の独歩高は急速に日本の製造業に打撃を与え、日本に『壊滅的』打撃をもたらす象徴的施策となった。プラザ合意が欧米、特にアメリカによる日本パッシングであり、これが日本の企業に壊滅的打撃を与えているのは、学者、評論家、企業家、少し勉強している政治家、要するに誰もが分かっていることなのに、共産党など一部を除けば、何故誰も異議を唱えずに甘受しているのか。アメリカと同盟どころか、まるで属国ではないか。何も言えない理由はまた別の機会に述べたい。

  日本を『壊滅的状況』に陥れたもう一つの事由であるBIS規制については、次回に述べる。

(続く)

 

「一押しBook」

書名:何者

著者:朝井リョウ 1989年生まれ早稲田大学文化構想学部在学中に『桐島、部活やめるってよ』でデビュー、小説すばる新人賞。他に『チア男子』他。サラリーマンをしながら書いた『何者』は、直木賞受賞。

出版社:新潮社 本体1,500円(税別)

内容:

 私は小説をあまり読まない。読むのは司馬遼太郎の歴史小説と、社会の歪みを直視し告発する山崎豊子の小説。両氏の小説は殆ど全て読んでいる。それと、やはり社会性に富んだ問題提起を投げかける松本清張の小説。『何者』は図書館に貸出予約をして、借りるまでに3ヶ月以上かかった。

 『何者』のストーリーは、4人の若者の就職活動を通して展開していく。4人の若者はそれぞれの理由で5年生。「俺」は去年就活に失敗して5年生になったが、他の3人は就活1年生。それぞれの個性で就活を進めていて、ノリが良かったりたまにはギクシャクもするけど、彼らのコミュニケーションは若者らしくフランクで一見良好。彼らはまたSNSで繋がれており、ツイッターでつぶやいたり、フォローしたりする。そして最後の最後の意外な結末で、若者の心の機微を描いている。

 作者は、NPO法人POSSEの雑誌『POSSE Vol.19』の対談で「(就活)独特の強迫観念と、他人を笑うことが主体となっているSNSの存在に対する違和感」がこの本の着想と言っている。

 私は、ストーリーのバックグラウンドが就活ということで、ある種『社会を告発する社会派小説』の期待を持って一気に読んだ。ところで、私が小説をあまり読まないのは、どの小説も結果は人の心の機微を描くもので、『みんな同じ』といった思いがあるからだ。

 その意味では『何者』も他と同じ小説だった。作者はまだ若い現役の『サラリーマン』だ。文章力、着想力、感性は若々しいしテーマも斬新。今後に期待。

 

イソの評価:★★☆☆☆

 

蔵書:茨木市民図書館

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パライソメッセージ20130705 No.18

2013-07-05 20:19:02 | メッセージ

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パライソメッセージ 2013.07.05 No.18

         Mail : isokawas@goo.jp

     Blog : http://blog.goo.ne.jp/isokawas

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  「パライソメッセージ20130705」を送ります。「不要だ」「余計なお世話だ」といわれる方は、お手数ですがその旨ご連絡お願いします。

 【主張・意見・コメントのページ】

テーマ:何故日本は『壊滅的な』状況になってしまったのか②

 朝鮮戦争特需以降の日本経済は、未曾有の高度成長を遂げていく。終身雇用、年功序列、企業内組合の日本型雇用形態は、最大限のメリットを発揮し、男は一家を支えるために身を粉にして働き、女は出産・子育てで家庭を守った。その結果1960年代から1970年代にいたる高度成長によって、所得倍増が実現し、3種の神器(テレビ、冷蔵庫、洗濯機)は各家庭に普及し、経済の成長が裏づけを担保し手、国民生活は飛躍的に向上した。しかし一方では水俣病や喘息などの公害も頻発した。今、M2.5などに苦しんでいる中国では当時の日本が辿った道を、上書きしてなぞっているように見える。

 1970年代の世界的な基幹産業は、今では信じられないけれど繊維産業。いまでこそ新素材や水ビジネス、総合・専門商社等いわゆる繊維業界は多様な事業展開を繰り広げているが、当時はアパレルも含めた総合繊維産業であった。当時の社名は、東洋レーヨン(東レ)、日紡(ユニチカ)、日清紡、帝国人絹(帝人IN)、等々でいずれも学生の就職人気企業の上位にずらっと並んだ。

 その繊維産業が重大な日米貿易摩擦の原因となる。当時の為替レートは1ドル360円(?固定レートだったと思う)で、経済成長の日本と、双子の赤字に苦しむアメリカとの勢いの差は、今の中国・韓国と日本の勢いの差と同様に歴然としており、日本は世界各国に対して大きな輸出超過であった。輸出超過はアメリカに対して極端に大きく、アメリカは不毛・不正義のベトナム戦争での膨大な軍事費支出とあわせ、未来に至るまで果てしなく続きそうな貿易収支、経常収支の膨大な双子の赤字構造が定着した。

 1070年代の苦悶のアメリカが取った対抗措置のひとつが、ドルの金兌換停止。これにより国際通貨の機軸であったドルが、ただの紙くずになってしまうのだが、40年たった今でも国際基軸通貨のごとく見えているのは、バンバン印刷するドル紙幣を米国債として膨大に買い支え、ドルの信用を支えている日本と中国の役割が大変大きい。ドルが買われるのだからドル高(円安)にならなければならないのに、右肩上がりの円高であった仕組みは、別の機会に述べる。アメリカがとったもうひとつの対抗措置が、日米繊維交渉。日米繊維交渉は膨大な貿易赤字を抱えるアメリカが日本に対して繊維製品の輸出規制をゴリ押ししてきたのを、当時の通産大臣田中角栄が真正面から受け止め、反駁した交渉で、最終的には大部分は妥協するのだが、どう見ても大義は日本にあることが国際的に認識された。田中角栄は結局国内繊維産業に膨大な損失補償をする。高度成長をバックに、桁違いの金で政治を切り開いていくのが田中角栄の政治哲学であったのだろう。しかし、後にアメリカの世界戦略に呪縛されること無く、電光石火にアメリカに無断で日中国交回復を実現したように、対米従属ではなく自主独立の気概を持った政治家でもあった。日中国交回復は、当時のキッシンジャー国務長官に「ケーキ盗人のジャップ」と言わしめたようにアメリカの逆鱗に触れた。その後のロッキード事件はアメリカの言いなりにならない田中角栄に対する徹底的な報復措置として仕組まれたものである、ということは情報通の間ではよく認知されている。

 

 話を本論に戻すと、日本の経済成長は基幹産業が、家電、自動車等に移り変わりながらも右肩上がりが継続していく。その一方で、アメリカ経済は貿易収支、経常収支の双子の赤字が改善しない。圧倒的な軍事力を支える軍需産業や、アフガニスタンやイラクやら最近でもイスラム過激派などを敵とし、常に戦争を行なわなければならない政治・経済状況によって、経常収支も膨大な構造的赤字体質に陥る。1980年代に入るとアメリカでの意識調査で、『世界で最も脅威となる国』として、日本を挙げるアメリカ人が圧倒的に多くなってくる。何が脅威かと言うと日本経済で、このまま行くとアメリカの産業は日本経済によって壊滅させられてしまうといった脅迫概念が、圧倒的なアメリカ国民の意識となってくる。今の日本や日本人が中国・韓国に対して抱く感情と似ているのかもしれないが、全く違うのは、アメリカは日本に対して徹底的で具体的な報復攻撃を仕掛けてきたことである。

 その第1弾が1885年の『プラザ合意』だろう。アメリカは『プラザ合意』だけでは収まらない。1888年には『BIS規制』その後バーゼル規制など、一連の対日制裁を立て続けに押し付けてくる。BISとは【バンク・オブ・インターナショナル・セツルメント:国際決済銀行】の略で、ほかにもIMFなどアメリカの意向を濃く反映する国際金融機関等を通じた、日本バッシングがアメリカ主導の世界規模で行われる。プラザ合意は、『為替レートの安定化』を大義に当時のG5(アメリカ、西ドイツ、フランス、イギリス、日本)で結ばれた協定だが、アメリカのハイパーインフレ、高金利、膨大なドル買い、ドル高、アメリカの貿易赤字を是正するとの名分ではあるが、実質は単純な円高ドル安誘導。但し、そんなに単純でもない。日本はドルの国際信用を維持するために、ドル買いも進める。つまり円のひとり高への強引な誘導の一方、ドルの買い支えによって信用を担保する。1ドル360円が1年の間に230円程度になるといった、猛烈な円高誘導であった。プラザ合意の時期は日本においてはまさしくバブル前夜であって、国民生活にまであまり影響が届かなかったように見えるが、実は強烈なボディ・ブローとなって、今日の日本経済の惨憺たる状況の序章となる。

 次回は、プラザ合意の内容とその結果日本の産業・企業、経済がどうなって行ったか、バブル経済の真っ只中、BIS規制によって、世界の金融市場を席巻していた日本の都市銀行(当時15行)がどうなって行ったかを述べて、本当に言いたい『パライソのメッセージ』に繋げたい。

(続く)

 

「一押しBook」

書名:日本の「労働」はなぜ違法がまかり通るのか

著者:今野 晴貴 一橋大学院社会学研究科博士課程在籍、NPO法人『POSSE』を設立し、現在代表。

『ブラック企業-日本を食いつぶす妖怪-』の著者

出版社:株式会社星海社 20134月第1刷 840円(税別)

内容:

 著者の今野氏は、ベストセラー「ブラック企業-日本を食いつぶす妖怪-」の著者。今野氏の研究分野は労働法で、本著は日本の労働実態や、カウンセラー、労働組合の在り方等の問題に関して現場での様々なケースを取り上げ、いろんな視点から問題を提起し、告発している。今野さんは多くの労働相談に対応しているので、取り上げているケースはリアリティが有る。パワハラや退職強要、弁護士や社労士などの士業の実態、労働組合の重要性と問題点、後半では日本の労働・雇用の歴史と問題、それをどう変えていくのかのメッセージとなっている。

 全体を通して、違法労働を様々なケーススタディで検討し告発しており、実際に働くものにとっての有効な理論武装になると思う。今野さんの若き研究者としての心意気を感じる著書である。ただ、私の率直な感想を言わせていただくと、『ブラック企業』でデビューされたときに思ったが、若き、新しいタイプの『市民運動家』とでも言うようなパワーと、研究者としての論及が混在している感じで、メッセージのベクトルの軸がはっきりせず、少しパワー不足の思いがした。

蔵書:イソ蔵書(何時でも貸し出しOKです)

イソの評価:★★☆☆☆

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