"いそ"あらため、イソじいの’山’遍路’紀行’闘病、そしてファミリー

“いそ”のページは、若者のキャリア形成を、目一杯応援するためにも“いそ”改め“イソじい”でリニューアル。

脳動脈瘤手術の闘病メモ②

2006-08-29 21:48:09 | 闘病
 いよいよ、アンギオの検査。果たしてどうなるか、大変不安でした。今回は脳動脈瘤手術の闘病メモの②です。

  二〇〇六年一月二十七日(金)  
 
 朝、近所のTaクリニックで腰痛のリハビリ治療を受けた後、十時に連れ合いとともに出発。十一時にT病院着。検査入院の受付を済ませて、八階のナースセ ンターに行くように指示を受ける。八階の病室に案内されて、検査衣、ティージ帯に着替えた。やがて、点滴を入れられ、剃毛をされていくうちに、いよいよア ンギオの検査が現実のものとなって迫ってきて、緊張が高まってくる。
 前回のMRIでは「2箇所で脳動脈瘤の疑いが高い」ということである。Nクリニックへ送られてきた診断書にも『多発性脳動脈瘤の疑い』とは書かれてはあ るが、まだ『確定』というわけではない。本音のところでは、アンギオの検査はもう逃れられないけれど、結果として『手術をしなくても大丈夫です』という診 断になるように、願っていた。
 連れ合いが食事に出ている間に、あれこれと思いが巡ってきた。 十四時三十分、ストレッチャーに乗せられて検査室に移動。連れ合いもついてきたが検査室の中待合で待機。私は検査室に入り検査台に移る。検査台には頭部が動かないように固定枕があり、そこに頭部をはめ込む。外来の診察を終えたI医師がやってきて、いよいよ検査が始まった。

 「少しチクッと痛むよ」

 といいながら、最初に右足の付け根に局所麻酔が二~三箇所注射される。少し痛むが、たいしたことはない。麻酔の後すぐにその部位から動脈にカテーテルが 入れられが、それも痛いというほどでは無い。カテーテルは頸部の動脈まで挿入されるのだが、何も感覚が無く、痛みや苦痛もない。
 カテーテルを挿入してから、「右のほうに薬を入れますよ」といわれ、ポンプのような音がして一瞬右頭部や耳がボアーッと火照るような感じがした。造影剤 が注入されてレントゲン写真を撮ったのだろうが、余り気分の良いものではなかった。次に左頭部、もう一度右頭部を撮り、最後に頭部全体を撮影し、その都度 造影剤を注入した部位が熱く火照った。
 アンギオ検査は二十~二十五分くらいで終わり、カテーテルの挿入部位を止血し、重し(砂袋)を乗せて、病室へと戻った。暫くは止血のため安静で、ベッド上から動いてはいけないとのこと。         

    (次回、「インフォームドコンセント」に続く)
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脳動脈瘤手術の闘病メモ①

2006-08-23 16:22:09 | 闘病
 「四国88ヶ所自転車遍路の旅」は、一旦休憩して、本日からは、おそらく私の人生後半期で最大の経験と試練になったであろう、「脳動脈瘤クリッピング手術」の闘病メモについて、報告します。

  未破裂脳動脈瘤クリッピング手術を経験して    

  私の父、市太郎は一九六一年の五四歳のときに脳卒中を起こした。その後一九六七年の六十歳のときに三回目の脳卒中の発作を起し、死亡している。当時のこと は定かではないのだが、周りの人の話によると『突然発作を起こして倒れた』ということである。ずっとかなりの高血圧であったこともあり、くも膜下出血では なかったかと思う。 
 私の兄は、一九八二年の四二歳の時にくも膜下出血を起こした。自分で経営するダンボール製造加工会社で仕事が終わってすぐ に「頭が割れるように痛い」と言い出し、軽い嘔吐をした。すぐに帰宅し、その後四~五日の間仕事を休み、かかりつけの医院に通った。医師から、国立大阪循 環器病センターを紹介してもらい、そこで受診し検査の結果『脳動脈に奇形がある』ことが判明、開頭手術を受け、くも膜下出血の処置と奇形部分の切除とク リッピング手術を受けた。幸い、くも膜下出血はごく軽度であり、後遺症は残らなかった。兄は二〇〇二年にも軽い脳内出血を起し、甥の奔走で大阪のT病院へ 行き、そこで最先端の医療を受け、アンギオの結果、小さくない脳動脈瘤が発見された。再びの開頭手術でクリッピング手術を受けることとなったのである。現 在ではかなり回復している。

 私も現在五十七歳で「危険年齢」をすでに迎え、「遺伝」という危険要素も気にもなっており、高血圧症で日頃受診しているNクリニックの院長に相談した。そして脳外科などの最先端医療をしており、兄も脳外科手術を受けたT病院で受診すべく、紹介状を書いてもらった。
 
 二〇〇六年一月二十日(金)
 
連 れ合い同行の上、初めてT病院で受診。朝九時に病院に着いて診察を申込み、四診で受診し、状況を説明しMRI検査をすることとなった。MRI検査待合の二 階へ行くと多くの人が検査を待っていた。検査は午後一時三十分頃開始というので、待つ間病院近くの定食屋さんで食事をし、その後喫茶店でコーヒを飲んだ。 ただ、どんな結果が出るかの不安が一杯で、まったくくつろぐ気分にはなれなかった。
 病院に戻り、MRI検査の待合では、最先端を行く脳外科手術や脳腫瘍摘出の手術をライブで中継している。病院のポリシーとして『手術室を密室にしない』『手術の技術に対する絶対的な自信である』旨の説明が書かれてある。
  私はMRI検査は初めてなので少し緊張していた。やがてMRI検査が始まった。狭い機械の中に頭部が入っていき、『ガリガリ』『ガガガガ』などのかなり強 烈な音が周りからする。緊張のうちにMRI検査が済むと、再び1階の診察室前で待つように指示を受ける。今度は一診で受診とのことで待っていた。
  やがて名前が呼ばれた。担当医はI医師という。毛髪は茶髪にしておりベテランではあるのだろうが、若くも見える。後日看護師さんに「I先生は何歳?」と聞 くと、「年齢不詳です」とのこと。MRIの写真をI医師が説明してくれる。「二箇所に比較的大きい脳動脈瘤らしきものがあります。」といわれた。I医師か ら今後の治療法の説明があり、結果手術をするのが良いという。I医師は「いつ脳動脈瘤が破裂するかわからない」というし、脳外科の看護師であった連れ合い は「早くアンギオをしなさい」という。
 私は、今は自覚症状や不自由もなにも無く、健康に過ごしているのに、『なぜだ!』という絶望感・不幸感に 襲われる。近々絶対に休むことのできない出張もありそれが終わってからということで、深い意味も無く「一月二十七日にアンギオをお願いします」と言ってし まった。本当は嫌で嫌で仕方が無かったのだが、周りからせきたてられてのなりゆきである。I医師は「そうですか。それでは入院の予約をしましょう」といっ て、看護師さんに指示している。私はさっさと機械的に進められていく自分の運命に、だんだんと目の前が暗くなってきた。手術の前に、脳動脈瘤の部位や大き さを確認するために、アンギオの検査をするとのこと。この検査は、右足の付け根の動脈から、カテーテルを頸部まで挿入し、造影剤を注入して脳動脈の血管造 影撮影を行う検査である。動脈からカテーテルを入れるため、検査後に止血等のため安静が必要で、入院の検査となる。検査入院日を一月二十七日(金)に予約 し、本日は診察を終え帰宅した。

                                     (続く)
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四国88ヶ所 自転車遍路の旅21

2006-08-11 23:12:33 | Weblog

  四国88ヶ所自転車遍路の旅の8-6 通算で21回目です。
 
 
バスに乗ったりして何と結願しました。この旅の1・2・4・6は工事中でアップしていませんが、近々「完成版」にしたいと思います。 とりあえず、このシリーズは、本日で一旦おしまいです。
 

  十二時三十分に予約していたタクシーに乗り、長尾方面に戻りJR高徳線「造田駅(ぞうだえき)」まで行く。造田駅まで着くとちょうど徳島方面行きの汽車が発車したばかりで、駅方面から二~三人のお遍路さんが歩いてきた。彼らは、交通機関を利用して遍路をしていて、これから長尾寺へと向かうのだろう。お遍路さんにもいろんなやり方がある。
 造田駅でしばらく待って十三時二十分発の徳島行きの汽車に乗ることとした。これから、鳴門の「板東駅」まで向かい、そこから八十八ヶ所のスタートの寺である霊山寺に行き、「お礼参り」をしてから徳島へ、そこから高速バスで大阪へ今日中に帰ることにした。造田駅の待合所で靴を脱いで足を見ると、浸潤液は止まらずジュクジュク。両方の小指は真っ白になってまるで壊死の状態。これは結構重症である。本当に気が滅入る。
  汽車は、十三時二十分定刻に入り、私たちは汽車に乗り込んだ。車内は高校生が結構多い。すでに夏休みであるのに、クラブ活動でもしているのだろうか。座席に座り、“連れ合い”といろいろと話をしているうちに、だんだんと四国八十八ヶ所の思い出が、走馬灯のように駆け巡りだしてきた。
 
 『板野の駄菓子屋さんで、おばあちゃんからの初めての御接待に驚いて断ってしまった。』
 『今は航路が廃止になった四国フェリーで未明の甲浦に降り立ち、暗闇の中を室戸岬までひた走り、道中のモルゲンロートに心洗われた。』
  『神峰寺の湧水は大変おいしかった。境内の手入れは隅々まで行き届き、つつじや紫陽花が 誇らしそう。奥さんの心こもる御接待に感激した。』
  『雪蹊寺では納経所のおばさんに聞いた長宗我部元親さんの話と、月峰さんの奔走の話。幕末・明治維新の頃は歴史の激動に翻弄されたのだろう。』
  『四万十川を越えて、延々と続く遥かなる足摺への道。崖にへばりつくような道を越えて、 天狗の鼻の絶壁の上にたち、太平洋の“水平弧”に見とれた。』
  『足摺半島の入り江ごとにある集落を繋ぐアップダウンの道で、“京都にいるときゃ~”と がなりたてながら、移動魚屋さんのトラックが走り回っていた。』
  『同じところの高台にある保育園で、孫のことを思い出していると、“皆さん~役場から御 用納めのご挨拶です”と有線のラウドスピーカーが鳴り出した。』
  『日本の海とは思えない内海からの宇和海の群青色。引き込まれそうな思いがした。その後 宇和島へ入り、宇和島水産高校へ向かって黙祷。宇和島での昔の仲間との出会い。』
  『内子町で見た日本の原風景。』
  『久万高原に一気に漕ぎ上がる。大宝寺、岩屋寺の粛然とした雰囲気。岩屋寺前の茶店で御接待でいただいた西瓜のおいしかったこと。気持ちのやさしいご夫婦だった。』
  『横峰寺は一度通り越してしまって断念、次回に登った。厳しい場所にありバスでは入ってこれない。静寂な山寺、早足で歩いて登れば遍路道に仁王門(ウェルカムゲート)。』
  『遥かかなたの稜線上に見える雲辺寺。殆ど自転車を押して登る。三角寺であったアゴヒゲ遍路さんに再び出会う。今は元気に暮らしているかな、教師に復帰しただろうか。』
  『崇徳天皇に縁の天皇寺高照院。何か鬱蒼とした雰囲気の寺。納経所でご婦人に御接待でバナナを二本いただく。おいしかった。』
  『第八十一番白峯寺からは”連れ合い”と二人で歩き遍路。全てが思い出。足の爪は剥れ、両方の小指は壊死のような状態。それでも何とか今ここにいる。』

  ふと、思い浮かぶシーンだが、私の思いは全ての寺に残っている。全部の寺が今でも鮮明に浮かび上がってくるし、様々な人との出会いもつい昨日のように思い出される。
 高徳線の汽車の中でいろんなことを“連れ合い”と話していると、天気予報の通り雨が降り出した。四国八十八ヶ所自転車遍路の旅の終章のカーテンのようだ。にわか雨のようであるが、台風が近いということで、気になる雨だ。十四時十五分時間通りに汽車は「板東駅」についた。雨はちょっと小ぶりになっているが、にわか雨のように降ったのだろう、あちこちに水溜りができている。私は、足が痛くてゆっくりゆっくりと歩を進め霊山寺へと向かった。普通なら十分とかからない道のりを二十分以上かけてやっとの思いで霊山寺へ辿り着いた。
  霊山寺は、たくさんの人たちで賑わっていた。ツアーで四国八十八ヶ所を回り、結願した人たちが本堂で集団で法話を聞いている。納経所ではこれから四国八十八ヶ所を目指して、お遍路グッズを揃えている若い女性や売店のご婦人に四国遍路の心得を聞いている中年男性、自動車でお遍路をしようとしている男性グループ等で賑わっている。そんな中を納経所へ行く。

  私
  「結願しましたので、納経帳に記帳をお願いします。」
  納経所の男性
 「おめでとうございます。お車ですか。」
  私
  「いいえ、区切り打ちですが自転車と歩きとで回りました」
  納経所の男性
  「それはそれは、どうもご苦労様でした。お接待させて頂きます。」

  そういって、お茶と饅頭を出してくれた。“連れ合い”と二人でお茶を飲み饅頭を食べていると、やっと肩の荷が下りたような、快い気分が体中に拡がる感じがしてきた。少しくつろぎ、本堂で記念写真を写し、再び板東駅へと向かうこととした。 足は、相変わらず激痛でとにかく引きずるような感じで、ゆっくりゆっくりと駅に向かう。ちょうど汽車が止まったのか、駅の方から霊山寺に向かって多くの人がやってくる。これから四国八十八ヶ所遍路の旅へ向かおうとしている人たちも結構いるようだ。外国人の男女も元気に颯爽と歩いてくる。それぞれに何を思い、なにを期してくるのかは心の中にあるのだろうが、四国曼荼羅の中に溶け込もうとしている人たちが次から次へとやってくる。
  十五時五分に板東駅にやっと辿り着く。十五時十五分発の徳島行きの汽車がホームに滑り込んできて、それに乗車。JR徳島駅に到着し、駅前ロータリーから大阪行きの高速バスに乗り、一路孫たちが待つ我が家へとひた走った。

 

   四国曼荼羅さようなら。また来ます…。  
                                     
                                       

                                                                                         (一旦完)

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四国88ヶ所 自転車遍路の旅⑳

2006-08-07 22:21:16 | 遍路
 四国88ヶ所自転車遍路の旅8-5 通産20回目です。結願(けちがん)目前でリタイアしようか路線バスに乗って結願(けちがん)しようか。

 ついに結願。ただし、歩き通せなかったのが大変心残り… JR高徳線で発心の寺霊山寺へお礼参り。走馬灯のように駆け巡る思い出

 二〇〇三年八月六日、いよいよ結願の日である。朝五時四十分に起床し、身支度を整え六時二十分に朝食を頂く。六時四十五分に「民宿ながお路」を出発し、 いよいよ結願の大窪寺をめざした。 県道三号線を、痛む足を引きずってただ黙々と歩く。足の浸潤液は止まることなく、朝に足を見た時はべっとりと血液混じりの浸潤液で濡れていた。マメができ た程度なら、五分も歩けばそれなりの「歩きのリズム」ができてきて普段どおりの歩きができるのだが、今回はどうもまずい。ますます痛みがひどくなり、ズキ ズキと疼く。
 もはやずり足で歩いても痛みがますますひどくなってくる。
 いろんなことが頭をよぎりだした。

 『リタイヤして、次回長尾から歩き直すか』
 『次回はいつか、年末か、来年の夏か』
 『こんな、単純なミスをしてただただ悔しい』
 『悔しくて情けなくて泣きたい気持ちだ』
 『自転車にしておけば良かった』

 等々が交錯する。 ついに、七時三十分、“連れ合い”に
 
 「もうだめ。歩けないので長尾の駅から大阪へ帰ろう。」
 
 もう両足が痛い。足を引きずるようにして、県道をUターンし長尾の町へと引き返した。八時過ぎに長尾に戻ると、琴電長尾駅の近くの県道に面して大川バス のターミナルがあり、ひょっとしてそこから大阪行きのバスが出ていないか聞きに入った。案内所の人は親切丁寧に対応してくれたのだが、ついでに大窪寺へは バスでいけるのかどうか訪ねてみた。するとなんと九時五分に、ターミナルから大窪寺行きのバスがあるとのこと。しかも、町からの補助金が出ており、百円で 行けるとのことである。折角ここまで来たのだ。“連れ合い”と相談し、いずれリベンジはまとめてするとこととして、今回はバスに乗って、とにかく結願を果 たそうということになった。そうすると、一番札所鳴門の霊山寺にもタクシーとJRを利用して行ってしまおう。時間表を見て、前山ダムサイトにある「おへん ろ交流サロン・へんろ資料展示室」にも立ち寄って、そこからタクシーでJR造田駅に行き、高徳線で板東駅へ、そして霊山寺へと、急遽行程の立て直し。
 タクシーの予約をお願いして、バスの待合室に移動した。九時五分発のバスを待っている間に、地元の若い女性に

 『御接待をさせてください』
 
 とペットボトル入りの良く冷えたお茶を頂いた。遠慮するわけにもいかず、ありがたく頂いたが、歩きとおせなかったことや、すばらしい信仰心があるわけでもないことやらで、気恥ずかしい思いがする。 九時五分の定刻に大窪寺行きのバスは発車し、長尾の町中を通り抜け、やがて前山ダムのダムサイトを通り、山の中へ。いくつかの集落や学校があり、バスの乗客も地元の人や小学生、中学生が七~八名、それぞれの停留所で乗降する。
 やがて、九時四十三分に大窪寺のバス停に着いた。 足を引きずって、バスを降りたらすぐ目の前が結願の寺、四国第八十八番札所「大窪寺(おおくぼじ)」である。バス停から少し回り込むと、大きくて立派な朱塗りの仁王門がある。仁王様も金箔を張った立派な姿である。
 ここから境内に入るとまず大師堂があり、その横に金剛杖の奉納場所があり、たくさんの金剛杖が納められている。本堂はまだ奥にあり、並びが不自然である のだが、実はこの仁王門は最近建立されたとのことで、昔の仁王門はちゃんと本堂の前にあり、後に女体山を従えた本堂を仰ぎ見られるようになっている。新し い仁王門はどうも観光客向けのセットのような感じがしないこともない。
 ともあれ、お参りを済ませ結願の納経帳への記帳を頂いた。“連れ合い”は私に結願の感想を求めてきたが、いろんなことが思い浮かび、まとまった思いが抽出されるわけではない。 感激というより、むしろやりのこしたことや後悔したこと、心残りなことが浮かんでくる。

 「最後に歩けなかったことが痛恨の思い」
 「次回は歩き(自転車でも良いが)で通し打ちをしたい」
 「焼山寺には次回には自分の足で登る」
 「もっとたくさんの人たちと出会い、触れ合いたい」
 「中抜けになっている薬王寺から甲浦の間を歩かねばならない」

 等などである。やりとおした充実感というものはなぜか余り湧いてこない。反省ばかりが心をよぎってくる。そんな気持ちを抱きながら、激痛の足を引きずって境内を歩き散策した。
 バス停に戻り、十時三十五分大窪寺発のバスに乗り、十時五十分に前山ダムで下車。ダムサイトの道の駅のレストランで少し早めの昼食にうどんを食べた。こ れで今回四国へ来て三回目の昼食だが、全てうどん。さすが讃岐の国だ。うどんが食べたくなる雰囲気がある。昼食後、「前山地区活性化センター」にある「へ んろ資料展示室」に立ち寄る。へんろの歴史とか、古文書も含めたくさんの資料が展示されている。ゆっくりと見学していると、ここでも御接待ですといって会 館の職員の方から缶ジュースを頂いた。

                          (続く)
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四国88ヶ所 自転車遍路の旅⑲

2006-08-03 22:48:16 | 遍路
 四国88ヶ所自転車遍路の旅8-5 通算19回目です。いよいよ、
 結願(けちがん)までカウントダウンですが、身も心もダウン寸前・・・

 
長尾寺への道は国道十一号線と交叉する交通量の多い県道三号線をひたすら南を目指して歩いて行く。最初の頃は志度の町並みで、県道の両側はコンビニやスー パーマーケット、商店、住宅などが並んでいたが、やがて高松自動車道の高速道路の高架を過ぎる頃からは、人家も絶えてくる。いよいよ激痛となってきた足 を、ごまかしごまかし歩く。木陰を探しつつ、排気ガスと照りつける太陽に辟易としながらもくもくと歩きつづけた。
 一時間ほど歩くと、県道か ら左手のほうに旧道が繋がっている地点に着く。旧道は遍路道となっており、そこを歩きやっと排気ガスから解放された。遍路道といっても交通量の多い国道や 県道を辿る道も結構多く、特に真夏の暑い季節には余り快適ではない。さて、旧道をしばらく行くと、玉泉院という寺の前を過ぎた。玉泉院の門前は、立派な藤 棚があり横手のほうには、第八十七番札所の長尾寺の奥の院との掲示が出ている。高校生ぐらいのグループが玉泉院の中に入っていったが、合宿でもしているの だろうか。
 玉泉院を過ぎ三十分ほど行くと、ふたたび県道三号線にぶつかるが、それを横切り、川の土手の上の道を歩く。標識が出ており長尾寺 までは二.三キロメートルとのこと。土手の道を一キロメートルほど行くと「へんろ橋」があり、そのたもとに「お遍路さん休憩所」の東屋がある。時刻は十五 時四十分。長尾寺まではあと一.三キロメートルであり、時間は余裕を持って間に合った(ケーブルカーと琴電のおかげか)ので、しばし休憩。少しすると若い 男性の歩き遍路さんが到着した。

  私
  「ご苦労様。一番から通し打ちをされているんですか。」
  遍路さん
  「いえ、私は家が松山で、松山をスタートして予定では一国打ち(それぞれの県ごと、四回に分けて回りきる遍路の仕方)で歩いています。仕事の都合で毎月人に合わねばならず、通し打ちはちょっとできません。」
 私
  「最近は、若い人が遍路をするのが多いですね。特にこんな真夏は年配の人はほとんど見かけませんが、そのかわり夏休みを利用してか、学生さんのような人も多いですね。」
  遍路さん
  「そうですね。先ほど志度寺で見かけられたでしょうが、自転車で遍路をしている学生さん。あの自転車はお接待で貰ったそうですよ。もっとも終わったら返しに行くといってましたが。」
 
  そういえば、志度寺を出発する時、ママチャリに荷物を一杯積んだ学生風のお遍路さんと挨拶を交わした。しかし、彼はもうすでに私たちを追い越してずっと先まで行っているだろうと思う。
 
  遍路さん
  「しかし、いろいろと話を聞いても、通し打ちの遍路さんは誰も仕事をしていませんよ。学生さんか、リストラに遭われた方、リタイアされた方などで、現職を持った社会人は通し打ちはおろか、区切り打ちでもなかなかできるものではないですよ。」
  私
  「それはそうだと思います。私は大学職員ですので、比較的長期間のゴールデンウィークや夏期休暇があります。だから今まで区切り打ちの自転車遍路ができたので、幸せなことだと思います。」

  お互いの今後の奮闘を励ましあって、男性の遍路さんは先へと歩き出した。 「遍路橋」を渡ると、長尾の町に入っていく。長尾の町は土壁の旧家があちこちに在り、古い町の雰囲気が残っている町である。町中をしばらく歩くと、第八十 七番札所の側門があり、正面の仁王門のほうに回り込むと本日の宿泊地「民宿ながお路」がある。「民宿ながお路」の前にご婦人が立っており、挨拶をするとそ の人が女将さんであった。
 荷物を置かせてもらい先にお参りとする。十六時十五分に第八十七番札所「長尾寺(ながおじ)」に 到着。梵鐘が吊るされた仁王門を入ると広い境内に本堂と大師堂がある。本堂の長押には立派で迫力のある龍が彫られており、この寺の個性がにじみ出ている。 お参りを済ませ納経帳に記帳を頂こうと納経所へ入ると、先ほどの歩き遍路さんがくつろいでいた。これ以上行動する気配は殆どなく、どうやらここに泊まるよ うな雰囲気である。
  「民宿ながお路」に戻り、早速靴下を脱いで足を見るとちょっと重症の感じである。右足の小指は爪が奥から剥れて浮き上がっており、しかも化膿している。浸 潤液が止まらず出血もあり靴下はどろどろ。指が白蝋化し壊死の状態である。左足の小指も、爪は剥れてはいないが浸潤液が止まらない。やはり壊死のような状 態。さらに両足とも親指のつけねから足裏にかけて「立派な」マメができている。よくこんな足で歩いてきたものだと感心しつつ、サイズのきつい登山靴を履い てきたことへの深刻な反省と、明日いよいよ結願への最後の旅をどうしたものかという不安が交錯する。
 ”連れ合い”のほうも数箇所に「立派な」マ メを作っている。ただ、マメだけなら何とかはなる。とりあえず入浴し、風呂から上がってバンドエイドで手当てを施した。その後、町に出て消毒薬やらバンド エイドを買い込もうと思い薬局を探したが、すでに閉店していて買えず。明日が気がかりである。「民宿ながお路」に戻り、夕食を頂いた後で女将さんに頼み、 消毒薬をわけてもらった。とりあえず、どうしようもないのでコインランドリーで洗濯後早々と就寝とした。 本日の歩行距離は約二十六.八キロメートルであった。     
                                             (続く)
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